張り詰める空気。
尖った殺気が生む絶対零度。
いっそ灼熱なまでの凍結。
完全に、空気が静謐である。
それがふと揺らいだ後、ぎぃんと強く震えた。
渾身の斬撃が重い唸りを伴って空間を裂くように肉薄し、踏み込む足の擦れる音がぎちと鳴る。
余人の立ち入る隙はない。
激しい音を立てて、ふたつの武器は衝突した。
と思いきや凶器はすと引かれ、間を置かずに迫る次の突き。
先ほどはかろうじて受け止めたものの、未だ強烈に腕が痺れている。
飛び退って石突を避け、宙に浮いた姿勢から加速をまとってトンファーを叩きつけた。
がきん、とまた空気が震える。
互いの獲物を噛み合わせたまま、アスフェルは魔神のように凄惨な微笑を浮かべた。
「言い訳無用。悪鬼成敗」
本拠地、道場。
審判を仰せつかったモンドが蒼白な呆け顔を晒している。
一見リツカの鍛錬のため手合わせをしてあげるといった風に始まった試合は、もはや誰から見ても明快に確実にはっきりと、ある思念を撒き散らしていた。
すなわち、私怨。
それは怨念となり憎悪となって、恐ろしいまでの憤怒に端整な顔立ちが彩られていた。
黒曜の双眸は、蛇がとぐろを巻くように毒々しく渦巻いている。
真の恐怖を駆り立てる神々しい笑みが、最後通牒としてリツカへ向けられた。
「いくらかわいい後輩でも、ぐちゃぐちゃに弄り殺したくなるものなんだね。こんなにも迷いのない殺意は初めてだ。とにかく真っ赤な血が見たい」
アスフェルはわざと聞くに堪えない語彙を用いてみせた。
モンドだけでなく、たまたま訓練中であった兵士や、たまたまモンドを手伝っていたロッカクの忍者達、たまたまストレッチに来ただけのハウザーやたまたま武器の手入れに来たツァイらが、皆一様に直立する。
道場を飲み込んでまだ飽き足らない闇へ、脊髄が取り込まれたようだった。
リツカは必死で棍から加えられる圧力に抗う。
「アスフェルさん……落ち着いて下さい」
掛かる重心が、ふいにずらされた。
リツカのトンファーが滑ったところを棍で思い切り殴られる。
咄嗟に身を捻った。
腹の前で合わせたトンファーを盾にする。
ぎりぎり急所への直撃からは逃れたが、それでもトンファーが鈍い音を立ててひび割れ、リツカは後方へ吹っ飛ばされた。
兵士の一人にぶち当たる。
さらに後ろへいた兵士らともども、もつれ込むように転倒した。
「った……」
何とか受身を取って起き上がる。
アスフェルは悠然とこちらへ来るところであった。
「リツカ、どうして欲しい? 心臓は最後に取っておこうと思うんだけど、足から折り取るか腕からか、まだ決断がつかないんだ」
「どこも取ってほしくないんですが聞き入れては」
「くれないねえ」
「どうすれば許してもらえるんですか?」
「許すって何? 知らない言葉だなあ。ああ、早く息の根を止めて欲しいってことかい? それは叶えないでもないよ。首から刈り取ってあげよう」
「うわあああごめんなさいごめんなさいごめんなさい!!!!!」
リツカはなりふり構わず土下座した。
額を床に何度も打ち付けて寛恕を乞う。
「一週間おやつ抜きでも我慢しますから!! 一ヶ月でもいいし、大好きなみかんも食べません!! アスフェルさんが言うならぼくこの軍全員丸刈りにしてもいいです!!!」
モンドがそれは嫌だ、と呟いた。
途端に飛んできた短刀が、モンドのもみ上げを半分落として壁へ刺さる。
アスフェルはリツカの手前へとんと棍を突いた。
「じゃあ、どうしてもらおうか。俺の怒りがちょっとやそっとじゃ収まらないって、分かっているよねえ」
「ええと……ほらっ、今ぼく血出てますよ、おでこすっごい痛い!! だからこれに免じて」
「これくらいやらなきゃ血はそんなに出ないよ」
アスフェルは遠慮の欠片もなくリツカの頭部を足蹴にした。
靴の踵でぐりぐりと床になすり付ける。
兵士がひいっと喉を鳴らした。
「リツカ。たかが死くらいで清算できると思ってないか?」
アスフェルは本気である。
十分後か一時間後かには本当にナナミと同じところへ逝けそうだ。
リツカは奇跡を祈った。
アスフェルを止められるのは一人しかいない。
図書館に寄ったついでとかで、一瞬でも近くへ来てくれていたら。
リツカはまだ痺れの取れない右手の、輝く盾の紋章へ、できる限りの力を注ぎ込んだ。
もっと強く、もっと甲高く。
意外と心配性な彼が来てくれるように。
リツカは固く目を瞑った。
助けて……!!
清浄な風が、吹き抜けた。
「アスフェル」
祈りが届いたのか。
澄んだ声が凛と響いた。
リツカの紋章を風が宥め、ついでにアスフェルの右手から垂れ流される負の魔力も拡散された。
風は緩やかに巡る。
涼やかな爽風が道場をさらりと癒した。
極度の緊張に竦んでいた兵士たちがどてっと尻餅をついた。
入口で眉間に皺を寄せているのは、小柄な風使い。
「ルック……」
びっくりするくらい穏やかに凪いだアスフェルの、飾り気のない呟きが漏れた。
リツカは力の抜けたアスフェルの足をどかして、こっそり顔を上げてみた。
逆光でルックの表情はよく見えない。
ルックはつかつかと二人のもとへ歩み寄る。
「シュウが会議だって」
端的に言うと、ルックはリツカに手を貸した。
ぐいと引っ張られてリツカは身を起こす。
アスフェルのすとんと憑き物が落ちた顔を窺って、リツカはとりあえずえへへと照れ笑いした。
血の滲む額にルックは顔をしかめたようだ。
右手をリツカにかざし、人差し指をくるりと動かして風を呼んだ。
ひりひりしていた痛みが消える。
ルックはそのままリツカに目もくれず、アスフェルを睨み上げた。
「あんた、何やってんの」
えらくドスの効いた声である。
アスフェルは丁寧に微笑んだ。
その左頬めがけてひゅんと風を切るような音が鳴って。
「馬鹿!」
ばちーんと、盛大に平手が飛んだのであった。
今度という今度は本当に死にかけた。
すたこらと一人道場から離脱して軽やかに急ぐ、リツカの独り言である。
会議に行くのがこれほど心軽かったことはない。
うきうきと鼻歌なぞ歌いながら、リツカは兵舎内を中央ブロックへ突っ切っていた。
テツの最新作として披露された混浴露天は、本拠地へ突如として降ってわいた大問題であった。
男性側は、喜ぶ者ももちろんあれど、実際は戸惑う者の方が多かった。
同盟軍はうぶな男が多いのである。
そして女性陣は持ち前の適応能力を遺憾なく発揮した。
星空がよく見えるといたく好評、自分たちの入浴する時にちゃっかり男湯を閉鎖して楽しむ者まで出る始末である。
ついにテツが男性専用の入浴時間を決めたのだが、これがまた女子供の我侭で一日一時間しかなかった。
たった一時間で全員入りきれるわけがない。
そこでリツカの思いついたのが風呂付個室である。
風呂のある部屋を持っているのは中央ブロックに居室がある幹部連中と兵舎の一部。
機密書類のある部屋が多かったから、リツカは一般兵を優先的に銭湯へ回し、口の固い者や事情を知っている頭領格をそれぞれ風呂付個室へ割り振ったのであった。
ルックの部屋だけでなく、ユニットバスはどれも数人の男性で使いまわした。
おかげで水の節約にもなり、リツカにしては非常に気の利いた名案だったのだ。
数日後、風呂の改装を終えてから城内にきつく口止めしてアスフェルを迎えに行ったのだが。
さすが魔神アスフェル、地獄耳である。
「だって仕方ないじゃん」
リツカは不平をこっそり吐き出した。
確かに最初ルックと一緒に入ったのはリツカの非である。
でもあの時はちょっと寂しくて、年の近い誰かに構ってもらいたかったのだ。
それにルックはああ見えて優しいところもあるから、ちゃんとリツカの分の紅茶も淹れてくれた。
お礼代わりにリツカがポケットへ隠していたチョコレートを半分こして、ちょっと喋って。
でもルックは眠そうだったからすぐに退室したのだ。
第一、いつも遠征の後はみんな一緒に風呂へ入っていたのだから、今さらルックと同じ湯船へ浸かるくらい大したことでもないではないか。
「……あ」
リツカははたと気づいてしまった。
チョコレートは先にルックが半分噛んだ。
そして残りをリツカが食べた。
もしかして、アスフェルが怒っていたのは。
「……間接キッス?」
「どうされました、リツカ様?」
つい口に出ていたらしい。
大人びた単語を耳聡く拾ったカミューがリツカを呼び止めた。
騎士団は薪割りのようだ、とリツカは思っている。
すぱんと割り切る思い切りの良さが似ている。
また、迷いのない太刀筋も。
たかが間接何とやらくらい、カミューなら平然と流すんだろうとリツカは口をへの字に曲げた。
「先ほど道場で地鳴りがあったようですが、関係していますか?」
「大当たり! ぼくまで嫉妬されたらもう、はっきり言ってやってらんないよね!」
「恋とは狂おしいものですから」
「あれは狂人だよー」
「かの御仁に聞こえますよ」
「えっ!」
リツカは慌てて両手で口を覆った。
こそと目の端で人影が動く。
カミューがリツカの髪を整えるふりをして近付き、リツカへそっと耳打ちした。
「あの方の間諜です」
「……信者?」
「とも言いますね」
「うっそここぼくの城じゃないのー、ぼくアスフェルさんのことかなり尊敬してるのにこの仕打ちって何?ひどくない? やっぱりアスフェルさんはただの人間じゃないんだよ、悪を統べる大魔王だったんだ!」
リツカはへにょりと首を垂らした。
萎れた子兎のようである。
カミューはリツカの腰へ手を添えた。
「今から会議でしょう、私もですから同伴いたしますよ。せめて会議室までは守って差し上げます」
「うううううありがとカミュー」
「お気遣いなく」
どん、と地面が揺れて、道場の方から爆発音が聞こえた。
見る間でもなくアスフェルとルックである。
どうしてあの二人は会うたび喧嘩になるのか、考えたくもない。
とにかく今回のように自分へ火の粉がかからなければそれで良いのだ。
しばらく放っておくに限る。
リツカは明晰な判断を下して、さっさと会議室へ向かうことにした。
チョコレートの包み紙までチェックする英雄の抜かりなさは、後世それもまた美化され逸話のひとつになる。
そして一応対等に渡り合った少年として、リツカの名も長く語り継がれた。
デュナン統一国の建国譚を紐解くと、このように聞いていて飽きないものばかりである。