ハニーびんた





そんな勢いで叩いたら、きっとルックの手のほうが痛いのに。

ルックとは今までいくらでも喧嘩ばかりしてきたが、さすがに平手打ちは初めてだ。
唇を噛んで睨み付けてくるルックの、心なしか潤んでいるような瞳を、アスフェルはまじまじと覗き込んだ。
アスフェルは打たれた左頬を押さえもしない。
腕力のからきしなルックにいくら叩かれてもそう痛くはないのだ。
ただしじんわり火照った感覚がするから、きっと頬には手形が浮き出ているだろう。
「ルック」
アスフェルはひたすらルックを見つめた。
一対の翡翠を縁取るのは対称的な二色だ。
怒りと、悲しみ。
前者は何となく心当たりがある。
だが何故悲しげな目をしてみせるのかアスフェルには見当も付かない。
ルックはもう一度「馬鹿」と呟いた。
「あんたが僕をそんな風に思ってたなんて、知らなかった」
ルックは右手をわきわきと開閉した。
指先が赤らんでいる。
アスフェルは思わずルックの手を握り込んだ。
「痛いだろう」
「放っといてよ」
ルックの拳は、一回り大きいアスフェルの左手のうちでぎゅうっと固められてしまった。
アスフェルは空けた右手で労わるようにそっと撫ぜる。
無造作に離された棍がからんと倒れた。
「天魁星に手を出すのも許しがたいけど。結局あんたは、そうやって何でも自分の思い通りにしないと気がすまないんだ。僕のことだって」
「ルック、何を」
「知らないとは言わせないよ!」
ルックは己の右手をアスフェルからもぎ取るように奪い返した。
再びアスフェルに向かって平手が振り上げられる。
アスフェルは難なく受け止めた。
ルックはぎりとアスフェルを睨んだ。
まだ痺れているのだろう、掴んだルックの指先が熱い。
アスフェルはさっきよりも強く握り締めた。
「何を?」
ルックは右手をアスフェルの頬のあたりへ掲げた姿勢のまま、アスフェルに握られて動かせない。
しばらく抵抗を続けたものの、アスフェルがびくともしないと悟るやしぶしぶ力を抜いた。
「わからないなら教えてあげる。僕にくれた石鹸」
石鹸。
ルックは言いたくなさそうに、それでも明瞭に発音した。
石鹸といえばひとつしか思い浮かばない。
アスフェルが最近ルックへあげたものである。
その石鹸はグレッグミンスターの交易所で見つけた。
見た目は乳白色の四角い固体で、そう高価なものでもなく、ごく一般的な形状だ。
鼻を近づけると甘い柔らかい香りがした。
まるで蜂蜜に練乳を落としたような、とろける匂いである。
そして糖度の高い芳香でひらめいたのはやっぱりルックの横顔。
売り文句である弱酸性の文字も、デリケートなルックの肌に合いそうだ。
そう思ったらいてもたってもいられず、つい買ってしまったのだった。
丁度ルックは自室を風呂付個室に移したばかりで、風呂用具がまだ何も揃っていなかった。
渡すには最適なタイミングである。
しかし石鹸だけを贈り物と言ってもどうせ突っぱねられるだろうから、とりあえず他に風呂桶だのスポンジだの必要そうなものをまとめて買った。
そして軍の配給のような素振りをして押し付けたのであった。
「それくらい、俺が買ったか備品係が買ったかの違いだろう」
「じゃあ何であれなのさ!」
ルックはヒステリックに叫んだ。
アスフェルは首を傾げた。
「何か変だった?」
ルックは悲しそうにアスフェルを見上げた。
手中に収めたルックの右手にいきなり魔力の炎が灯って、アスフェルはぎょっとする。
とっさに手を離し、脇へ転がしていた棍を拾った。
ルックは凄まじい力を練り上げた。
「ミューズではあの石鹸が飛ぶように売れたんだって、あの、『四角い夫婦仲も丸くなる石鹸』!!」


どん、と地鳴りが響く。
暴風がアスフェルを襲った。
通常の軽く十倍はあろう、手加減など一切の配慮が欠如した特大切り裂きである。
アスフェルは天牙棍に宿しておいた風の紋章で、ルックの放った風を防ぎ切った。
「サスケ!」
弾かれた魔法がサスケの方へ飛び火する。
モンドの声に身を翻して間一髪、サスケの逃げた後の床が激しく抉られた。
「っぶねェ!」
サスケはぎっとルックの方を睨み付けた。
もちろん、ギャラリーの安全などルックの眼中にはない。
中央でバトルをおっ始めた二人、入口向かって右側に身を寄せ合う訓練中の兵士たち。
武器の手入れをしていたツァイは兵舎へ繋がる右の通路で縮こまっており、ハウザーは中央奥で審判をしていたモンドの斜め左後方で腕立て伏せの姿勢を崩すことも忘れている。
そもそも道場で騒ぎが起こる発端となったはずのリツカはといえば、この状況で自分だけうまく退避したらしく、どこにも姿が見えなかった。
サスケは同じように隣へ避けてきたカスミとともに、人命を死守すべく、左右へ散って常に懐へ忍ばせている守りの天蓋の札を発動させた。
淡い光の壁が道場の中央を覆い込むように広がり、ルックが再び放った容赦のない切り裂きを何とか霧散させた。
「てめ、加減しろよチビ!」
サスケの罵詈も当然耳に入らない。
ルックは不機嫌そうな愁眉をさらにひそめて言い捨てた。
「相変わらず手先が器用だね」
アスフェルは棍をくるりと肩に回した。
本来なら魔法はじきの確率は五パーセントだが、アスフェルなら自在に紋章の付加能力を引き出すことが可能である。
二十回のうち一回しか発動しない性質は変わらないので、タイミングを調節してやるのだ。
ルックは頭を振って再び集中に入った。
薄目でアスフェルを見据える。
「あんたには今度こそ、本当に、ほとっほと、愛想という愛想がすべて尽き果てたよ。以前にも増して猛毒噴射がお得意な迷惑千万害虫になってるようだから、いい加減僕が葬ってあげる」
アスフェルはルックが魔法を放つ寸前を見計らって棍を軽く薙いだ。
ルックは身軽にひょいとかわした。
軽く地に足を着け、右手に重ね付けている旋風の紋章と左手に宿している土の紋章を同時に開放する。
ルックの両手が燦然と輝いた。
ルックは壮絶に綺麗な笑みを浮かべた。
「さよなら、アスフェル。風烈牙!!」
右は嵐が巻き起こる。
左は地盤が隆起する。
天地が一体となって猛然とアスフェルへ襲いかかった。
守りの天蓋に擦れた波動がきんと嫌な音を立てる。
アスフェルは体勢を低め、小さく笑んだ。
既に右手を起動させていたのだ。
「裁き」
ソウルイーターから闇が膨れ上がった。
闇は高密度に凝縮し、ルックの魔法を囲い込んで相殺する。
大きな力がぶつかり合った。
道場は震撼した。
ハウザーが慌てて近くの兵士に退避命令を出すが、もう遅い。
守りの天蓋をあっけなく破壊し、道場の屋根を吹き飛ばして、拮抗するふたつの魔球は大爆発を起こした。
本拠地西隅に、火柱が立った。





中央ブロック二階、会議室。
今は正面に口を開けたコの字型に長机が並べられている。
南中央に座るリツカは顎を上げて首を伸ばした。
会議室は北側面に同盟軍の旗が飾られており、それ以外の面はすべて大きな窓が設けられている。
リツカが目線を飛ばした西側の窓からも状況は充分確認できた。
リツカは深い溜息を吐いた。
「ねー、何でルックまでどっかイっちゃってんの?」
シュウが目頭を押さえ、テレーズが苦笑いをする。
さささと電卓を叩いたフィッチャーが損害額の概算を提示した。
フリードが頭を抱え込んだ。
無視されかかったリツカの虚しい問いへ、小難しい顔をしていたジェスが、ぽつりと答えた。
「私が……ついさっき、うっかり……」
「えっ、何! ジェス何やらかしたの!」
リツカが身を乗り出す。
コ型の最端、入口に近い席のジェスからは道場の惨状がよく見えるのだろう。
ジェスは自白した。
「銭湯の騒ぎで、私はルックのユニットバスを使わせてもらったのだが……。その、石鹸が」
「あー、あのいい匂いのやつだよね、アスフェルさんが買ってきた」
リツカの口から件の英雄の名が出される。
ジェスは凍りついた。
「……間違いなくそれだ……。ミューズで流行したものに似ていたので、先ほど図書館で会話の種にしたのだが……」
ジェスは苦渋の表情を浮かべた。
リツカはシュウにたしなめられながらも長机の上に膝を乗せた。
「何なのあれ」
「『四角い夫婦仲も丸くなる石鹸』。四角い石鹸が丸くなれば、角が取れる、つまり癇癪が収まる。夫が妻に贈るだけでなく喧嘩した恋人用にも大人気で……」
「……バレンタイン商法ですね」
アップルが解説した。
某国でチョコレートの売り上げを伸ばすため海外の逸話に便乗したことから始まる、非常に賢い商売手段である。
つまり、ミューズの交易商が石鹸に付加価値をつけるため妙なおまじないをでっち上げたのだろう。
リツカが腑に落ちない顔で手を挙げた。
「しつもーん」
「許可する」
シュウが教師よろしくリツカを指差す。
リツカはぴんと背を伸ばして長机の上へ立った。
「旦那さんが奥さんにあげるものなんでしょ? じゃあもらったルックが奥さんで、旦那さんはもちろんアスフェルさんってことにならない? それってアスフェルさんのちょー遠回しな告白じゃない??」
「ええっ!?」
免疫の薄いマイクロトフが、リツカのすっとび論法を真に受けて、泡を食って立ち上がった。
リドリーの顔もわずか紅潮している。
シンが冷静に首を振った。
「といいますか」
答えたのはテレーズであった。
「単純に、女子供扱いされたことに怒っておられるのでは」
おぉ、と、一同納得に声が漏れた。
ルックは正面から見るときちんと男の顔である。
目鼻立ちはそう華美でもないし、輪郭もシャープな鋭角。
血色の悪そうな薄い唇や神経質そうな目元などまったく女らしくない。
しかし背格好が、いつもの法衣を着ていなければ男に見えないのである。
雰囲気が繊細すぎる。
ほっそりした体つきや癖のない髪は、後ろから見ると実にたおやめなのだ。
そして、本人はそれを異常なまでに払拭したがっている。
一度など、ピコにアンネリーと間違われたのがいたくご立腹だったらしく、全治半月の怪我を負わせたくらいだ。
姫、などと呼んで殺されないのはアスフェルくらいのものなのだ。
……代わりに周りの建物や通りすがりの他人へとばっちりが及ぶだけで。
会議室には、それなら仕方ないと諦観ムードが漂いだした。
リツカはこれからテッサイに修繕してもらわねばならないトンファーを持ち上げて、ほらほら被害者、とアピールする。
「ぼくそんなことでここ壊されたらたまんないんだけどー! こないだなんか、せっかく豪華なホールにしようと思ってジュドにお願いした石像まで壊されたんだよ! ジュドはまだ作りかけだったからちょうどいいとかって、もう、あの二人に気を使うくらいならぼくにもっと優しくしてよー! 実はあの設計図気に食わなかったとか言われてぼく洛帝山まで取りに行かされたんだからー!」
リツカはぐだぐだ嘆き始めた。
シュウが強引に話を締めくくった。
「英雄対策を早急に行うこととする。担当はリツカ殿、ジェス殿」
「何でぼくがー」
「では本題に戻ろう、ルルノイエの攻略に関してだ」
「何でぼく」
「黙りなさいリツカ殿」
「……ぅぅ」
リツカは長机の上にうずくまった。
カミューがその腹を抱え込んで下へ降ろす。
リツカはころりと表情を変えて席に着いた。
戦争終結まで、あと一月。
ともすればぎしぎしになりそうな本拠地の強張りは、こうしていい具合に解けていたのかもしれない。
道場を直すだけにしても、何か戦争以外にすることのある方が城内は活気付く。
あのふたりが緩和剤になっているのは否めないだろう。
道場は野次馬の喧騒やムクムク消防隊の放水で賑やかそうであった。
リツカは少し口元を緩めて、傷のなくなった額を触る。
多少金額が張ろうとも、ね。
口中でのみ呟いて、リツカはにっこりと笑った。

すべては英雄の美談となるのが関の山である。







「指先の痺れ」続編です。
…あれ?
指先が痺れてるひ弱なルックとよしよしする男前な坊様が書きたかったんですよ?
どうしてこんなことに…orz

一話でも十分馬鹿らしく楽しめる微妙な感じに仕上がっておりますが、できればこちらから先にお読み下さるともっと馬鹿らしくて楽しめるかもしれません。
「無意識の甘やかし」へ→ 「指先の痺れ」へ→

20051205