ルックは図書室の次に屋上を好んでいる。
どちらも人けのないところという共通項があり、屋上は風がよく通るので気に入っているのだ。
今日は朝からリツカにトラン共和国まで引っ張り出され、交易所でさんざん値下げ交渉に付き合わされた挙句元天魁星に助力を乞いに行くというルックにとっては甚だ不愉快なことだらけであった。
別にあいつがいなくてもリツカのサポートは充分こなせるつもりであるが、リツカが心酔しているので仕方がない。
まだ遊びたがるリツカを、手先の器用な元天魁星にすらせた瞬きの手鏡で無理やり本拠地に飛ばし、二人まとめて軍師の執務室に放り込んできたのがついさっき。
何だかんだ言いつつ交易と魔物退治を合わせて目標金額の1万ポッチまで稼いでやったのだから、ルックはつくづく天魁星に甘い。
細い月が昇ったばかりの夕景を仰ぎながら、両手を思い切り伸ばしてルックは風を感じていた。
空は水色から紺青に移りつつあり、沈む夕日に照らされた雲だけが赤く染め上げられている。
風に流されて絶えず形を変える夕映えのうろこ雲はひとつとして昨日までと同じ形がなく、太陽と月が入れ替わるさまはいつまでも見ていて飽きなかった。
ややして、髪をなぶる風に見知った気配が混ざった。
「ルック、ここにいたんだ」
甘い声と穏やかな空気が風に乗り流れてくる。
頭上の天穹と同じ色の瞳をした元天魁星が、柔らかな笑みとともに手摺りまで歩み寄ってきた。
当然のようにルックの左隣へ立ち、腕を手摺りにもたせて上体をやや屈める。
ルックは空を眺め続けていたが、アスフェルがこちらへ顔を傾け、労わるように微笑むのが感じられた。
「今日はわざわざありがとう。九月とはいえ昼間は暑かっただろう?」
「いいよ、仕事だから……あ」
小さめだがよく通る声に誘われて振り向こうとしたら、目にちくりとした痛みが走った。
反射的に左目を瞑ってしまい、ごろごろした感触と痛みを感じて涙が出る。
「ルック? 目に何か入った?」
「多分」
「取れる?」
「……わかんないけど」
涙が流れるに任せてみたが一向に痛みは治まらない。
まばたきすると角膜を抉られるような痛みが刺した。
「ルック、上向いてごらん」
アスフェルが、言いながらルックの顎をそっと押し上げた。
「瞼、閉じないで。開けると痛い?」
アスフェルは指先を咥えて器用に右手袋を外し、人差し指と中指をルックの左目の上下にそれぞれ添わせた。
涙で視野がぼやけているので、少しひんやりした指が――素手が触れるのを疑問に思いつつも、言われた通りに目を開く。
「睫毛が入ってる。ちょっと動かないでね」
手袋を左手に持ち替えたアスフェルが、ルックの目を覗き込んだ。
そのまま顔が近づいて。
「はい、取れた」
舌先で舐め取られたのだと理解した時には、アスフェルは手袋を嵌め直して悠然と微笑んでいた。
「痛くない?」
何度かまばたきしてみて、涙以外の何かには気付かないふりをして黙諾する。
痛みの引いた目でアスフェルを見やると、アスフェルは本当に晴れやかに「良かった!」と笑った。
「ルック、睫毛長いからね。目も大きいし」
こういう時はきちんと言わなければ、と以前学んだルックは、なるべく面映さを意識しないようにそっけない口調で謝意を述べた。
「……ありがとう」
「珍しい。どういたしまして」
ルックの一言でさらに破願したアスフェルが、上機嫌さを隠しもせずに礼式にかなった動作で応じた。
今にも小躍りしそうな雰囲気でにこにこしている。
こんなにも感情が露なアスフェルの方こそ滅多にない。
普段のアスフェルは穏やかな態度を崩さないので、却って喜怒哀楽が分かりにくいのだ。
ルックも無愛想だと言われるが、アスフェルのように感情が読めないのではない。もともと何に対しても大きく心が動かないだけである。
ルックが思うに、おそらくアスフェルは人一倍感受性が強いのだ。
しかし、いつも泰然とした姿勢を保とうとしているように見える。
今のように子供っぽくうきうきしているアスフェルを見るのは、初めて会った魔術師の塔以来ではなかろうか。
初めて会った彼は星見の結果を取りに来るのが初任務で、緊張したり楽しそうだったり、随分ころころと表情が変わるのでルックはただただ驚いた。
同世代に見える少年たちが(実際は五歳上と三百歳上であったが)あんなにもよく笑うものだとは思わなかったのだ。
つまり、アスフェルが隙を見せなくなったのは右手に紋章が宿った時からか、と思い至る。
「指、冷たいんだね」
ふと蘇った先程の肌触りを伝えると、アスフェルは困ったように右手を握った。
「ソウルイーターの気分によるみたい。……今は腹が減ってる、って」
「紋章が体温に影響する? 紋章が記憶や未来を夢で見せることはあるけど。あんたはソウルイーターの声を体温変化として受け取っている、ってこと?」
「うーん……そうなるのかな……。嫌な話だけれど、父やテッドを喰らう前はもっと冷たかったんだ……」
「……僕の管轄外だね。レックナート様に聞いてみる?」
「いや、日常生活に支障はないからいいよ」
ルックなら何か知ってると思った、と言ってアスフェルは左手で鼻の頭を掻いた。
「ごめんね、余計な話をした」
ややしょげてしまった面持ちのアスフェルに答えず、ルックは空を見上げてみた。
陽は山に隠れ、淡雲は空と同じ縹色になってゆったりと漂っている。
「あんたならあり得るのかも知れないね。ソウルイーターの中に眠る幾千もの魂を、熱として感知することが」
感受性の強さだけでなく、現実から目を背けない強さが成せる業なのだろう。
彼のような逞しさなど持てない、と自分自身に見切りを付けてしまっているルックは、アスフェルの強さを羨望し同時に観念して、ひっそり両瞼を下ろした。
「本当は、右手でルックに触れたくなかったんだよ」
瞼の裏の暗闇へ、アスフェルの声が届く。
「ルックが泣いたから咄嗟に手が動いて、実はものすごく後悔してたところだった。でも、おかげでルックに聞いてもらえて良かったのかも知れない」
「僕を買いかぶりすぎだよ」
「誰にも話せなかったんだ。……失望した?」
「最初から大して期待してないから」
「だろうね。あーあ、ルックには俺の嫌なところ見られてばっかりだなぁ。かっこ悪い。チーズが苦手だってことも、絶対! 誰にも、絶対に、内緒だからね!!」
茶目っ気たっぷりに言い放ち、はにかんだように笑う朗らかな気配が、瞼を閉ざしたままのルックにも充分伝わってきた。
アスフェルは眩しい。
それがアスフェルに向けてのみ生ずる特殊な思いだとは気付かずに、眩しいから遠ざかりたいとだけ考えて、ルックはきつく瞳を瞑った。
視界が黒く塗り潰される。
ふいに隣で優しげな空気が動き、するりとアスフェルの声が割って入った。
「瞼を、閉じないで。ルック」
片頬が布越しのひんやりした肌に包まれた。
反射的に開いた目に、アスフェルの瞳が飛び込んできた。
「綺麗な翡翠が台無しだよ。ルックのためならチーズだって食べるから、こっちを見て」
アスフェルの瞳は群青色に紅が差したような、夜明けの色に光っている。
「なんちゃって、気障すぎ? シーナみたい?」
瞳が緩み、ちろりと舌を出してアスフェルは右手を離した。
太陽が沈んじゃったね、と楽しそうに囁いて姿勢を正す。
「夜になったから晩ご飯の時間だよ。レストランへ参りませんか、姫君?」
優雅に差し出された右手を弾みで取ってから、ルックははたと我に返ってアスフェルを睨み付けた。
「僕の嫌いな言葉、知ってる?」
「何?」
「女扱い」
ルックはぴしゃりとアスフェルの手を払って先に歩き出し、慌てて追い縋るアスフェルに人差し指を突き付けた。
「チーズ料理ならいいよ」
えー、と苦虫を噛み潰したような顔になったアスフェルを、こんな姿まで人に見せるなんて稀有だと思う以外の感情も芽生えたのだが、ルックはやはりそれが何というのか分からないまま、知らず笑みを浮かべている自分に気付いただけだった。
さすがにチーズはかわいそうなので普通の料理を注文したが、珍しくレストランにいるルックと珍しく口元が緩みきっているアスフェルに、レストラン内は騒然としたらしい。
ちなみにアスフェルは、ルックの睫毛食べちゃったとまたしても酒の勢いで暴露してしまい、解放軍時代の完全無欠なアスフェル様もいいけど今の方がずっと魅力的、とさらに信者を増やすことになる。
言わずもがなのことではあるが敵もさらに増え、しかしこちらに関しては解放軍時代の完全無欠を通り越して無敵状態にまで成熟していたため問題はなかったようだ。