穏やかな日差しのふりそそぐ小春日和。
グレッグミンスターはどの家からも香ばしい焼き菓子の香りが漂う午後になった。
隣人をお茶に招き合い、他愛もない話で柔らかな陽気を楽しむのだ。
トラン共和国が平和になった証拠である。
トランをそんな平穏へと導いた立役者であるアスフェル=マクドールは、自室で分厚い書類に目を通していた。
レパントから押し付けられた議事録の束や来年度の予算編成に関するそれらは本来出奔した自分が見るべきでないはずだが、彼らなりにアスフェルの居場所をここに作りたいのだろう。
また出ていかないように。ここに留まる理由があるように。
察しないわけにもいかず、アスフェルは渋々書類を捲っていた。
そろそろグレミオがおやつを持ってくるだろう、ときりの良いところで書類から目を離し、固まった首を回す。
次いで大きく伸びをしたところに、窓の外から聞き覚えのあるにぎやかな笑い声が聞こえた。
またか。
嘆息しつつアスフェルは窓を引き開ける。
室内を吹き抜けた風に目を眇めながら身を乗り出して、予想通り門扉に小柄な少年と他四名の姿を認めた。
「アスフェルさーん!! 今日もお願いしていいですかぁー!?」
齢十六になる同盟軍盟主であるリツカは、目敏くアスフェルを発見すると周囲の目も気にせず飛び跳ねて両腕をぶんぶん振り回した。
仕方がない。
アスフェルは二階の窓からにこやかに手を振った。
完全な愛想笑いであるが、幸いにしてそれに気付くような眼力を持つメンバーではない。
――ひとりを除いては。
あからさまに嫌そうに秀眉をしかめた魔法使いを視界に止め、アスフェルはくつくつと笑いながら先程と違って心から手を振ってみた。
一拍の後、さらに不機嫌そうな顔が返った。
「で、今回はどこに行く予定?」
リツカ、ナナミ、チャコ、トウタ、ルックといういかにもなお子様メンバーである。
「交易です!!」
遊びです、と限りなく同意であることを示す浮かれた声を発し、リツカは玄関を開けて出迎えたアスフェルと横にいたグレミオをも押し遣って居間へ入り込んだ。
「今日はグレッグミンスターでゆっくりするつもりなんですけどね、わっ、いいにおいすると思ったらやっぱりケーキ!!」
「あーん、グレミオさんのケーキぃー! たまらない誘惑だわっっ!」
「オレもケーキ好きだぞ!」
「僕も大好きなんです。甘くっておいしくってびっくりしました」
リツカたちは口々に騒ぎながら当然のようにテーブルに着いた。
図々しいにも程があるが、何といつものことなのである。グレミオの手料理に味を占め、ティータイムを狙い澄ましてやって来るようになったのだ。
ルックだけは呆れたように玄関先で立ち尽くしているが、それもいつものことである。
アスフェルはルックのために椅子を引いて手招きしてやった。
ルックは憮然たる面持ちで突っ立っていたがすぐに観念し、重そうに足を引き摺って居間に入るとそっけなくアスフェルに背を向け席に着く。
アスフェルの目の前で柔らかな髪からこぼれる光が煌めき、さらりと音がしそうに揺れた。
「坊っちゃん用に作ったんですけど、たくさん焼きすぎちゃったので良かったら皆さんもどうぞ。明日ご出立されるなら今日はこちらに泊まります?」
毎度の振舞いにすっかり慣れているグレミオは、早速ケーキを切り分け始めている。
料理に関してのみ恐ろしく勘の鋭いグレミオは今日も何か予期していたようで、いつもより大きいケーキは来訪者を歓迎するのに充分な量であった。
「じゃあお茶手伝うね!」
気を利かせているつもりでキッチンに入ろうとするナナミを、以前そうと知らず酷い目に遭ったアスフェルは慌てて制止した。
「いいよ、バナーからここまで歩き通しだろう? 女の子に無理させるわけにはいかないから」
代わりに自分が淹れようと、名残惜しげにルックの後ろを離れキッチンに向かう。
と、珍しくルックも付いてきた。
「……僕も手伝うよ」
不機嫌な声音だが、ほのかに耳朶のあたりの血色がよい。
照れちゃってかわいいなぁと見つめてから、アスフェルはそれを表に出すことの愚を重々承知しておりしっかりと口元を引き締めた。
心ゆくまで交易とは名ばかりの休日を楽しむべく、リツカたちはケーキを平らげて早々に遊びに行ってしまった。
グレミオも夕食に備えて増えた人数分の材料を買いに行ってしまい、クレオやパーンが仕事に出ているマクドール邸はルックとアスフェルのふたりきりになってしまった。
ルックは居間で頬杖を突いてぼんやり外を見ている。
アスフェルはふたり分の紅茶を淹れ直して一方にジャムを垂らし、そっとルックの前に置いた。
あくまでもリツカとアスフェル間での無言の密約であるが、ルックは引換券である。
同盟軍への助力は惜しまない代わりに、パーティーを組む時はルックも入れることという暗黙の了解なのだ。
アスフェルはこの三年間、すべてを投げ出したつもりで捨てきれず結局グレッグミンスターに程近いバナーの村へ定期的に足を運び、バナーから情報収集や敵国干渉の事前対処を行っていた。
アスフェルは動向を誰にも察知されていない自信があり油断していたのだが、バナーでリツカに出くわしビクトールやフリック、そしてルックとも再会した。
リツカはああ見えて目端が利くから、ルックとの久しぶりの会話でアスフェルが僅かに動揺したのを悟られたらしい。
何を頼んだわけでもないが、リツカがグレッグミンスターを訪れる時は必ずルックを連れてくるのだ。
聡いリツカとは話すと非常に快く、また三年前の天魁星である自己に重ねずにはいられなくて、できる限りのことを手伝いたかった。
手伝う先にルックもいるのだから、まさに一石二鳥である。
しかし、実は嬉しいかというとそうでもない。
ルックに向き合うと自分でも整理のつかない激情が、ありとあらゆる感情が総動員されるような感覚がざわめき、三年前よりも鮮やかに、何もかもが清々しく熱く胸に迫るのだ。
この正体を確かめたくはない。
否、アスフェルは既に答えを出しているのだろうが直視したくないのだ。
親友はテッドで充分だ。
家族は父親とグレミオで充分だ。
そこで先の思考を塞いでいるのだった。
ルックは相変わらず庭を見続けている。
コスモスが秋風にそよぎ、赤とんぼが群れるのを眺めている。
いつもなら古書を探しに行ってしまうルックがこんなにじっとしているのも珍しいと思い、気にかけていない風を装って紅茶を飲みながらアスフェルは端整な口元やさらさらの猫毛、今日はまだ一度も合わせてくれない翡翠の瞳をこっそり窺ってみた。
「……?」
瞳がほんのり潤んでいる。
よく見ると、ルックの耳朶がまだ火照っているようだ。
最近急に夜が涼しくなったし、いやでもまさかルックが自己管理もできないなんて、しかし俺とふたりきりな状況にあのこまっしゃくれルックが恥じらったりするわけが、と堂々巡りする葛藤の末、男らしく覚悟を決めろと自分を叱咤してアスフェルは立ち上がった。
お互いテーブルを挟んで対角に座していたため、アスフェルはテーブルを迂回してルックの傍へ歩み寄った。
「ルック」
呼びかければ、一拍遅れてルックが振り向く。
「……何?」
確信し、アスフェルはルックの額に手のひらを当てた。
「やっぱり、熱がある」
「……別にたいしたことじゃない」
「微熱でもしんどいだろう。おいで」
頬杖にしていたルックの左手を引くと驚くほど簡単に細いからだがよろめいた。
「放っといて」
「俺の部屋なら静かだし、誰も入らないから少し寝るといい」
「いらない。平気……」
拒む声も力ない。
ルックが床に目を落とした途端冷静でなくなったアスフェルは、問答無用でルックを引っ張り上げて首の後ろと膝の裏に手を差し入れた。
そのままひょいと抱え上げて二階に向かう。
「ちょっと、何すんのさ。降ろしてよ……」
抱えてみるとルックの身体は温もっていて、口は減らないが抵抗する様子もなかった。
自室のドアを足で蹴り開け、糊のきいたシーツにルックを横たえる。
ブーツを脱がしてもほとんど身動きせず、毛布をかけてやると苦しげに目を閉じた。
風邪と疲労が重なってしまったのだろうか。
何せよ自分が近くにいて良かったとアスフェルはとりあえず胸を撫で下ろし、悶々と沈んでいた割には俊足な己に我ながら単純なものだと息をついた。
「ごめん……」
すぐ眠りについたと思っていたルックが、小さく告げてきた。
「いいから、安心して、無理しないで」
ルックは他者と関わることが不得手である。
今も他人に何かされたことが無条件に居心地を悪くさせているのだろう。
他人。
アスフェルの中にまた、何かの感情が込み上げてきた。
「こういうのは謝るところじゃないよ」
「じゃあ何て言うのさ」
「ありがとう、かな」
薄く目を開けてこちらを睨んだルックは、それも束の間でまた瞳を閉ざしてしまった。
「熱はそんなに出てないみたいだし、少し休めば良くなるよ」
最後にルックの髪を一撫ぜしたい衝動を呑み込んで、アスフェルはできるだけ静かにおやすみと声をかけた。
返事が来るとは期待していないのでそのまま部屋を出ようとすると、毛布に遮られくぐもった声が耳に届いた。
「……ありがと」
笑みを残して扉を閉め、部屋から遠ざかって十秒数えるとアスフェルはその場にへたり込んだ。
自分の想いなどとうに自覚している。
今のはやばすぎる、どうするんだ俺。
全くらしくない。
バンダナを巻いたまま頭をがしがしと掻き、これは早急に作戦を変更すべきかとまずは熱くなった頬を冷ますことに労を費やした。
微熱があるのは俺の方かも知れない。
だって、なかなか冷めないんだ。