同盟軍本拠地はいつでも賑やかであるが、その日は特に浮き足立っていた。
というのも、かの高名なトランの英雄が訓練を兼ねて模擬試合をすることになったのである。
傭兵崩れの血気盛んな連中から正面に立って見つめられたいという不純な動機のものまで五十余名が整列し、その周りを五倍以上の観客がぐるりと取り囲んだ。
いつの間にか簡易テントが組み立てられ焼きそばやまんじゅうの出店が並ぶに至り、本拠地はいよいよお祭り騒ぎの体を成していた。
二、三日前から執務室に篭っていたルックは、中庭に人だかりができているのに気付き、その中心が現天魁星と元天魁星であることを認めて窓を細く開けた。
「そろそろ時間ですね。例によって賭博もあるみたいですよ。ほら、あそこです」
ルックの目線を追った部下が中庭の一角を指差した。
ルックが書類に掛かりっ切りだったということは、それを補佐する部下も休んでいないということである。
模擬試合を見物したそうにそわそわしていた部下たちを目に留め、それならとルックは窓を全開にした。
「働き詰めだったし、少し休憩しようか。みんなにお茶を入れてくれる?」
途端に書類をどさっと投げ出す音がして、部下たちの顔が一様に明るくなった。
「了解! じゃあ賭けましょうぜ、誰が勝つか!」
「そりゃ当然、アスフェル様の勝ち抜きでしょう」
「いやいやフリックさんまで行けばわかりませんよ。アスフェル殿は休みなしで連戦ですからね」
「いくらトランの英雄とはいえ、リツカ様なら敵じゃないです!」
「賭け券買って来ましょうよー」
いそいそと窓際に椅子を運んだ部下たちは好き勝手に予想し始めた。
ルックも窓辺に寄りかかり、淹れてもらった紅茶に息を吹きかけながら中庭を眺めることにした。
中庭では、早速最初の挑戦者が秒殺されたところであった。
アスフェルが鮮やかな棍捌きで挑戦者を倒すたびに嬌声が上がり、バンダナが風にはためくたびに相手の得物が宙を舞った。
数分で三十名を伸し、アスフェルは息一つ乱していない。
歴然たる力量の差を目の当たりにして竦み上がっていた次の挑戦者へ、アスフェルは優雅な動きで左の手のひらを差し出し、人差し指でちょいちょいと誘ってみせた。
「アスフェル様、かっこいいぃーーー!!!」
感極まったのか部下が隣で大声を出したので、ルックはぎょっとして身を引いた。
穏やかな笑みさえ浮かべて一撃で相手をすっ飛ばし、目にかかった前髪を掻き揚げたアスフェルは、誰もが吸い寄せられる強い輝きを放っている。
圧倒的に強く、燦爛たる英雄。
しかし湧き起こる衝動を現出する術を持たないルックは、部下のようにはしゃぐこともできず、かといって目を逸らすこともできずに、ただ見蕩れているだけだった。
天を薙ぐように棍を振り回したアスフェルは瞬く間にさらに十名を倒し、観客の大歓声を浴びて軽く左手を上げた。
その手を顔の前でひらりとさせた仕草も計算された芸術のようで、中庭からも隣の部下からも熱い吐息が漏れる。
ようやく冷めてきた紅茶を、ルックは高鳴る何かごと飲み干した。
次の対戦者は青いマントがトレードマークのフリックである。
運のなさではフリックと競うアスフェルを、どちらの運がまだましなのかとルックは息を詰めて見守っていた。
積年の恨み辛みを正々堂々武力で晴らそうと、フリックの目はいつになく気迫に満ちている。
暫し間合いを取って対峙した後、フリックは裂帛の気合いとともにお得意の雷魔法でアスフェルを怯ませ斬撃に移ろうとした。
ところが、天雷の軌道を読んでさらりと避けたアスフェルに肩を打たれ、そのままマントを棍に引っ掛けられてべしゃりと転倒した。
どうやらアスフェルの方が運も強いらしい、とルックは安慮する。
鼻の頭を擦り剥いたフリックに駆け寄ってそのまま次の挑戦者となったニナは、蟲惑的な笑みを浮かべたアスフェルにフリックあげると持ち掛けられ自ら不戦敗を宣言してしまった。
さらにアスフェルはゲンゲン、ボルガン、ヒックス、シド、マイクロトフ、ザムザを降し、記念すべき五十勝目をシーナ戦で制した。
さすがにアスフェルの額には汗が目立つようになったが、それすらも陽に反射して美しい。
後ろ手に棍を構え、必要以上に叩きのめしたシーナを見下ろして意地悪くにやりと笑ったアスフェルの唇をしっかり注視してしまったルックは、衝動で持っていたカップを取り落としてしまった。
カップは幸いにして近くにいた部下が受け止めたものの、ルックには自分に何が起こったのかわからない。
ただ慄いた。
いよいよ最後の二戦となり、中庭は異様な盛り上がりを見せていた。
五十二対一の模擬試合で副将となるビクトールは、彼にしては知性的といえる戦略を練った。
つまり、星辰剣と勝てば入念に研ぐ約束を交わしたのである。
持ち主以上に意気込む星辰剣とビクトールの豪腕とに、アスフェルは予想以上の苦戦を強いられた。
触れれば星辰剣が強烈な魔力を流してくるため、迂闊に武器を交差させることができない。
アスフェルは真正面に繰り出される重い剣を紙一重で受け流し、後方へ跳び退って、出足の遅いビクトールが一拍遅れる瞬間を辛抱強く狙った。
窓から身を乗り出して観戦していたルックも、知らず手に汗を握っている。
ついに、なかなかクリティカルヒットの出ない剣戟に焦れたビクトールが喉元へ渾身の突きを仕掛けてきたところを、深く沈めた体勢から低く呻った天牙棍が弾き飛ばした。
返す刀で脇腹へ一撃加え、間髪を入れず石突で鳩尾を抉る。
ビクトールは声も出せずに悶絶した。
「……あ、ごめん、やり過ぎた」
肩を竦めたアスフェルは、見物人の拍手喝采に包まれた。
賭博場でビクトールに賭けていた者たちの賭け券が悲痛に散らばったが、それでもほとんどの観客がアスフェルに賭けているためさしたる混乱もない。
いよいよ最後の挑戦者の番になり、大将・リツカはいくらか緊張した面持ちでアスフェルの前に立った。
「アスフェルさん……やっぱりぼくまで回ってきましたね」
「当然」
ふたりの天魁星が織り成す熾烈な戦いを予想して、見物人もルックも、まばたきすらできずに固唾を呑んだ。
中庭がしんとして、ずっとルックを苛んでいた衝動がどうにも抑えきれなくなる。
ルックは小さく小さくアスフェルの名を呼んだ。
微かに口を動かしただけで、誰にも聞こえなかったはずなのだが。
ふいにアスフェルが、ルックを見上げた。
アスフェルは窓枠を握り締めているルックへ優しげな瞳を向けると微笑みかけ、呆然とするルックを残してリツカに向き直ってしまった。
伝わったのだと確信して、ルックは体内を巡る血という血がすべて沸騰するのを感じた。
「よろしくお願いします!」
きちんとお辞儀するリツカに笑んで、アスフェルは棍の先をリツカに向けた。
「よろしく。じゃ、始めようか」
周囲で生唾を飲む音が聞こえ、寸時。
リツカのトンファーが小気味好く棍を飛ばし、勝負はあっさりついてしまった。
ルックは瞠目した。
棍が地に落ちる軽い音だけが静まり返った中庭にこだまする。
長く続くと思われた沈黙を数秒で破ったのはやはりリツカで、それでもしばらくは突っ立って体を震わせていたのだが、溢れる喜びをついに爆発させてばんざーい勝ったーと飛び跳ねた。
「アスフェルさんに勝てたー!! わーい!! ばんざーい!!」
義姉ナナミが飛び出てきてリツカと抱き合い、つられてリツカに賭けていた少数が勝ち鬨を上げた。
「あぁ、負けちゃったね」
何でもないことのようにアスフェルは棍を拾い上げて、小躍りしているリツカと握手を交わした。
呆気にとられていた群集も一斉に歓声を上げながらリツカのもとへ詰め寄せた。
そして、この奇跡の勝者が統一戦争においても同盟軍を勝利に導く盟主たらんことを讃えて、中庭は祝賀会ムードへ移行した。
「何でわざと負けたのさ?」
窓の下にまっすぐやって来たアスフェルへ告ぐ、最も明敏犀利な観戦者としての痛烈極まりない第一声である。
声こそ刺々しいものの、ルックの表情はむしろ和やかだ。
「ルックのため、だったりして」
アスフェルは悪びれずに答え、目を細めて笑んだ。
「ちゃんと、ルックの声援が聞こえたから、頑張らないとって」
言いながら棍をルックに渡すと、建物自体の基部が高いため一階でも一メートルはある窓べりを掴み、懸垂の要領で器用に体を持ち上げてルックの執務室にするりと入り込んだ。
「別に」
応援なんか、と反論しかけてあのうずうずする衝動を応援と呼ぶことに思い至ってしまい、ルックは口を半分開けたままアスフェルを凝視するに留まる。
確かに、アスフェルを励ましたいと願った。
それはルックにとって認めがたい感情であり、誰にも気を許した覚えはないと苛立ちながらもそれがアスフェルだからこそ奇妙に納得している自分がいて、またアスフェルのせいで何日も葛藤するはめになるように思われた。
いつの間にかルックの部下にお茶を淹れさせ悠々としてソファに腰掛けているアスフェルを睨め付けると、持たされていた棍をぐいと押し遣って再度問う。
「混ぜっ返さないでくれる? ああいうの、あんたの辞書では卑怯って言うんじゃないの?」
きちんと戦えばいいのに、軍の士気向上のため、リツカを持ち上げるために負けてみせるなんて狡猾な大人のすることだ。
「取引って言うんだよ」
アスフェルは人差し指を立てて鹿爪らしく応じた。
憮然としてルックは腕を組む。
「誰と? リツカ?」
「そんなわけないでしょ、シュウだよ。リツカに貯金全額賭けたらしいから、配当すごいことになってるんじゃない?」
「ふうん。やっぱり卑怯だね」
あの軍師ならやりかねない。
どさりと隣の椅子に深く掛けて、ルックはアスフェルの紅茶を奪い取った。
「で、あんたへのリベートは何なのさ」
一口飲んだ紅茶には何故かアスフェルが入れないはずの砂糖入りで、しかも丁度良くぬるまっていた。
アスフェルがもの凄く濃い笑みを口元に上らせたので、嫌な予感がして心当たりを探る。
「……聞きたい?」
「……まさか、」
「ルックが欲しがってた風呂付きの個室、ゲットしちゃった」
てへ、と舌を出してかわいらしくウインクし、ついでに俺がいなかった間に本拠地内で出回っていた生写真も買い占めてもらっちゃったんだよね、と補足してくれた。
「ぜんっぜんかわいくないからその気持ち悪いぶりっこはやめて……。っていうかあんたに頼んでないのに何でそのこと知ってるの……」
「俺とシュウは結構仲良いんだよ」
「……確かにその陰湿なまでの腹黒さが似てるけど……仮にも軍師として個人のプライバシー筒抜けさせてるってどうなわけ……」
「ルック、嬉しくない? お風呂ちゃんとシャワー付きにしてくれるんだよ」
実はこの模擬試合のために魔法兵団で治療班を組まねばならず、ホウアンと相談したり書類が増えたりでルックは余計忙しかったのだ。
ルックの部下と「ルックには個室が必要だよねー」と頷き合っているアスフェルは、勝手にとはいえルックのために頑張ってやってくれたことには違いなく、どうにも憎めなくてルックは脱力した。
アスフェルといると気分が楽になる。
とりあえずシュウに報復はしておこうと、窓辺から風を操って片っ端から賭け券の束を引き裂くと空にばら撒いた。
紙切れが雪のように、同盟軍を祝福する紙吹雪となって降り注いだ。
「おしおきだよ」
アスフェルを真似てかわいらしく笑ってみれば、意外なことにアスフェルは何も返さず俯いたのみだった。