無意識の甘やかし





ぬるめの湯を張る。
七分目くらいになるまでの間、しつこく手で触って温度を確かめた。
熱くない。
ルックは手早く脱いだ着衣を畳み、そっと浴槽へ足を差し入れた。
ちょうど人肌くらいのお湯が冷えた足先をぬくめる。
痺れるような感触。
ちょっとずつ温かさが皮膚のうちへ沁み込んでゆくようだ。
ルックはゆっくり肩まで体を沈めた。
湯気が髪を包んで湿らせる。
手で湯を掬い、首筋へ掛けた。
「……気持ちいい……」
トランの英雄が勝ち取った風呂付きの個室で、冷え性のルックはかじかむ四肢をぬくめるのが日課となっていた。





話は今月上旬に遡る。
ロックアックスを落とす直前、例によってイベント好きな都市同盟軍はトランの英雄を招いて模擬試合を開催した。
発案者はもちろん天然傍迷惑姉弟であるが、それがちょっとしたお祭り騒ぎにまで発展したのは、馬券ならぬ賭け券により同盟軍の資金と自身の懐具合を潤そうとした鬼軍師の采配である。
試合は迅速に滞りなく最終戦まで進み、同盟軍のリーダーであるリツカが鮮やかな勝利を決めて城内は沸き返った。
同盟軍の士気は鰻登り。
その勢いで、無事ロックアックスを占領することができたのであった。


無事、というのは語弊か。
リツカにとっては戦う目的そのものであり唯一の価値基準であった義姉ナナミが、城内でリツカを庇って死んだのだ。
リツカは気丈に振る舞い、涙のひとつも見せなかった。
頑張るよ、大丈夫だよと、ひたすら笑顔であり続けたのだ。
幾千もの命が己の双肩に掛かっているという事実をリツカは自覚している。
だから例えリツカ自身に戦う意義が無くなったとしても、リツカは戦場を離れるわけにはいかないのだ。
都市同盟の領土はほとんど回復させた。
残すはハイランドの皇都ルルノイエのみ。
最後の戦に向けて念入りに準備を行う軍内では、葬式を挙げるどころか、遺体を丁重に葬る暇もない。
リツカは耐えた。
ナナミは他の兵士たちと同じく荼毘に付されたらしい。
「らしい」というのはリツカの知らぬところでシュウが画策していたからであるが、この時リツカは、そしてルックを含め城中のすべての者が、それを知らない。
ナナミを喪っても尚立ち上がるリツカの姿に、同盟軍はまさに一心同体となった。
ルックは苦々しい思いでそれらを傍観していたのであった。





「ルックー!」
がちゃがちゃと、遠慮なく部屋に押し入る音がした。
「ルックー! あれ? ルック、お風呂?」
いくら鍵をかけていても、城内すべてのマスターキーを持つのはリツカである。
最も危険な人物に最も活用しがいのある道具が預けられているわけだ。
リツカは当然のようにルックの部屋へ無断侵入し、さらに風呂場の扉をばたんと開けた。
ルックは首まで湯船に浸かる。
「ルック、ちょっとお願いが」
「勝手に入るんじゃないって、何度言ったらわかるのさ!!」
ルックは怒りに任せて風を放った。
さすがに自室を損壊させたくはないので威力を抑えてあるが、それゆえリツカは風の刃を余裕でかわす。
ついでにトンファーで風の勢いを断つと、リツカは無邪気に笑った。
「危ないなールックは。いいじゃん、男の裸くらい見られても減らないってー」
「常識とか礼節とかの問題だよ!!」
「えーわかんないー」
「いちいち語尾伸ばすのやめて、鬱陶しい」
「ユニットバスお気に入りなんだねー、良かったー」
ルックの発言はこのお気楽リーダーにとって馬耳東風である。
リツカはひとり満足げに頷いた。
ルックの部屋が狭い兵舎から風呂付個室になったのは、先ほど述べた馬鹿げた模擬試合の成果である。
中央ブロック三階、リドリーの部屋の並びへルックの新しい自室は移された。
熱めの湯も雑多な雰囲気も嫌っていたルックにとって、銭湯へ行かずにすむことはかなりの心的負担軽減だ。
もう、あとわずかでこの戦争は終結を迎える。
だからこそあと少しくらい万全の状態で臨みたい。
目安箱にこっそり出したささやかな要望を叶えたのがリツカでもシュウでもなく、彼ら以上の曲者英雄であるというのが癪ではあったが、ドラム缶程度の小さなユニットバスは予想以上に使い勝手が良かった。
ルックは「まぁね」とそっけない相槌を打った。
次いで、リツカを追い出そうと浴槽のお湯をリツカの顔へ思い切り掛ける。
「ちょっとルック何すんのさー!」
「だから出てけって言ってんの、あんたの耳はただのお飾り?」
「ルックひどー! お願いがあるんだってばー!」
「だから出て」
「お願いっていうのは! お風呂、一緒に入りたいなって……」
「……はぁ?」
ルックは固まった。
リツカがちょこんと顔の前で手のひらを合わせ、臀部を突き出して拝むポーズを取る。
さながら子栗鼠のような愛らしさである。
ルックでなければ、このくるくるとした愛嬌に妥協するのだろう。
だがルックは冷たく一蹴した。
「嫌。何で」
「何でもいいじゃん、お願い!」
「良くないよ!」
「だって困ってるんだよー!」
リツカは合わせていた手を拳骨にし、地団駄を踏んで暴れだした。
苛々してきたルックが無言で放った切り裂きは、やはり第二波を予測していたリツカに難なく避けられる。
居心地の良い自室への気遣いが裏目に出たようだ。
後で直すくらい、何かと暇そうな元解放軍の英雄へ示唆すればどうとでもなるか。
怒り心頭に達したルックが遠慮のない第三波を繰り出そうとした時、リツカは両腕を浴槽の縁へ差し入れた。
「ルックー!」
浴槽を壊すわけにはいかない。
ルックは忌々しげに舌打ちする。
「あのね、テツが露天風呂にしたんだけどさー、あれ、仕切りが途中までしかないんだよ!」
「僕には関係ないね」
「だーかーらー! ちゃんとした仕切りがないから、男女混浴状態なの!!」
リツカは悲壮な顔をした。
今にも泣き出しそうなリツカは、繋ぎ合わせとはいえ一応六字熟語まで使っている。
驚嘆非常事態だ。
(それは確かに困るだろうけど)
ルック以上に子供なリツカが何を気に病むのか。
キャロの街ではつい最近まで義姉と一緒に風呂を使っていたのをルックは知っている。
義姉の体へ男にはない毎月の変化が訪れるに至って、ようやく時間をずらすことにしたらしい。
他でもないナナミ自身が一階大ホール石版横、つまりルックの隣で女の子友達とぴーぴー喋っていた内容だ。
耳を塞いでも聞こえてしまう過激な内容に、ルックはたまらず部屋へ逃げ帰ったのである。
苦情を込めて言ってやろうかと思ったが、さすがに今は義姉の名を出せるような状況ではない。
ルックはむっつり押し黙った。
リツカはルックのひるんだ隙に服を脱ぎ始めていた。
「リツカ! 調子に乗って何やってんのさ!!」
「だってー、混浴だとバーバラとかジーンとかオウランとか、カレンにアンネリーまで、寄ってたかってぼくの体洗ったげるとか、背中すべすべ〜とか、アレ結構大きいねとか、もう、やなんだもん!! ルックー!!」
叫びながらもしっかり衣類は脱ぎ終えている。
今度は子猿のような素早い身のこなしで、リツカは浴槽へ体を押し込んできた。
二人分の容積に押しやられた湯が溢れる。
ざざんと波の立つ音が風呂場へ響いた。
信じられない。
ルックは呆れ果ててこめかみを押さえた。
リツカの図々しさもだが、女性陣の逞しさもルックの想像を逸脱し過ぎている。
人の多い環境へはだいぶ慣れてきたつもりのルックであったが、まだまだ未知の分野が多かった。
リツカはさっきまでの悲哀がどこへやら、あっけらかんとした笑顔でルックの隣へ強引に座り込む。
「ありがと、ルック!!」
「良いって言ってないんだけど」
「今しかチャンスがないんだよー! アスフェルさん来ちゃったらおしまいだもん。あ、ルック、もちろんアスフェルさんには内緒だよ! ぼくまだ死にたくないからね!」
リツカはばしゃばしゃと水飛沫を飛ばしながら顔を洗った。
ついでにざぶんと頭まで湯船に浸けて、ぶるぶると首を振り水気を取る。
まるで子犬のようだ。
リツカはことごとく小動物に似ていると、ルックは嘆息した。
動物なら仕方ない。
多少人語が伝わらぬのも大目に見てやらねば。
「僕、もうあがるから。熱いのがいいなら勝手に調節して」
リツカがしゃきんと挙手した。
「はーい!」
「……お先」
馬鹿馬鹿しいにもほどがある。
ルックはさっさと風呂場を退出した。
タオルの上へ皺くちゃに積まれたリツカの服を端へ寄せる。
ばさりと手で薙ぎ払った拍子に、いつもリツカが首元へ巻いている黄色いスカーフが床へ落ちた。
柔らかい発色の絹は、今は敵となってしまった幼馴染、ハイランド皇王ジョウイ=ブライトとお揃いであるという。
義姉は、色違いのスカーフを、癖の強い髪を押さえるためといつも頭部へ巻いていた。
ルックはそっと拾い上げて丁寧に畳んでやった。
きっとリツカはひとりでいたくないのだろう。
いろいろな言い訳をこさえて、とにかく誰かの側にいたいのだ。
でも人ごみや喧騒は、賑やかなのが何より好きだった義姉を連想させられて辛くなる。
特に義姉と仲の良かった女の子連中はそれだけで故人を思い出させよう。
だからなるべくルックのような当たり障りのない相手を選んでいるのだ。
(本当、不器用だよ)
無自覚でやっているのだから、ある意味器用というべきか。
三年前に仕えたそつのない軍主、アスフェルは泣きたい時に泣いて頼りたい時に頼っていたものだった。
それでも相手に失望させたりしていなかった。
感情の掴み方がうまかったのだ。
それはそれで理性を利かせ過ぎるのもどうかと思うが、リツカはひたすら内に貯めて溜めて見なかったことにしてしまうタイプである。
アスフェルのように最終的に全部飲み込んで笑える強さはリツカも持っているが、そこへ至るまでのプロセスがまったく違うのだ。
リツカは楽しいことをたくさん上書きしていく。
そうすれば辛いものが消えるとでもいうように。
常人なら隅に追いやられて濃縮した辛苦がいつか爆発するように感じられる方法であるが、リツカはうまく消去できる強さがあるのだろう。
人間は柔軟だ。
狭い浴槽のように限度を越えれば溢れるものではない。
己の心持ち次第で容積をいくらでも拡大できるのだ。
運命を変え得るのは、この柔軟さか。
一握りの、無限の可能性。
いずれルックはその強さに後を託す時が来る。
師の言うとおりルック自身の運命は変わらずとも、ルックが成し遂げたことを足がかりにして未来を変えてゆく強さが、人間には残されているはずだ。
それくらいは、少しあてにしてもいい。
ルックはおざなりに体を拭き、夜着に腕を通す。
髪は三日に一度しか洗わないので、櫛でさらりと梳くに留める。
今夜読む予定の本を枕の上へ広げる。
火炎の矢の札を応用して、紅茶を淹れるための湯を多めに沸かす。
そしてベッドへ潜り込んで読書に没頭する、その前に。
ルックはこっそり、リツカの分までバスタオルを用意してあげたのであった。


リツカは意外と長風呂で、ルックの好意に気づくのはこれより四十分後となる。
露天風呂がもとの檜風呂へ再改装されるまでの数日間、リツカはあつかましくルックのユニットバスを使い続けたのであった。
リツカに便乗してギジムやリッチモンド、クライブ、キリィ、レブラント、カーンまで風呂を借りにきたのは余談である。