都市同盟軍でアスフェルがルック親衛隊に襲われるのは日常茶飯事であり、また、アスフェルの狼藉者撃退法はその常人離れした陰惨さが解放戦争の英雄譚とともに広く知れ渡っている。
しかし、ルックがアスフェル信者の嫌がらせを受けることがあるのか、受けるとどうなるのかは同盟軍七不思議のひとつであった。
「うわぁ……」
“石版前に積まれた堆肥をせっせと片付けているルック”という世にも奇妙な光景に出くわして、まずその悪臭にフッチは思わず鼻をつまんだ。
退避しようにも自分の声で振り返らせてしまったルックと目が合ってはそうもいかず、とりあえずお風呂セットを小脇に置いてルックの隣にしゃがみ込んでみる。
「うえ、マジくさ……。……ルック、これ何があったの?」
口を開くと匂いが体の中まで入った気がして慌てて閉じた。
それでもフッチとしては手伝う覚悟で再度口を開いてみたのだが、壮絶に不機嫌なルックは肘でフッチを押し遣るようにして掻き集めた堆肥を袋に突っ込むのみで、徹底的にフッチを無視しようとしている。
かわいげがないのはいつものこととしてこの汚さはあまりにも可哀想なので、フッチは構わず雑巾をルックの足元から一枚ひったくると息を止めて床を拭き始めた。
「ちょっと、いいよフッチ。自分でやるから」
ルックはいつだって、こっちが勝手に行動を起こすと何だかんだ言いつつきちんと反応してくれる。
今もフッチが作業に加わった途端刺々しい目付きで睨んできたルックを、これも彼なりに気を使ってくれているのだろうと拡大解釈することにして、フッチは手を動かし続けた。
「見ちゃったし仕方ないじゃん」
「だからいいって言ってるんだけど」
「でもこれ見て放っとくとかそりゃ放っといてお風呂行きたいけど普通できないの、普通そうゆうもんなの。手伝うよ」
険悪な顔のまま雑巾に伸ばされたルックの手を難なく躱す。
ルックはしばらくフッチを不審げに見詰めていたが、短くため息を吐くと作業を再開した。
使った雑巾もまとめて焼却炉にぶち込んだその足で洗面所に直行すると、フッチは赤くなるまで手をごしごし擦った。
皮が擦り剥けそうなほど洗ってもまだ匂いが残る気がするが、いい加減手がひりひりしてきたので潔く諦めて、水を蛇口から直接飲む。
ルックは腕も捲くって濯いでいたが、フッチを見ると同じように蛇口へ唇を近付けた。
「誰にされたの? あんなこと」
舐めるようにほんの少しだけ水を含んで満足げなルックを見守って、フッチは至極当然な疑問を尋ねてみた。
「知らない」
「……え?」
無視されるかと思いきや存外あっさり返事が返って来た。
しかしルックらしくなく目を泳がせ、およそ知らないという顔付きではない。
これは何かあるなと直感し、知らぬが仏というこの状況下において非常に適切な格言を棚上げしたフッチはこの際とことん詮索することにした。
「どう見てもうっかりこぼしちゃったーって感じじゃなかったし、ってか夜にあんなものが城内にあるわけないし。わざとにしても絶対普通の恨まれ方じゃないよ。もしかしてアスフェルさん関係?」
「知らないってば」
「目を逸らすってことは当たり? アスフェルさんとまた喧嘩したの? ってゆうかルックってアスフェルさんといったいどうゆう関係のつもり? 友達? じゃないよね?」
「だから知らないってば! しつこいよ」
「いいじゃん手伝ったんだし――」
フッチがさらに言い募ろうとしたところ。
有無を言わさず遮るような凄まじい圧力を背後に感じて、恐怖に指先まで凍りついた。
「フッチ、こんな夜中にふたりきりで何してるのかな」
予想通りの人物、アスフェル=マクド−ルの登場である。
優しく甘やかなテノールが穏やか過ぎる響きをもって耳をくすぐり、ブラックホールの如き底知れぬ恐怖を垣間見てフッチは背筋を震わせた。
「ア……アスフェルさん……ええと、これはたまたまっていうか……」
背中に嫌な汗が伝い、フッチはしどろもどろで言い訳を捻り出す。
いや、言い訳するようなことは誓って何もないはずなのだが、そうせざるを得ない凶悪なオーラが背後の人物には備わっているのだ。
「お風呂に行ったんじゃなかったのかい? サスケが探してたよ」
絶対零度の笑みで追い払われ、フッチは誤解を解くのも恐ろしくその場から逃げ出したのであった。
「だからあんたには関係ないって」
「それは俺が決める」
「何でいちいちあんたに干渉されなきゃいけないわけ。石版守が石版の掃除するくらい普通の、」
「こんな夜中にするのは普通と言わないんだよ」
「まだ十時じゃない」
「もう戌の刻だろう」
「とにかく放っといてくれる?」
「却下」
「あんた一体何様のつもりさ。僕の何?」
「今は同盟軍の助っ人、元ルックの上司」
「今は僕に関係ないね」
「立場は違えど同じ軍なんだから充分関係あるよ」
「……」
「……」
「……」
「……」
フッチが去ったそばから舌戦を始めたルックとアスフェルであったが、きりがないのでどちらからともなく口を噤んだ。
重い沈黙が流れる。
水で冷たくなった手を握り締めていたルックははたと気付いて捲くっていた法衣の袖を下ろし、冷えてきた腕をさすりながら盛大に溜息を吐いた。
だから嫌なのである。
ルックは、昔からルックが受けた嫌がらせに対するアスフェルの処置は酸鼻を極めるえげつないものだったため、アスフェルは他人にも公明正大さを求める節があり陰口などに容赦がないという印象を持っている。
そこで、元来周りで人に騒がれたりするのに不慣れなルックは、なるべく目立たぬよう大事になる前に自分で証拠を隠滅していた。
今日アスフェルは盟主と軍師に招かれて軍編成に関する相談を受けていたはずだから、本当は会議が終わる前に処理してしまう腹積もりだったのだ。
また容疑者を絞るためだとか言ってねちねちした質問攻めに合うのかと、ルックはうんざりした。
「ルック、寒くない?」
ルック同様むっつりしていたアスフェルが、突然がらりと調子を変えてルックの指先に触れた。
「やっぱり冷たい」
アスフェルはそのままルックの指を左手で握り込んで、体温を分け合うようにぎゅっと力を強めた。
新陳代謝が活発なのか高血圧なのか、アスフェルの体温はルックより少し高いように感じられる。
無意識にアスフェルの空いた右手へ指を伸ばしてしまい、ひんやりした感触を予想していた指が意外に温かい甲に触れて、ルックはびくりとして己の凍えた指先をさ迷わせた。
アスフェルの右手は、そこに宿る真なる紋章の意思を反映する。
それが温かいということは、紋章が満腹だということだ。
他人に触れられたがらない彼の右手に何故そうと知りつつ指を伸ばしたのかは自分でも分からないが、とにかく申し訳ないことをしたとルックは気まずげに眉を寄せた。
「あ、分かった? さすがルック!」
しかし発せられたのは嬉々とした声音で、ルックは驚いてアスフェルを凝視する。
「ソウルイーター、おとなしいだろう?実はこの間ヘリオンのところまで行ってきたんだ。ああ、今彼女にはトラン共和国の星見をお願いしているんだよ。それで、三日かけて紋章学の基礎を教授いただいた」
にこにこと子供のように笑ってアスフェルは話した。
基礎と言ってもアスフェルは書物や学校で学べることならあらかた習得しているので、自己の魔力を練り上げて紋章の周りを覆ってしまうことによりその意思をある程度遮断するという、結構な荒業を習ってきたのだった。
ルックも普段は同じようにして真なる風の紋章をコントロールしており、それでも真の紋章は一介の魔術師に御し切れるほど生易しい代物ではないので、上に普通の風の紋章を重ねて抑制剤代わりにしている。
ヘリオンにはもしかしてそこまで見抜かれていたのかと、年の功に感嘆した。
「まだ長時間は続けていられないんだけど。とりあえずこいつに暴走はさせない自信があるよ」
アスフェルは屈託なく笑い、ほら、と右手でルックの指を握ってみせた。
手袋越しにじんわり暖かさが染み入るような心地がする。
「ごめんルック、冷え切っちゃったね。おいで」
さりげなく、しかし壊れ物を扱うようにそっとルックの肩に腕を回しながら、制裁は後回し……と呟いているアスフェルにうっかり見惚れてしまったルックは、げんなりしつつもぬくいアスフェルの脇から離れられなかった。