最上階を辞す。
廊下にはセラが控えており、すぐさま無駄のない動作で扉を閉めた。
そのまま何も言わずとも、こちらの意向を察したセラはシンダル族の呪を唱え始める。
セラの魔力は水の色。
共鳴するロッドの青い光。
ルックは、無感動にその様子を見つめる。
(もし、師が抵抗するようなら……)
自身の魔力を高める。
尋常でない高まりを感じる。
(最初の犠牲者にしても、構わない)
百万の命を奪う覚悟はできている。
その中に師もセラも、己すら当然含めて。
もっと多くの命のために、ルックは誇りを賭して未来を守るのだ。
何を迷うことがあろうか。
(師には、僕の運命が視えている)
ならば、僕を止めることなどただ不可能。
せいぜい背徳感にでも苛まれるがいい。
そんなもの、自分は砂漠の砂粒より多く飲み下してきたのだ。
ルックは扉の向こうを凝視する。
視える未来へ、神へ挑む。
これが最初の一歩となる。
さあ、弟子の門出にふさわしく手こずらせてくれ。
(師よ)
しかし彼女を閉じ込めた部屋は、あっさりと、固く封印された。
「……呆気ない」
思わず漏れるのは、吐息。
師はすでに逃れられない運命を悟っている。
所詮その程度の女だ。
見届けることが義務と心得、自ら動くことを放棄した女。
生ける屍だ。
鳥籠に込めてもさえずりすらしない。
(哀れな、レックナート様)
「終わりましたか」
背後から声がかかった。
階段にはアルベルト。
その後方へ、アルベルトの呼び出した魔物、ユーバーの姿がある。
ユーバーが下卑た仕草で腰の剣を抜き差しした。
武器も持たぬ老女の血まで見たかったらしい。
アルベルトに戒められてどうにか我慢したといった長い指先が、蜘蛛のように忙しなく動く。
つくづく汚物だ。
ルックは佇むセラへ目をやった。
セラは扉に軽く触れ、解けない封印を確かめてこちらへ頷く。
ルックは婉然と笑んだ。
ルックの持つ真なる風の紋章。
セラの行使するシンダル族の秘術。
アルベルトの血統に蓄積された知能。
ユーバーの貪欲に揮われる殺傷力。
「駒は皆揃った」
ルックは右手を差し出した。
顕現する風の刃。
す、と四人の顔を掠めた刃は、それぞれの右頬にわずか傷をつける。
ぽたりとひとしずく、四滴の血が床に滲み込んだ。
「誓約というわけか。興がある」
ユーバーが鉄臭い匂いに口角を歪める。
アルベルトが顔色ひとつ変えぬまま指の腹で頬をぬぐった。
セラは目を伏せている。
「この血は、最初の紅蓮」
ルックは歌うように述べた。
腕を広げる。
風がゆるり巡る。
これから、幾千もの紅蓮がグラスランドを赤く彩る。
風は赤く濁る。
それでも僕は、貫くのだ。
現在を破壊してでも未来を守る、これは運命ではなく、僕の決意だ。
進め。
螺旋階段を降りる。
アルベルト、ユーバーが先へ行く。
後ろへ続くセラの指がルックの背へ触れる。
思念が聞こえる。
――従います、と。
ルックは朗々たる名月のごとく、宣言した。
「ゆこうか、破壊者よ」
螺旋を描く階段は、塔の壁に沿って下る。
数歩ごとに小窓があり、幅の広い窓縁へひとつずつ師の趣味で収集された骨董品が置かれている。
花瓶。王冠。女神像。玉杯。
仮面。
ルックは五つ目の窓辺で足を止めた。
封じねばならないものが、もうひとつ。
胸に住まう愛情だ。
かつて自ら切り捨てたものだ。
目を閉じればいつだって脳裏に蘇る、美しい面影を辿る。
光だった。
希望だった。
好き、だった。
(捨てて初めて、気づいたんだ)
この数年来、ずっと失くそうとしてきた。
存在自体を忘れられないか。
思い出ごと消去できないか。
……無理だった。
あいつは心の中心にいつまでも居座って、どんなに罵倒してもどんなに欠点をあげつらっても、ちっとも嫌いになんてなれやしない。
笑った顔も泣いた顔も、楽しそうな声も苦しげな眼差しも。
どれひとつとして、ルックの琴線を引っ掻き回さないものはない。
(多分初めて出会った時から。僕はずっと)
どんなに後悔しても遅かった。
ルックの心はあの漆黒に染め上げられている。
捨てたのに。
いらないのに。
でもきっと、何度捨てても。
何度あのころに戻れても。
(僕は何度だって、またあんたを好きになる)
ルックは胸元を探った。
体の一部になっていた、それくらい長く、持っていた。
手のひらに煌くのは一対の耳飾り。ダイヤモンドである。
小窓の向こうは青い空。
流れる雲が形を変えて、ああ、まさに羽のよう。
羽ならどこへでも飛んでゆける。
あいつのところまで、この心を全部。
(好き)
飛ばしてしまおう。
「ルックさま!?」
力いっぱい、ダイヤを投げる。
小窓から空へ羽ばたかせる。
(さよなら、アスフェル)
あんたの未来を、僕が守るよ。
覚悟なんてダイヤよりも硬く決まっている。
あんたのためだから、覚悟できるんだ。
だから、お願い。
あんたは生きて。
笑っていて。
幸せでいて。
(さよなら)
ダイヤはひときわ白く光る。
強く輝く。
空に溶けた。
「ルックさま……」
小窓の縁、飾られた仮面を手に取った。
かの大国で自分を知る者は少ない。素性が明らかになる心配はないだろう。
ただし、真なる土の紋章を宿す神官将と瓜二つであることは隠さなければならない。
この顔では何かと都合が悪い。
すべてを、封印しよう。
ひんやりした感触が額に当たった。
鼻に、顎に、ぴったり合った。
皮膚に吸い付くようだ。
ちょうど良い。
ルックは笑ってみる。
笑みを落としてみる。
目を閉じてみる。
唇を、噛み締める。
「行こうか、セラ」
仮面に変化はない。
それで良い。
もう小窓は振り向かず、ルックは一歩踏み出した。
もう、歩みは止めない。
螺旋を廻り、地上へ降りる。
快晴。
天を仰ぐ。
仮面越しに春のうららかな日差しを感じる。
そんな感傷も、これで最後。
「いいな」
ユーバーが指を鳴らした。
転移の空間が形成されるのがわかる。強い力だ。
アルベルトが丁寧に腰を折った。
「我がシルバーバーグ家の真髄を、お目にかけましょう」
「期待している」
ルックは笑んだ。
ひどく悲しい笑みだった。
しかし仮面はすべてを隠す。
アルベルトの声に身を任せ、ルックは目を閉じる。
風が身を包む。
もう、面影は浮かばなかった。