夜明け前 1





悪夢を見た。





四肢は食い千切られ、逃げても逃げても繰り返し。
捕らえられて、歯が立たなくて、何度も全身を引き裂かれる。

色もなくなる。
音もなくなる。
香りもなくなり、寒暖もなくなった。

周りに在るものは、皆無。
静寂という名の秩序だけが、厳然と。


歪。

泥沼に沈む。
底なしの侵食。
ぶちまけられた体液の洪水と絶叫の数々。
灼熱の痛みと凍傷の痛み。
足掻こうと伸ばした手は、赤黒い血の海に呑まれてねばねばと溶けてゆく。

すべてが混沌。

悲しくなり辛くなり苦しくなりそれでも涙が出ない。
感情も呼吸も堰き止められて行き場をなくす。


凝り固まった信念も思い込みの仮面も嫌悪すべき肉体も不必要なものを封印していた殻も、すべて秩序に嵌め込まれ混沌に蝕まれて、
黒い帳が降りた時。

白い闇を奥に見た。





なんて懐かしい瞳。





振り切る間もなく脳味噌がぐちゃぐちゃに塗り潰されて、……目が覚めた。





月のない夜だった。
ベッド二つと衝立と薬品棚しかない狭い病室の、閉じられた窓からは風の匂いも草木のさざめきも届かず、白いはずのカーテンも黒々と窓の隅に結わえ付けられて、外界を四分割する枠の向こうに広がる景色は蒼黒の空が地を這う様のみである。
いつもの未来夢とは多少異なる、いわゆる悪夢であった。
目覚めたというより無理矢理浮上させられたような鈍痛が視神経のあたりにわだかまっている。
ルックは、紛らすように緩く首を振った。
そして己を覚醒せしめた気配――殺気、へ意識を向けてやる。
「……なに、か、用?」
殺気。
明確な殺意。
ベッドの脇で仁王立ちになっている男は、本国に似せた特徴的な服装からルビークの戦闘員と知れた。
「……」
男は返答する代わりにわかりやすい憎悪を表情で示したが、それは破壊者への怒りなのかハルモニアへの恨みなのか、ルックには判別がつかなかった。
どちらにせよ、憤怒に煮えたぎる顔で首に伸ばされた両手を止めるつもりなど、今の自分には毛頭ない。
「死ね……!」
グラスランドの、人民の怨恨を一身に被ることは端から覚悟できている。
それでも真っ直ぐ己に向けられる負の感情に晒されて耳が痺れるような感覚に襲われたが、ルックは、目を閉じて粛清を受け入れた。

折れそうなほど激しく、首を絞められた。


さっきの悪夢とどちらがましだろう。
喉が押し潰されて、息ができなくて、血流の滞った頚動脈が破裂しそうに膨れ上がる。
遮られた血液は、毛細血管にまでみっしり溜まってこめかみから脳を圧迫した。
歪んだ視界に赤黒く激昂した男が濁って映る。
その荒い息遣いと自分の鼓動だけが鼓膜を震わせて、きんきんとうるさいくらい耳鳴りがして、他には何も聞き取れない。
苦しさのあまり、無意識に虫使いの両手へ爪を立てていた。
ごつごつした手を引っ掻いた感触と僅かな血の臭いが生々しかった。
出入り口を塞がれた気管が呼吸困難で収縮してゆくような苦痛。
脳裏に、この容器は塵芥と化して、真なる風の紋章の飛び立ちゆく幻影がよぎった。


その時。

右手に制御を離れた紋章が凶悪に蠢いたのを感じて、ぞくりと背筋が粟立った。





ごうと旋風が渦巻いた。
ルックの上に馬乗りに跨っていた虫使いは、まるで棒切れのように跳ね飛ばされた。
壁に身体が打ち付けられてもなお荒れ狂う風の刃に切り裂かれ、夜闇に赤い霧が散る。
暴走した嵐は自我をなくした獣の牙のごとく周囲を引き裂いて止まず、病室を狂暴に吹き荒れてルックの皮膚にも無数の切り傷を作った。
右肩から先の所有権は紋章に持っていかれたようだ。
辛うじて動いた左手で解放された首を庇いながら、ルックはどうにか身を起こした。
詠唱しようと言霊を紡ぐ。
「し……なる、風、……んしょ……よ……、しず、ま……」
しかし詠唱どころか、潰された喉の傷みで激しく咳き込み声を出すことすらままならなかった。
肺がようやく取り込めた酸素を欲張ったのか、過呼吸のような胸痛に軋み息が詰まる。
「……!」
ぐんと風圧が強くなった。
空気を根こそぎ奪われたみたいに呼吸しにくい。
とにかく、紋章を止めなければ。
ルックは全力で紋章を抑え込もうと、咳を堪えてありったけの魔力を右手に注いだ。
きぃんと不協和音が響いた。
紋章の放つオーラがぐらりと揺らぐ。
「く、そっ……」
だが、嵐の猛威はまるで治まる気配がない。
ルック自身の魔力がまだほとんど回復していないせいもあるが、それだけでなく、これは真なる五行の紋章が助力しているのかも知れなかった。
肺へかかる圧力に耐え切れず、ルックは再び咳き込んで突っ伏した。
このままでは紋章の思い通りになる。
こいつは好きなだけ暴れて、なにも無くなった更地に神々の完全なる秩序を打ち立てたいのだ。


「――」

非常事態なのに、変わらず穏やかな彼の声が聞こえた、……気がした。
そこに、いる?
ルックは漂う闇へ同調した。
固く瞑った瞼の裏、懐かしい漆黒が映った。

――大丈夫。

右手がぬくもりに包まれた。
穏やかな魔力が内を満たした。
唐突に竜巻が止んで、紋章がすっと沈黙する。
巻き上げられていた毛布や薬瓶が、音を立てて床に落ちた。





首を押さえたまま強張った左手を、そっとなぞられ解された。
薄らと瞼を開くと、傍らには黄昏と暁を重ねた瞳。
記憶にある姿とほとんど変わらない笑みが、眩しく懐かしくルックの目を射た。
咳き込む背中をさすられて、体温がじんわり染みてゆく。

トラン建国の英雄、アスフェル=マクドールそのひとであった。


「ア……、ス、フェル……?」
十五年ぶりに呼んだ名は、幾度となく舌に乗せたはずなのに、絞められた咽喉へ絡まって不恰好に掠れた。
咳とともに迫り上がる熱が勝手に溢れて、涙腺がゆるむ。
右の甲に手を添えられ、背中を支えられて、そのぬくもりに涙が止まらなくなってルックはひとしきり泣いた。
嗚咽に混ざって何度も咳がぶり返す。
そのたびにひりひり痛む喉がいがらっぽい音を立てて嘔吐いた。
何に涙が出ているのか分からない。
なぜ泣いているのだろう。
こんな弱いところを、だれにも、……あんたには特に、見られたくなかったのに。
声を絞り出したせいで渇いて痞えた気管支が、息をするたびにささくれた荒い音を鳴らした。
「……アス、フェル……」

大切な言葉なのに、いくら口にしても、綺麗に呼べなかった。