夜明け前 2





診察室と医務室でそれぞれ休んでいたトウタとミオは、物音に飛び起きた。
両部屋の間に位置する病室から響くのは、台風が吹き荒れてでもいるような轟音。
鍵が内側から掛けられた室内で、壁に激しく何かがぶつかる音や、ガラス類の無残に砕ける音が二人に内部の状況を窺わせた。
トウタとミオは、蒼白になった顔を見合わせた。
「先生……、や、やっぱり……!」
あれは世界を滅ぼす悪魔だったのよ!
ミオは短く悲鳴を上げて、来たるべき災厄に怯え始めた。
まさか。
そのまま地べたに尻を付いて動かなくなったミオは肩をゆすってとにかく人を呼びに走らせ、トウタは残って果敢に病室の戸を叩く。
「ルックさん、ルックさん!! どうしたんですか!!」
木製の扉を何度叩けど、応えはない。
それどころか、医師なら聞きなじみのある音――つまり皮膚の裂ける音が、獣が咆哮するような風の唸りに混ざって聞こえてきた。
トウタの顔から血の気が引いた。
扉から離れるように、竦み上がった足をぎくしゃくと動かした。
背に壁が当たって心臓が縮み上がる。
怯えているのは自分もかと、かつての同胞へ申し訳なく思ってトウタは幾分冷静になった。
「……逃げるなら、もっと賢くやるはずですよね……。と、いうことは……」
中で何か不測の事態が起きている?
ならば自分は、「彼」を連れて来る必要があるのではないか?
トウタは踵を返した、……返そうとした。
しなかったのは、廊下の向こうに緋色の胴着が見えたからである。
ミオが警備兵を連れてくるには早過ぎると目を凝らし、トウタはまさに今来たらんと請うた鮮烈な朱に目を瞠った。
昔トウタが幼かった頃に憧れたままの凛々しい姿はどこにも乱れたところがない。
きっとこうなることを警戒して寝ずにいたことが察せられた。
「ア! アス……」
「任せろ」
滑り込むようにトウタの前へ立った人物――トランの英雄・アスフェル=マクドールは低く呟いた。
でも鍵がと言い募るトウタに小さく笑みを向ける。
使い込まれた棍を、水平に構えた。
軽く息を止めて力を込め、勢いよくドアノブを突き破った。


アスフェルが扉を蹴り開けると、突風が襲い掛かった。
トウタは眼前を腕で庇って立ち尽くすしかなかったが、アスフェルは動じもせず中に飛び込んでゆく。
廊下の僅かな灯りで窺える室内は、壁際でルビークの戦闘員が一人ぐったりしているのと、荒れ狂う風の中心で苦悶するルックが、薄闇の中かろうじて目視できた。
アスフェルは風圧を掻き分けるようにルックへ近付いてゆく。
一歩進むたびに、刃のごとく鋭い風でアスフェルはいくつも傷付けられていた。
今もまた頬に鮮血が走ったが、それでもアスフェルは構わず渦巻きの中心へ踏み込んだ。
アスフェルの傷口から血が流れる。
トウタは、何が悔しいのかもわからずただ叫んだ。
「ルックさん! アスフェルさん!!」
ぐいとアスフェルは頬を拭う。
その右手が、突如、黒く光った。
白い闇が、室内を飲み込んだ。
トウタの足下までを澱みのように覆い尽くしたあたたかい闇。
アスフェルが、右手をルックのそれに重ねるのが見えて。
「アスフェルさん!!」
途端に呆気なく暴風が止んで、トウタは前によろめいた。


嵐が、治まったのか。
真なる風の紋章の暴走を、生と死を司る紋章で中和させたのだろうか。
そんなことができるものなのだろうか。
室内を舞っていた医療器具が床にばらばら落ちるのを待って、床に膝を付いていたトウタは血生臭い病室へ入った。
ルックはアスフェルの胸へ凭れ掛かっている。
首元に、ひどい痣ができている。
指の形がくっきり出たその痣に思わず目を背けて、トウタは横で気絶している兵士を診た。
両腕と胸が大きく裂けているが、致命傷ではない……致命傷にならないよう、故意に急所から外されている様子の傷に見える。
とはいえ、このままでは失血死する恐れがある深い傷口であった。
すぐに治療しなければならないので取り急ぎ止血して、他に頭部の打ち身など傷はないかと手早く探す。
個数を数えていると、ベッドからかさかさの声が聞こえてきた。
「ア……、ス、フェル……?」
痛ましい、悲鳴のような声。
トウタはどきりと、心臓が抉られる心地がして振り向いた。
「……アス……ッ」
ルックが、大粒の涙を零して泣いていた。
あの痣では声を出すのも苦しいだろうに、ルックは何度もアスフェルの名を呼びながら泣きじゃくっている。

やっぱり、彼は信じていた通りだった。
平気で命を破壊できるようなひとではないのだ。


トウタは、兵士を担ぎ上げた。
まずこの虫使いの傷を治すことが医者の任務だと心得ている。
ルックにはもっと深い傷を負っている場所があり、しかしそれを癒すのは少なくとも医者ではないと思われた。


くぐもった呻き声を上げる兵士を傷に障らないよう背負ったトウタは、病室を出たところで足を止めた。
ミオが警備兵とヒューゴを連れてきたところであった。
こちらも眠っていなかったのだろう、夜着に着替えてもいないヒューゴは険しい顔をしている。
警備兵が銃器を携帯していることからも、おそらく事実とは逆のことが想定されているのだと、トウタは悲しくなった。
その誤解はきっと城中に広まって、解けることがないだろう。
トウタは兵士をミオに預け、ヒューゴを伴って病室へ戻った。















いくらヒューゴでも、その痣を見て事態が把握できないほど愚かではない。

この軍が種族も思想も超えて結束している、その根幹に対して、誰だってこうしたい気持ちがあって当然だ。
やはりこいつは一刻も早く処刑すべきだったのだ。
女の方は勝手に死んだが、それだって自分たちの手で殺すのとは大きく違う。
憎しみは、己が手で断たねば収まらぬ。


それを連鎖って言うのか?

昼間トーマスに突き付けられた言が、繰り返し耳に響いた。





今宵はいつになく、右手に宿る真なる火の紋章がざわざわと疼いていた。
記憶の騒々しさに眠りを妨げられたヒューゴは、ろうそくのほのかな灯りが揺れる中、かすかに視える炎の英雄ヒロの残滓をまんじりともせず追っていた。
終戦を迎えて一週間。
あの時感じた空虚な手ごたえは、今もまだ胸にある。
正義とは何か。
正しいとは何か。
英雄として為すべきことは、何か。
どれひとつとして、すっきりと答えの返る問いはなかった。


ミオが呼びに来て、ああやはり、と思ったのは、何に対してだろう。





アップルの旧識だというアスフェル=マクドールは、母から昔語りに聞いた門の紋章戦争で赤月帝国を打ち破った、かの有名なトラン解放軍の英雄だという。
破壊者を救うためにやって来たと公言して憚らない青年は、ヒューゴとシーザーをはじめとする軍の幹部を前に、臆すことなく炎の運び手の脆弱性を指摘した。
大国ハルモニアの脅威。
民族性という皮を被った根強い偏見。
グラスランドを守りたいと鸚鵡返しに言うが、グラスランドだけを守れば、今だけを守ることができればそれで良いのか。
かつて炎の英雄ヒロが目指したものはたった五十年で朽ちた。
今、求心力として継承した英雄の名を掲げる新たな運び手がもたらしたものは、いったい何年後に覆されるのか、想像に難くない。
それでも頑迷に自分だけ良ければと唱え続けるつもりなのか。
ならば、英雄を名乗る、価値もない。
ヒューゴは衝撃を受けた。
言い返せなかった。
納得したからではなく、この青年へ何を言い返しても保身の言い訳にしかならないと思ったのだ。
確かにヒューゴは、目に映るものだけ幸いであれば良いと思っている。
カラヤの皆、シックククランの皆、此度の戦争を通じて知り合った優しい鉄頭の皆、日々を逞しく生き抜こうとするビュッデヒュッケ城内の人々。
ヒューゴとしては、ひとりひとりがそうやって手の届く範囲で数名を大切にしていけば、いずれすべてのひとが誰かによって大切に守られると考えていたのだ。
それのどこが悪い?
全世界の全生命、ひとも獣も鳥も植物も、精霊の宿り得るすべてのものを永遠に守ろうなどと、神でなければできるはずもない。
この青年が示すのは、理想論だ。
「……そんなの、無理じゃんか」

しかし、己が浅慮を恥じたのも、確かだった。
ヒューゴの方こそ、性善説に拠った机上の空論でしかない。
非難とは裏腹にどこまでも穏やかな男の眼差しが、ヒューゴには却って苦しかった。
異なる意見を受け容れるのは、苦痛でしかなかった。





「トウタ、いったい何……う、うわっ!」
駆け付けた病室は、何が起こったか一目瞭然であった。
引き裂かれたカーテン。
砕けた薬瓶類。
破壊者の喉元へ刻まれた、痣。
惨状を見回して、壁に飛んだ血飛沫で全身がかっと熱くなった。
ああやはり、と、さっきとは異なる意味合いへどす黒く後悔が湧き上がったが、ヒューゴはそれを当然のことと知覚する。
やはりこいつはこうやって憎しみを煽り、傷付け殺し合うしかできないやつだ。
一刻も早く処刑すべきだ。
病室の前で見た瀕死の一般兵を思い返し、ヒューゴは憤りに拳を握り締める。
しかしほどなくそれは霧散した。
「……アス、フェル……」
血生臭い空気にではなく、戦の跡のような静けさにではなく。
掠れた声に、ヒューゴは心が引き絞られたのだ。
涙は、こんなにも透き通って流れるものだと、知った。
嗚咽はルルを亡くしたのと同じ痛みを孕む。
囁きは母に抱かれたのと同じ喜びを滲ませる。
誰でも同じなんだ。
誰だって、愛しいと思う心は同じなんだ。
ヒューゴは未だ疼く右手を先程とは異なる感情で握り締めた。


アスフェルに手を貸し怪我人を客間へ運んでやって。
青白い頬に走るいくつもの傷を、魔力の放出に震える眼窩を、それが誰であれ癒すのが英雄だと、ヒューゴは漠然と思ったのであった。

暗雲にわずか白光の差した気がした。





破壊者がこの城で手当てを受けて、もう三日目。
今昼になって破壊者は束の間意識を取り戻したものの、ヒューゴを含む幹部連中の目前で再び昏睡状態に陥ってしまった。
仕方なく、医者に面会謝絶を言い渡された気まずい雰囲気のまま、皆で破壊者の眠る病室を後にしたのであった。
セラという女の方はヒューゴが連行してきた翌日に息を引き取ったから良かった。
だから神官将もいずれと、今日まで議論は先送りになっていたのだ。
それがこのざまだ。
だからやはり……。
そんな内容をぶつぶつ愚痴ったヒューゴへ、別れ際トーマスはぽつりと言葉を放った。
連鎖を断ち切るのが英雄だ、と。


これを連鎖と言うのなら、連鎖を終わらせるにはどうしたらいいんだ?
ノックもせず寝室の戸を開けてしまったが、トーマスは察し良く起きていた。
客間を後にするや否や、ヒューゴは一も二もなく城主の寝室へ押し掛けてしまったのである。
強張った面持ちのトーマスへ、ヒューゴは訳も分からぬことをまとまらないまま吐き散らした。
破壊者の理不尽は、言い換えれば己の理論と同じではなかったか。
結局誰も彼もが互いにエゴをぶつけ合う、それが人間の運命なのか。
いったい、この空虚な燻りは何なんだ。
トーマスは、ヒューゴの混乱をひたすら黙って聞いてくれた。
「紋章は、何のためにあるんだろう……」
トーマスが呟く。
「ほんとうは、そんな力に頼っちゃいけないんです、きっと。憎しみは連鎖して、大きい力はさらに憎悪の歯車を勢いよく回します」
「じゃあ紋章が全部無くなればいいってことか? でもさ、それはあいつらがやったのと同じで、紋章一つ壊すのに巻き込まれる人間がグラスランド全部くらいいるんだろ?」
「ヒューゴさん。だから紋章を無くす、っていうのも。自分にとって都合の悪いものは排除しようって、あのひとたちと一緒の論理なんですよ」
「でもそんなこと言ってたらこっちが殺されるじゃん」
「……だから……争いはどうやったって絶対に無くならないんですよ……」
「なら不老のオレが、ずっと戦って守り続ければいいってことか? それで少しずつオレの味方が増えていけばいくほど、守れるものも多くなって」
「……わかりません」
「……いや。それこそ無理なことだった」
ヒューゴは深呼吸した。
窓の外を見た。
気付けば、朝だった。
初夏の斜光が、柔らかくヒューゴの右手をぬくめる。
結局一睡もしなかったと少し笑ってみせて、アスフェルに似た穏やかな笑みを返してくるトーマスを直視できずに、眩しい朝日のせいにして俯いた。
ヒューゴは初めて、溜息を吐いた。















トウタは兵士の傷口を縫合して、客間に運ばれたルックとアスフェルを手当てした。
ショックのあまり虚ろな目で立ち尽くすミオを、もう一度仮眠を取るよう諭して医務室へ閉じ込めた。
散らかった、では済まない病室を、患者が横になれる程度には片付けた。
手術時からつけっ放しですっかり忘れていたマスクを外した。
外は、朝だった。
昇ったばかりの朝日が斜めからトウタを照らす。
何が善で何が悪なのか。
ひとはこうして傷付けあうしかできないのか。


トウタは血のこびり付く手袋をただ見つめた。
長い夏の日の、夜明けだった。