厚着させたセーターを引っ張る。
ルックはうぅと喃語を発した。
きゅうきゅうに着膨れているルックの服を一枚ずつ丁寧に脱がせ、アスフェルはようやく部屋着へ更衣させることに成功する。
「はい、できました」
急に身を覆うものが少なくなったから寒くなったのだろう。
ルックはベッドから逃げるように移動した。
「……うん」
ありがとうとは言えなかったらしい。
暖炉の前、カーペットへ直に腰を下ろして、ルックは手を火にかざす。
揺らめく炎が壁にルックの影を映じた。
「聞こえたよ」
心の声が、と冗談めかして教えてあげる。
「何も言ってないんだけど!」
ルックは耳を赤く染めて俯いた。
ルックに着せたのは村の祭事で着用していたという民族衣装だ。
この村には標高の高い山麓で羊や山羊の遊牧をしていた昔の文化がまだ残っている。
だが、伝統を担うべき若者は都市部へ出稼ぎに出てしまった。戻るのは夏の数十日きりだ。
アスフェルも同じ民族衣装を着ていたが、やはり華やかな女性衣装の方が懐古の情を喚起させる。
もう着る者も少なくなった民族衣装を村人は懐かしみ、口々にルックを褒めそやしては若い衆の思い出話に興じた。
祭りは終始和やかな雰囲気であった。
「楽しかったね」
ぽつりもらした呟きに、ルックは頷いてくれたようだ。
さらりと流れた髪につい口元が緩む。
アスフェルにとって家族、親友、そしてルックがそうであったように。
ルックの心を楽しいことだけで満たしたい。
喜びで溢れさせたい。
アスフェルが自らに課した望みである。
ルックの目的は壮大で、ともすれば悲しい未来に押し潰されてしまいそうだ。
だからどんな時でもルックが笑えるように、アスフェルはいつも傍らへいたいのだ。
(ルックにとっては、未だにただのお節介男かもしれないんだけど……)
「本当にお節介だね、あんたは」
ベッドに散乱した二人分の民族衣装を畳んでいると、ルックが話しかけてきた。
「……口に出てた?」
「何が?」
「……いや」
動揺のあまり震えた肩を、巻きスカートをばさりとうち振ることで取り繕う。
暖炉にご執心のルックはこちらを振り向きもせず、あっさり追及を止めた。
火加減が気になるのか、暖炉の薪を火掻き棒で突ついている。
ぱちんと木のはぜる音がした。
「お節介だよ、あんた。僕が寒がりだから僕の方に多く着せて、僕が油っぽいの苦手だから七面鳥の脂身よけて僕にくれて、あんた残った脂ばっか食べてたじゃない」
「ちゃんと肉も食べたよ」
「本当に?」
ルックはいつもより低めの静かな口調で話す。
さらと掻きあげられた髪の隙間から、ほんのり色づく耳が見えた。
クリスマスの柔らかな雰囲気はルックの態度も溶かすようだ。
いつになく殊勝な態度は謝意の裏返しか。
それとも、シャンパンでほのかに酔っているからか。
「俺が自分を犠牲にすると思う? ふたりとも得するように考えるに決まってるだろう」
「……そうだね。なら、いいんだけど」
ルックは火掻き棒を暖炉の脇へ放った。
足を何とか暖めたいらしく、火の高さまで上げようと苦心している。
アスフェルは畳み終えた服をサイドボードへまとめた。
ベッドにぱらつく毛玉をさっと手で払う。
サイドボードの下へ置いていた買い物袋を枕元に乗せて。
ぱんぱん、と軽く手を鳴らした。
「じゃあ、ひとつお願いを、聞いてくれないかな」
ルックはまだ振り向かない。
「何なのさ」
「うーん、まずは」
ここへおいで、と言ってみる。
「そっち、寒いから嫌」
さすがにこれくらいでは動かないだろう。
もちろん次の策はある。
ベッドに足を広げて、アスフェルは毛布をちらつかせた。
「俺の膝ならあったかいんじゃない?」
今日のルックは聞き分けが良い。
三策目は必要なさそうだ。
やっと振り向いたかと思えば忙しなく暖炉とアスフェルとを見比べていた瞳がようやくこちらに定まる。
ルックは素直にアスフェルの足の間へ収まった。
素直と言っても向かい合わせで座ってくれるほど素直ではないので、アスフェルに背を預けるという妥協形である。
アスフェルはふたりの膝元へ毛布をかけた。
「料理、おいしかったね」
話しかければこくりと頷く恋人。
その背を抱いて、アスフェルはまだ冷たい後ろ髪へ鼻先をうずめた。
ルックの髪はいい香りがする。
同じシャンプーを使っているのに、愛ゆえの欲目か。
甘いような生温いような匂いを、アスフェルはくんくん鼻をひくつかせて嗅いだ。
一方、ルックは落ち着かないようだ。
毛布を何度も均している。
ついに首をゆるく振ってアスフェルの顔面を遠ざけ、枕元の買い物袋を指差した。
「靴下、飾らないの? どうせ買ってあるんでしょ」
「ルックにはお見通しか。幸せがたくさん入るようにって、大きいのを貰った」
「暖炉に飾るんだっけ」
ルックが立ち上がろうとする。
アスフェルはさっと抱きすくめて制した。
腹の前で手を組んで、しっかり閉じ込める。
「ちょっと……」
うろたえたルックは困ったようにアスフェルを見た。
かわいい。
あまりの愛らしさに吹き出してしまう。
眉間に皺を寄せたルックはどんとアスフェルの胸へ背をぶつけてきた。
ルック、それは余計かわいいよ。
アスフェルはルックを羽交い絞めにしたまま問う。
「あのね、クリスマスだから、飾りつけって大事だろう」
ルックは大人しくなった。
どう対処して良いか考えあぐねているようだ。
ややしてアスフェルの不可思議な台詞にふて腐れた声音で返した。
「……だから?」
「だからね、用意したんだ。ルックも飾りつけしない?」
ルックはきょとんとこちらを見た。
「僕に? 飾りつけ?」
「そう。飾りつけ」
「……あんた馬鹿?」
ルックは呆れ返った声を出した。
馬鹿らしいともう一度言って、アスフェルの腕が振り解かれる。
追いすがるアスフェルの手もぱしんと叩いて払い除けられた。
「いいから靴下飾りなよ」
ルックは枕元の買い物袋を逆さに持った。
一気に、袋の中味をベッドへ散らした。
明らかに履くためではなく飾るための、毛糸で編まれた、白地に模様の入った靴下が一足。
ふたりで片方ずつの配分だ。装飾用なので普通のものより一回り大きい。
そして部屋で飲もうとしていたシャンパン。ワイングラスは売っていなかったため代用としてマグカップ。
酒の肴はルックの好きなチョコレート。
上等な本柘植の櫛。
肩より少し伸びたルックの髪をきれいに結わえて飾ってあげようと買った、白いリボン。
最後に、小さな箱が転がり落ちた。
「何? これ」
ルックが無造作に箱を開ける。
アスフェルは声を上げかけたが、手遅れだった。
紺色の起毛で装飾されたケースは手のひらに収まるサイズである。
中を手に空けて、ルックはそれを指でつまんだ。
「何、これ……」
ルックは繰り返した。
細い鎖。
首にかけるサイズ。
アスフェルは苦々しい顔をしてしまう。
ルックは気づいて訝しげな目を向けた。
「怒らない?」
先んじて言えば、「場合によっては怒るよ」といつも通りのルック。
アスフェルは懐から指輪を取り出した。
「いつか、渡せると思って……だいぶ前に買ったんだけど。ルック、指輪なんて付けてくれないだろう。だから、鎖を通したら抵抗が少ないかと」
「……馬鹿」
ルックはそっぽを向いた。
横顔を覗き込めば、暖炉に照らされてか橙色の頬がある。
ルックは鎖を握り締めたままだ。
アスフェルの手の甲に鎖の感触が当たって、アスフェルは堪えられなかった。
お願い。
ルックの頬の側で囁く。
「付けなくていいから。ずっと道具袋の底でいいから。……もらってくれないかな」
「嫌」
「好きな人には指輪を贈るんだよ」
「知らない」
「ルック、愛し」
「ずるい!」
ルックは突然叫んだ。
ベッドのスプリングが呼応するかのようにぎしりと軋む。
ルックは双眸を潤ませた。
「あんたは、いつだってお節介だ! そうやって僕が安心するように、ほしいものは何でも言う前にくれて、何もほしくなくても何でも探してきて! 僕はあんたにもらった耳飾りさえ付けられないのに……僕は何も返せないよ! もらうばっかで、あげられるものなんて僕には何も!」
「ルック……」
そんなことを、考えていたのか?
ルックの自己否定癖はよく理解している。
だから、そんなに己を卑下しなくていいと気づいてもらいたい。
たくさんたくさん褒めて甘やかして。ルックがいなきゃ何もできないアスフェルの、ルックがいれば何でもできるところを見せつけて。
たくさん言葉を贈って、それでも足りないからたくさんプレゼントを贈って。
……ルックにはそれすらも負担なのか。
アスフェルが何をしてもルックを困らせる。そんな錯覚に陥りそうだ。
ルックはゆがめた顔を俯けた。
鎖をアスフェルの手の甲へそっと乗せる。
しかし次の瞬間には、散らかっていたベッドから靴下をもぎ取るように掴んで飛び降りていた。
「ルック!」
アスフェルは鋭く呼んだ。
だがルックは聞く耳など持たない。
裸足のまま床を横切って、窓際に寄せておいたルックの荷物から何かをまさぐる。
出したのは下着の着替えで、間をおかずテーブル下の収納棚から荒々しくタオルを引き抜いた。
「お風呂、入ってくるから!」
暖炉の上へ靴下を叩きつける。
暖炉前へ脱ぎっ放しになっていたスリッパを突っかける。
「ルック!?」
「ついて来ないで!」
ルックはまるで突風のように勢いよく部屋を出て行ってしまった。
ばたん。
遅れて扉が閉まる。
ノブが回されたきり弛んでいる扉は、きちんと閉まりきらないで何度か開閉した。
「ルック……」
アスフェルは呆気にとられて手元を見る。
銀の鎖。
今日巡回した村人から薬代として貰ったものだ。
そう値の張るものには見えない品を、その女は大切そうにしていた。
きっと記念だったり宝物だったり、思い出のものだったのだろう。
若い人に使われる方がいいと言われて、アスフェルは何か曰くがありそうだったのに聞けなかった。
鎖を箱にしまう。
ついでに指輪も同じ箱へ。
売り払って旅費の足しにするのは簡単だったが、女の顔を見たらそうもいかなかった。
それならルックにずっと持っていてもらうのが良い。
指輪と一緒に渡せたら一石二鳥だし、ルックの身を飾るものなら、自分が持つよりずっと大切にしてあげられる。
そう、思ったのだけれど。
「俺って、とことん甲斐性なし、かなあ……」
逃げられた手を持て余す。
隙間風の吹き込む扉をきちんと閉めようと、のろのろベッドを立った。
ふと目を上げれば暖炉の上、ルックが置いていった一対の靴下。
荒っぽさの割にきちんと揃えて並べられている。
「……?」
片方だけ、何か口から出ていた。
小さい光。
靴下の爪先を持って逆さ向けた。
小さい楕円がふたつ、ころと手に落ちた。
アスフェルは目を瞠る。
見覚えがあるどころではない。
因縁も執念も全部見てきた光。ともに歩んできた光。
「耳飾り……」
アスフェルは無意識に己の耳を弄った。
今この時もアスフェルの両耳にあるのは、ルックが初めてくれた贈り物だ。
くれたというよりは半ば強引に奪い取ったが、どちらにせよアスフェルのためのものだから贈り物に違いない。
大きなダイヤモンドの耳飾りである。
それより先にルックへ贈ったこの耳飾りは、石が偶然にも揃いのダイヤだ。
ただアスフェルと違ってルックの耳朶を飾ることはなく、一度捨てられ、二度目は荷物の底に押しこまれたままだった。
さっきルックが荷物を漁ったのは、きっとこれを取り出すためだ。
(何のため?)
アスフェルはゆるゆると思考を巡らす。
――もらった耳飾りさえ付けられないのに。
ルックは確かにそう言った。
そして逃げるように部屋を出た。
ルックがどこまでも素直じゃないのは自分が一番よく了解している。
ルックの気位は天より高く、ルックの矜持は剣より鋭い。
そんなルックが、こんな小さなものひとつを、羞恥や意地が邪魔して付けられないとあんなにも悔やみ続けていたなんて。
それでも捨てないで失くさないで、ずっと持っていてくれたのだ。
そして、ルックにとっては苦痛でしかなかったはずのものを、クリスマスの靴下へ、天使の福音を授かる器へ入れてくれた。
その心は。
――あんたが僕に、無理やり付けて。
(と、読んでいいのかな)
そう受け取っても構わないはずだ。
いつだって、欲しいものをこっそり示してくれるのはルックなのだ。
アスフェルは少ない情報から最善を尽くすのみ。
よくよく素直じゃないところがルックらしい。
……愛しい。
耳飾りを握り締めてみる。
ほのかに温かい気がする。
「どうせ、ひとりじゃ髪も洗えないくせに」
アスフェルは柔らかく笑んだ。
ルックの「風呂」は、迎えに来いと同義だ。
「ルック、聞こえたよ」
心の声が。
言いたくても言えないってことまで、ちゃんと分かったよ。
好きだから、分かるんだよ。
アスフェルはテーブルの下を見た。
タオルは二枚なくなっている。
あの瞬間でよくそこまで気が回ったものだ。
どうしようもなく、いとおしい。
アスフェルはスキップさえ躊躇しかねない朗らかさで、いそいそと風呂場へ向かったのであった。