閉鎖された空間。
魔力の満ちた塔。
内に気配はひとつきり、懐かしい魔女のものだ。
「やっと、辿り着いた……」
七十七箇所目にしてようやくヒット。
徒労に終わらなかったことを心の底から感謝する。
七十六つが空振りで、これが最後の手がかりであった。
情報収集には長けているつもりだが、如何せん腕によりをかけて嗅ぎ回ったおかげで「それらしい」情報が多すぎたのだ。
仕方なくしらみ潰しにひとつずつ回り始めたものの、どれもこれも悉く不発。
しかもたいてい厄介事が絡んでいて、根が善人なものだから見て見ぬ振りができない。
これも何かの因果だろうか。
袖摺り合うも他生の縁と、いちいちそれらの解決に一役買ってしまった。
ちょっとした水戸黄門である。
「トランだからトラン黄門?そもそも黄門は中納言だから、俺の身分ならトラン元兵部省? 太政大臣?」
どうでもいいことを呟いて、アスフェルは己の独り言に肩を落とした。
とことん運が悪いのはどうしてだろう。
ここへ着くまで時間がかかり過ぎている。
アスフェルは愛用の棍を肩に乗せた。
「よし、行くか」
目指すは塔の最上階。
鍵も掛かっていない入口を、堂々と通り抜ける。
「頼もーう、……!?」
ぞく。
アスフェルの背が震えた。
気持ち悪い魔力の残渣がまるで腐臭のように漂っている。
既知の紋章の波動ではあり得ない。
(何だ、これは……)
例えるなら、昔ミューズ付近の宿屋で嗅いだ黴。
白鹿亭の奥にあったのは、シンダル族の遺跡だった。
これはシンダルの古術ということか?
こんなに饐えた、おどろおどろしい力が?
アスフェルは用心深く階段を上る。
螺旋はどこまでも続き、方向がわからなくなる。
混迷、泡影。
行かないで。
来ないで。
従います。
さよなら。
はたとアスフェルは気づく。
これは幻術だ。
この塔へ誰も入り込まないよう施された仕掛け。
入れば不快感を催すように、歩けば指針を惑わすようにできている。
アスフェルは舌打ちした。
「相手が幻なら、こいつの出番だな」
手袋越しに、起きろ、と呼びかける。
次いで右手に力を込める。
どろり、闇が溢れ出した。
ほぼ完璧に御している生と死を司る紋章は亡き親友の忘れ形見だ。
使い慣れれば意外と万能。ほとんど何でもやってのける。
今ならこうやってアスフェルの周りを神の具現たる闇で覆わせ、下位魔法の効果を退けるのだ。
俺が主人だ。
俺の命を聞け。
ソウルイーターは従順に暴れる。
果たして濃い闇の力は幻術を押しのけた。
「いい子だ」
アスフェルは右手を振った。
視界が一気に晴れる。
足元は螺旋階段。
窓の外は青空。
眼前にあるは、両開きの扉。
実はとっくに最上階へ着いていたのだ。
扉は重い魔力で封印が為されている。
奥に感じる、魔女の気配。
アスフェルはよく通る声をおざなりに投げつけた。
「開けますよ、レックナート嬢」
時候の挨拶など前置きは一切ない。
声をかけたのも一応年上に対する最低限の礼儀であって、了承を待つつもりはない。
(どうせ、答えないだろうし)
七十六箇所も無駄足を踏んだのだ。
多少ふてぶてしくもなる。
アスフェルは遠慮なく棍を構えた。
「なりません」
覚えのある女性の声が扉の内から届いた。
バランスの執行者レックナート。
アスフェルが珍しく、個人的に好きになれないと明言している魔女である。
今もまた有無を言わせぬ口調でこちらの反論を抑え、レックナートはそれきり沈黙した。
「ルックはどこですか? これはルックの仕業ですか? 何のために?」
矢継ぎ早に問うも、すべて反響。
応える声はない。
アスフェルはもどかしさに奥歯を噛み締めた。
言いたいこと以外はだんまりなこの性格が好かないのだ。
そして、誰かが悲劇の幕を開けると分かっていて、その結末を自分の望む方へ誘導しようとする。
奇跡という餌をちらつかせて。後戻りできない状況へ追い込んで。
回避する選択肢を与えず自分だけ欲しいものを手に入れようなぞ片腹痛い。
苦痛とは、背負うものも背負わせるものも同等に代償があるものだ。
傍観者でいられる存在などこの世にない。
積年の文句が脳内を駆け巡ったが、アスフェルはとんとこめかみをひとつ叩いて意識を切り替えた。
レックナートの居室へ続く扉の封印は、扉ごとソウルイーターで吹き飛ばせばアスフェルでも開錠できそうである。
いわんやレックナートなら解けないわけがない。
すなわち、レックナートは解けないのではなく解かないのだ。
理由。
ここにいないルックが執り行ったからに決まっている。
そして今はまだ出るべき時期でないのだ。
では、いつなら天岩戸が開かれる?
レックナートは常に己の役割に沿って行動するから、今はここへ引き篭もることが彼女の役割なのだろう。
だがこの地に幽閉されてできることなど何もない。
ということは、何もしないことが今のレックナートにとって取るべき行動であり彼女自身の視た運命なのだ。
バランスの執行者に今「何もしない」という役割がある。
つまり、レックナートはまさに今、バランスを見届けているということではないか。
さらに何も答えたがらないのは、また星が降りるから。
一〇八星を己が望む結末へ導くための常套手段だ。
(近いうちに、宿星が降りる……いや、すでに降りているのか?)
誰が天魁星だ?
それが分かればルックの居場所も分かる。
アスフェルは慎重に発言した。
「俺は、ハルモニアに行こうと思っています」
「そうですか」
「ルックはあの国に因縁がありますね」
「……知りません」
刹那、レックナートの息が途絶えた。
アスフェルは敏感に察して笑む。
ハルモニア神聖国が真なる紋章を集めているのは周知の事実。
試しに名を出せば、レックナートは反応を示した。
やはりルックとハルモニアには深い関係があるのだ。
アスフェルはさらなる揺さぶりをかける。
「次に宿星が降りれば、ハルモニアも動きますね」
「どうでしょうか」
「動きますよ。少なくともルックの持つ紋章と天魁星の持つ紋章がありますから」
「星主が真なる紋章を宿すとは限りません」
レックナートは尖った声音だ。
焦っている。
おかげで三つ、情報が得られた。
アスフェルは棍を持ち替えた。
「俺は次の宿星に選ばれないのですか?」
「一度天魁星になった者は、もう二度と天魁星になりません」
「他の星になら?」
「あなたに降りる予定の星はありません。ひとりの者に星はひとつしか宿らないものです」
「そこからでも、星の動きが視えているのですね」
「……!」
「ルックの動向も」
レックナートの気配が遠ざかった。
さすがに勘付かれたか。
アスフェルは開き直った。
「ルックの場所は? 言わぬならこの扉、俺が開いて差し上げましょう」
「お止めなさい!」
「ではルックの居所を」
「知りません!」
ばちん!
扉の奥から封印を飛び超えて魔力が放たれた。
門の紋章の力だ。
異空間への入口を作る能力を逆手に取って、急激に入口を開閉し衝撃波を生み出すらしい。
アスフェルは咄嗟に床を蹴った。
螺旋階段のなだらかな手摺りへ飛び乗る。
(ルックの師匠だけあるな)
これ以上は口を割らないだろう。
それでも情報は三つ仕入れた。
ひとつ、次の天魁星は真なる紋章の所有者にならない。
ひとつ、次の宿星の戦争に深く関わるはずの真なる紋章はまだ人に宿っていない。
ひとつ、次の天間星にルックは選ばれている。
そして最後に、次の宿星の戦争はまだ起こっていないことも確認できた。
老獪な魔女相手に上出来だろう。
アスフェルは高らかに魔女を挑発した。
「レックナート! 俺が、ルックの運命を変え得ることを恐れているだろう!」
とたんに衝撃波が、もうひとつ。
正確に手摺りを狙う意地の悪さについほくそ笑む。
魔法の避け方はルックで学習済みだ。
くるんと宙で回転して踊り場へ踵を付く。
立ち上がりざま、扉の向こうへ声を放った。
「あなたのそういうところ、弟子に似ていますよ」
「……弟子が私に似ているのでしょう」
「これは失敬。偏屈魔女でも一応は、ルックの育ての親でしょうからね」
アスフェルはからりと笑った。
もうここに用はない。
憤るレックナートをそのままに、螺旋階段を駆け下りた。
窓縁、陳列品、床の隅。
埃がそんなに多くない。
(さては、入れ違ったか?)
「あと一歩……遅かったのです……」
アスフェルの心を読んだようなタイミングで、塔内へレックナートの声が響く。
やけに神妙だ。
育ての親、のキーワードにほだされでもしたか。
悔しいのはこちらだというのに、相変わらず自分のことしか考えない魔女である。
アスフェルは強く言い返した。
「次こそ、捕まえてみせますよ」
空振りにはもう慣れた。
諦めないでいるのは得意技。
ルックを求めて、俺はどこまでもゆこう。
(これは、俺の決意だ)
あと一階分の螺旋階段、中心を下へ跳ぶ。
とんと危なげなく着地する。
窓から差し込むのは春の光。
螺旋の中央に柔らかい日溜まりを作る。
(ルック、待っていて)
必ず、傍へ行く。
アスフェルは目を閉じた。
陽光が身を包む。
脳裏に、愛する風の申し子の面影が浮かんだ。