真なる風の紋章は、驚くほどこちらの魔力を受け容れてくれた。
ソウルイーターに敬意を払ってでもいるかのようだった。
否、払っているのだ。
紋章ではなく、宿主が。
こんなになっても根っこは変わらない想い人の、体温すら保てないほど衰弱した身体を、アスフェルはそっとベッドへ横たえた。
ヒューゴが去って間もなくトウタが応急用具を持ってきた。
傷口を消毒して、首に緩く包帯を巻いて病室へ戻った。
隠しても、痛みは消えないけれど。
青紫の斑が蛇のごとく白い喉へ絡みつくよりは、同じ白の布で覆われている方がまだましだった。
アスフェルはルックの髪を撫でた。
服の裾を離さないくせに目を合わせようともしない小生意気な態度は、昔と変わらず愛おしかった。
「何、拗ねてるの」
つい苦笑しながら尋ねてみる。
ルックは口裏を合わせるみたいに頬を膨らませた。
このこまっしゃくれたところも変わらない。
紋章を暴走させただけでなく他人の前で泣くという醜態に、それこそ洒落にならないが死ぬほど恥ずかしいのだろう。
怒っていることにしてあげたアスフェルは、ぽんぽんと頭を撫でてあやしてやった。
まだしわがれた声で、囁くようにゆっくりと、ルックは言葉をつむいだ。
「……べ、つに……あんた……が、ぼ、く、」
「先に釘を刺しておくけどね、助けなくて良かったとか言ったら俺も怒るから」
「……かっ、て、な」
「それはお互い様だろう、俺は俺の望むことをする。昔の俺が、今のルックが、そうしたようにね」
ルックは口を噤んだ。
声が出なかったのかも知れない。
アスフェルは座っていた椅子を押しのけると、床に座ってルックの枕元で頬杖をついた。
空いた右手でルックの髪を梳く。
「十五年前、ルックは俺の気持ちなんか信じないと言ったね。ひとの心は移りゆくもので、奥底は皆狂気だ。未来だけが変わらないものだと」
「……」
「レックナートの居所を掴むのに時間がかかり過ぎたけれど。ようやく突き止めて、それでも口を割らないからルックの行動は全部自分で調べたんだよ」
ルックの体が硬直した。
アスフェルは先んじて、一番嫌であろうことを言ってやることにする。
「つくりものでもいいじゃない」
「!!!」
ルックは震えた。
肩を縮こめて、唇を引き結んだ。
見開かれた目だけが、大きく揺れている。
アスフェルは無理やり目を合わせんがためルックの顔を覗き込んだ。
逃げようとする顎をこちらへ引き寄せる。
ルックは抵抗する体力も残っていないらしかった。
かくんと首が横に向いた。
ルックが俺の目を見て判断してくれたらいい。
嘘ではない、と。
「俺はルックの目鼻立ちや手足や内臓を愛してるわけじゃない」
ルックは息を詰めている。
アスフェルには笑む余裕もなかった。
「ルックの自我を、愛してるんだ」
間近で、一字一句聞き漏らさせないように、アスフェルは強く言った。
だから経緯などどうでもいいのだと。
伝わるように、ひたすら翡翠を受けとめ続けた。
例えルックを愛していなくとも、アスフェルに己と異なる構造物を蔑む道理はない。
異なることと、排斥することは別だ。
できてしまったものは、どんなものであれ、そこに在るという存在そのものを誇っていいのだ。
もし異物は不必要だと判断されたとして、ではその判断を下したものは、すなわち神または人間は、必要だという理由がどこにある。
そもそも必要かどうか、許されるかどうか、それは存在する個体ひとつひとつが自ら判断すべきである。
他の何者にも決定権はないのだ。
「ルック。生きることは、つらかった?」
「……み、らい、が」
「それは言い訳じゃないの?」
「な、……んの」
「存在を。ルックは間違いなく人類のために必要なピースのひとつだって、そう証明したかったんじゃないの?」
ルックの目線が、彷徨った。
ルックはつくられた。
人類によってつくりだされた、異端であった。
しかしつくられた瞬間から紋章に抗うという運命が定められていた。
ならルックには自分の運命を変えることができないとして、同じようにすべてのひとに決められている個々の運命の蓄積から導かれる未来は、ひとつに定まっているということになる。
しかし、もし未来を変えることができれば、それは逆説的に運命を変えることができたという証明になり、同時に己が存在の必然性をも証明するのだ。
真なる風の紋章を破壊することで付随的に人類が紋章の統治下から脱することができれば、これは人類をつくりだしそのひとつひとつに運命を決めた何か――すなわち創造主または神の、意に反した生誕であるルックがその何かに運命を変え得るひとつの生命として認められたというだけでなく、灰色の未来を救うことにもつながる。
ルックはきっと、そう考えて行動を起こしたとアスフェルは解釈していた。
そしてひとつ、この理論には綻びがある。
ルックは十五年前、己の運命は決まっていると言った。
ということは、ルックの運命を決めた何かは、ルックが存在すること自体をそもそも予定された運命の中に組み込んでいたことになる。
つまり、ルックをつくりだした人間に与えられた運命が、紋章の保管庫としてルックやササライをつくるよう決められていたということだ。
従って、結論は。
ルックは、ルックも、神に認められた魂であるということだ。
神につくられ女の腹から生まれたものではなくても、寄せ集めの肉体でも。
「ルックの意思は、間違いなくルックのものだ」
つくりものだとか、未来の救済だとか、そんなもので武装しなくていい。
「俺が全部ひっくるめて、ルックを愛するよ。それが、運命であろうとなかろうと」
ルックの不安も孤独も、すべて。
すべてのルックらしさを。
ルックの表情がこそげ落ちた。
ぼんやりとアスフェルを見返すその瞳は、助けてと濡れて見えた。
アスフェルはもうひとつ、懸念を取り払ってやった。
「俺の気持ちは運命かって? もしそうならルックは胸を張って俺に愛されてると言えばいい。違うのなら、俺が運命を変えたんだ。……ルックのために」
ルックはさまざまなものに束縛されている。
出生、価値観、紋章の見せる未来。
でもどうか、大切なことを見失わないでほしい。
「ルックの心は、どこにある?」
アスフェルは、ルックの反応を待った。
忘我の表情を無防備にさらすルックが、動く方の左手をアスフェルの胸元へ差し伸べて。
胴着の合わせ目にわずか触れてそのまま落ちた指先が、シーツを握って波打たせた。
揺れる瞳が水気を含んで。
ルックらしい意志にようやく彩られた眼差しが、アスフェルを真っ直ぐ射抜いた。
「なくしたくない気持ちは、好きってこと?」
ぽとんと零れた呟きに、アスフェルはきつく抱擁で応えた。
行動の理由は、もうひとつあったんだね。
不老の俺を、未来から救おうとしたのか。
だから急いたのか。
……ほんとうに、ルックらしい。
目を覚ますと、朝だった。
夜明けの陽は、あたたかい金色に昇る。
ひとつのベッドの中、寄せ合った素肌のさらさらした感触と触れ合うぬくもり、耳に届く寝息に、言い知れぬ喜びで顔がほころんだ。
もし運命があるのなら。
アスフェルはこれっぽちも信じていないが、もし運命があるのだとしたら。
俺は、この憐れな魂のために生を受けたのだ。
ごく自然にそう思って、我ながら尋常でなく惚れていると照れくさくなる。
アスフェルはそっと、愛しい翡翠が収まる瞼へ、唇を寄せた。
愛してる。
きりがないくらいずっと、アスフェルは同じ言葉を囁いた。
夏の夜明けだった。