ルックが魔術師の塔へ里帰りすることになった前日、気を利かせたリツカに懇願されアスフェルは本拠地へ泊まることになった。
ルックは三日ほど休みを取ったとのことで、「兵の訓練とかね、他の人にはちょっと荷が重くて任せられないんですよ。アスフェルさんならみんなも納得するじゃないですか。ルックは大切なお師匠様のためにどうしてもって言うし、ほんと人手不足で困ってるんです。ね、特に大事なものだけでいいからお願いできないですか?」と下手に出られては断りきれず、さらにルックの執務室を使っても良いという好条件に陥落したのだった。(机の中を多少引っ掻き回しても不問に処すらしい……)
広い客間をあてがわれたが、アスフェルにとって宿星が集う吸引力や本拠地特有の活気を味わうのは久しぶりで、なかなか寝付けない。
ベッドに横たわりながら、夜更けの城内を冴え冴えと照らす月を眺めていた。
ふと、気配を感じてやおら起き上がった。
客間を出て右ブロックへそっと足を進めると、夜は無人になるはずのレストランから明かりが漏れている。
ハイ・ヨーが新しいレシピの試作でもしているのだろうという単純な好奇心から中に入り、後にアスフェルは悲劇を迎えることになるのであった。
人使いの荒い師匠のため、ルックはせっせと保存の利く食物や手間のかかる食物を拵えていた。
どうせレックナートがルックを呼び出す理由など炊事洗濯掃除――溜まった家事に決まっている。
少しでも早くこちらへ戻ってこられるように、魔術師の塔でなくてもできることを先んじて済ませておく腹積もりであった。
練圧して形を整え、冷水で冷却して食塩水に漬けた。そのまま十五分ほど待って次は乾燥させなければならない。
隣で煮詰めていたごまめも一区切りついたので小休止を取ろうと手を拭いていると、ドアが軋んだ音を立てて開かれた。
「……あれ? ルックだけ?」
部屋着姿のアスフェルが眩しさに目をしばたたかせながらレストランに入ってきた。
せっかく深夜に借りていたのにと思わずルックは顔をしかめてしまう。
何作ってるの、味見していい、などあれこれいじられて作業が進まなくなるのを嫌ったのだ。
そしてアスフェルはルックが予想した通りの台詞を吐いた。
「こんな深夜に何作ってるの?」
「別に。邪魔だからどっか行ってよ」
「冷たいな。ルックこそ明日発つんだったら早く寝なきゃ」
「子供扱いしないでくれる」
「そっけないなぁ……。見てもいい?」
ついとそっぽを向いてしまったルックに苦笑し、アスフェルはキッチンを見回した。
ハイ・ヨーのこだわりが随所に窺えるキッチンスペースは、ルックが作った料理で埋め尽くされている。
ほとんどが日持ちのするもので、丁寧に空気を抜いて袋に包まれていた。
「ラスク! 難しいのにきれいに焼けてるね。この燻製もたくさんあるけど全部手作り? あじの開きもおいしそうだし、あ、レーズンだ。ラムの香りが効いてる。こっちはごまめと……」
アスフェルがきょろきょろする様子はまるで子供のようで、水色の部屋着とあいまってルックにひどく幼い印象を与えた。
「このきんぴら、いいにおいだな。見てるだけで小腹が空いてきた。これ全部レックナート用だよね」
レックナートは占いに集中するあまり数日間食事を摂らないこともあるので、多く作りすぎると却って腐らせてしまうこともある。
やたらとにこにこしながらひとつずつ見て回る今のアスフェルと、三年前の堂々たる軍主面との落差に思わず和んでしまい、それでも迷惑そうな表情を崩さぬままルックは小皿を出してやった。
「食べたけりゃ少しならいいよ。自分でよそって」
「えっ! いいの!?」
アスフェルの目が輝いてルックを見たが、ルックは顔を俯けてしまい不機嫌そうな口元しか見えない。
しかし、顔にかかった髪の隙間からほんのり覗く桜色に目を留めて、アスフェルは有頂天になった。
いそいそと出来上がったばかりに見えるごまめを鍋の中の菜箸で皿に取り、行儀が悪いのも構わず立ったまま手でかじってみる。
甘さ加減のちょうど良いなめらかな舌触りの後、噛むほどカタクチイワシのほろ苦さがのぼってきて飽きのこない味わいだ。
「……おいしい。すごく」
マリーのところで昔食べさせてもらった味に似ていて、当時同じように何十回も咀嚼していたテッドの横顔を思い出し、アスフェルは懐かしい気持ちでいっぱいになった。
「ごまだけじゃなくてこれ、クコの実とアーモンドと、ピーナッツにレーズン、胡桃も入ってるのか。シンプルなものより甘味が深まるね」
ルックはぽつりと、何度か試行錯誤してアレンジしたと洩らした。
「普通は砂糖と醤油とみりんで作るけど、水飴も加えてあるんだ」
「だからか……マリーのよりコクがある」
「マリー?」
「昔な。テッドとふたりでこっそり街に出ては悪戯してたんだけど、グレミオにばれると怒って怒ってもう、大変だったんだ。それでマリーの宿屋に避難して客の夕食の残り食べさせてもらって」
こっちの方がおいしいけどね、と笑ってアスフェルはもう一口かじった。
レックナートは食に無頓着なので、食べ物に関する思い出話やそもそも料理の感想など拝聴したためしがない。
おいしいのひとことにルックは驚くほど気を良くし、そろそろ十五分経った力作を食塩水から上げた。
結構な重量であるそれをまな板に乗せ、布で水気を拭き取ると、後は半日ほど乾燥させて完成である。
「これも食べてみる? 初めて作ったから味は保障しないけど」
黄色く丸々とした物体、モッツァレラチーズ。
ルックは器用に上の方を少しだけスライスして、半分をアスフェルの皿に寄越した。
料理の腕前に関して初めて聞く「人の意見」を期待し、ルックは今までになくチーズとアスフェルを注視している。
アスフェルは一息にぱくんと飲み込み、「これもすごくおいしいよ」と満面の笑みでルックを褒め称えたのであった。
それから半刻。
客間に設えてある洗面所で何度も水を飲み、口内から完全に臭いが抜けるまで執拗にゆすいで、ついに水が気管に入ってアスフェルは咳き込んだ。
おやすみ、と微笑んでくれたルックを思い浮かべながら、目尻に溜まった涙だか汗だかを手の甲でぬぐう。
「ちゃんと食べただけでも奇跡だ……」
恋の偉大さを、アスフェルは身をもって痛感したのであった。
実は、アスフェルはチーズが大嫌いなのである。
ルックスも最高・何をやらせても完璧・正真正銘非の打ち所がないと謳われた解放軍時代に、シーナを筆頭とするアンチパーフェクト派がアスフェルの弱点を巡って一騒動起こしたことがあった。
酒飲み勝負に始まり果てはお手玉対決まで行われた一連の粗探しで全戦全勝し、名実ともに完全無欠の名を欲しいままにしたアスフェルであったが、チーズはたまたま弱点候補にのぼらなかったのだ。
グレミオですら知らない秘密である。
チーズだけはどうしても腐ったような臭いとねとねとした食感が駄目で、チーズが食卓に上っても巧妙に遠ざけ、食べていないと悟られぬよう苦心していた。
肩で息をしつつアスフェルはルックの嬉しそうな顔を思い出す。
本人は無自覚ながら、ルックはかなり料理に凝っており褒められると達成感も人一倍なのだ。
ルックのあんなにもくつろいだ表情は初めてではなかろうか。
「おいしい」を聞いた瞬間ルックの周りの空気が緩むのを、アスフェルは敏感に感じ取ってしまった。
あの時、チーズを辞退するのは簡単だった。
ルックはそんなことで失望したり囃し立てたりはしない。
だが、ルックに好き嫌いがあるのを知られたくないのではなく、ルックが初めて作ったものを初めて食べ、初めて感想を伝えたかったのだ。
ルックの笑顔を、よく見なければわからないほどの笑顔であっても、それは自分がもたらしたのだと思うだけでも幸福だ。
そしてルックが、人との関わりを楽しいと気付いてくれたらいい。
孤高で気高い彼も好きだが、人間はお互いが関わりあってぶつかりあいながら初めて良い方へ進むことができるのだとアスフェルは考えている。
生きるというのは何かと関わることだ。
そして人と人との関わりが、運命があるとしてもそれを変えてゆく。
アスフェルは解放軍時代、人間の芯の強さを、意志の強さをルックに学んだのだ。
チーズなんか気持ち悪いとしか言えないのに嘘を吐くようで心苦しかったが、きっとチーズ好きならおいしく感じる味だということで、些細な嘘は許して欲しい。
全部食べただけでなくおくびにも出さなかったのだから。
ようやく咳が治まったアスフェルは、顔を洗って今度こそ眠れそうだとベッドに潜り込んだ。
程なく、ルックの微笑が脳裏に蘇ってことんと眠りに落ちた。
翌朝、帰省するルックを見送りに出たアスフェルの耳元で、「あんたでも苦手なものあるんだね」と囁かれ、アスフェルは真っ青になったという。
何故ルックに見破られたかといえば、やはりルックもアスフェルを普段から特に観察していたからに他ならない。