web拍手集 16





眠れる嵐
20070810-1002

 にぎやかに響く二人分の笑声が、ふと身を起こせば消えていた。大手予備校へ通う浪人生が書き取ったという有名講師の授業ノートへ没頭すること、……もう何時間になるだろう。台風の前哨に戸外は風が吹き荒れて、雨足は衰えを知らない様子、大粒の水滴が窓を叩き打つ、とととん、たん、と単調な音だけ、笑声の止んだしんとする家屋へいやにうるさく鳴っている。
 テッドはくいと首を伸ばして壁に掛かった時計を見遣った。十六時。レースのカーテンから透かし見る空色は、我が家へ賓客の預けられた十一時以来さほど変容していない。分厚い雲が天球を占拠してしまったのだ。時間にすればそろそろ夕方といっていい時分であれど、夕焼けも住処へ帰る烏も拝めず、つまり時間の経過が腹時計以外にまるで感じ取れない鬱々とした天候は、期せずしてテッドがノートへ没頭するのにまことふさわしい勉強日和となっている。
 テッドが傾倒している授業ノートは前回の仕事で得た報酬だ。そう必死で勉強せねば志望校に通らぬ学力ではないつもりだが、如何せん勉強というやつが嫌いで嫌いでたまらない。必要のない知識を無闇に覚えるのが納得いかないし、その範囲も実用性とは程遠い基準で定められているように思われる。大人になったらいつ使うの、という、どこの子供でも一度は親先生に質すであろう幼稚な愚痴にさえマトモに答えられる大人がいない。そんな無駄な勉強は、大げさに言うと、人生の無駄使いである。
 ――と、管を巻きつつ、結局、大学へ入るためには受験勉強をしなければならないのであって、大学に行きたいとテッドが望みを持ったのはわずか数日前のことだった。だから、テッドは決意してすぐそれに関わる仕事をこなし、報酬として今日この授業ノートを手に入れたのだ。これはテッドの行動原理としてひどく明解であり、すこぶる無駄のない、テッド流に表現すると「人生皆益」なのである。
 テッドはばきばきと肩を回した。姿勢が悪いのですぐ肩に来る。首をぐるりと傾けて解し、こめかみを手のひらの付け根で揉んで、テーブルの縁にこれでもかっと体重をかけ、ようやくにして、よっこらせっと居間のダイニングテーブルから立ち上がった。茶でも飲もうと思ったのではない。静けさが気になったのだ。
 勉強は嫌いだ。だが、今テッドが勉強していたのは現代文のノートであった。面白い。俄然好奇心をそそられる。評論文の構造、配列、その読み解き方、問題製作者の出題意図を見抜き正答を選び取る技術、それは転じれば説得力のある文ないし論理展開を構築する際にきわめて古典的かつ効果的な手法、すなわちテッドが生きていく上で充分必要になると思われる力の一である。それを習得することができる。実に有益なことである。
 今までも、ただ読むだけでいいならよく読書をしてはいた。だが、どの文章も自分が捉えていたよりもっと深く突っ込んで読解することができたのである。テッドは心を躍らせた。知的好奇心の大きさは快活老獪な祖父譲り、勉強も前向きにやるならそう悪いものではなかった。
 それで、テッドは柄にもなく数時間も予備校のノートへ没頭していたわけである。
 お茶を飲むならダイニングテーブルの斜め向かいにある冷蔵庫へ向かうべきだが、テッドの目的はそうでない。踵を翻し、ダイニングテーブルの後ろへ回る。居間から音の止んだ部屋までテッドはわざわざ襖二枚を経由した。
 居間はフローリングで隅に台所のあるダイニングキッチンというやつだ。畳敷きの六畳間に隣接しており、さらにその隣が四畳半の子供部屋である。隣といっても居間と六畳間と子供部屋とは上から見るとLを左右反転させた逆L字型になっていた。つまり六畳間がLの角っこで居間が右、上が子供部屋である。六畳間にはぴかぴかに黒い仏壇があり、ここは滅多に使われないが一応じいちゃんの部屋になる。テッドの部屋は居間から見てじいちゃんの部屋の逆側になる左隣、風呂や洗面所はまとめて子供部屋の左隣、見方を変えるとテッドの部屋の向かい側。玄関は左端で、玄関から子供部屋まで、じいちゃんの部屋を除くすべての場所が短い一本の廊下によって繋がれている。典型的な狭小3DKである。
 テッドが廊下を使わずあえて六畳間を通過したのは、その方が畳の弾力により足音を潜められるからであった。そっと居間から六畳間へと襖を開けて、また閉めて、薄暗いじいちゃんの部屋をごく慎重に斜めへ横切り、次は子供部屋の襖を指でか細く開けてみる。
 開ける前から何となく、テッドは室内の様子を推察することができていた。しんと落ち着き、空気がゆったり停滞していて、雨音もこの一部屋ばかりは避けて寄越すほど安穏とした雰囲気である。テッドは後ろ手に襖を閉める。
 忍びさながら音もなく入った子供部屋は、実にほどよく散らかっていた。積み木にミニカー、木琴、ビー玉、それらに混ざってガラガラやおしゃぶりやぬいぐるみが部屋の中心から放射線状に広がっていて、使い古したグローブと西瓜模様のビーチボール、絵本、画用紙にクレヨンと水彩絵の具と華やかな千代紙。テッドが勉強へ没頭していた数時間、だいたい何がおこなわれていたかよく分かる。
 そして部屋の中心に、眠る二人の姿があった。
 弟キキョウは十も年下の賓客へしがみついて丸まっている。相変わらずだ。その左横、二歳にしてはあまり泣かない常連賓客ことアスフェルが、細部までいちいち物差しで計ったようにきちんと整った造作で、すうすう、寝息を立てていた。二人はキキョウのイルカ型枕を下敷きに、寝返りもせずぐっすり眠り込んでいる。時折優しく膨らむカーテン。台風のせいかひんやりと湿った微風が二人の腹を撫でていた。
 ほ、とテッドは息を吐く。
 じいちゃんがキキョウを引き取った時、キキョウは積み木の積み上げ方もミニカーのさまざまな種類、用途も、木琴に書かれたドレミの意味さえも知らなかった。積み木の片付け方だけ知っていた。キキョウはきっとおもちゃで遊んだことがなかったのだ。
 クレヨンの赤を見て唐突に泣き出したこともある。形状が口紅に似ているからだろう、と、じいちゃんは物悲しそうに言った。当時のテッドは出来たての兄らしく大人ぶり、傷つけられた皮膚へ浮き出る血の色に似ているからだといらぬ解釈を加えたものだ。もちろんじいちゃんはさらに物悲しそうな顔をした。
 当時の臆病で猜疑に憑かれたテッドへ、そうやって残虐な事実を知ったかぶる以外にどんなことができたろう。テッドはずっと手を焼いてきた。突然降って湧いた七つも下のひどく不幸な弟にどう接してやればいいのかまったく見当もつかなかった。言語すら使えない哀れなキキョウをこれより貶めることもない代わり、癒すことはおろか掬い上げてやることもできなかったのだ。
 だが現在はどうだろう。アスフェルと遊び、大きさの違う鈴を二つ鳴らすように賑やかな笑声をテッドへ聞かせ、こうして、安らいだ目元を寝顔へ浮かべるところまで。キキョウはやっと、遅すぎる成長の階段に足を掛けて登っているのだ。
 キキョウが腕を回すアスフェルは、体こそ二歳児並みに小さいものの、今もこうしてキキョウを抱いてくれている。大したものだ。二人のおでこがあと数センチでごつんとぶつかるくらい近いのもキキョウがへばりついているからで、それを重たがらず、むしろ受け止めてくれているのがありがたい。
 アスフェルがいて、良かった。
 テッドはそうっと子供部屋の押入れを開けた。タオルケットを二人の胴へかけてやる。キキョウの腹へ合わそうとすると必然的にアスフェルの爪先までを覆うことになり、アスフェルが暑すぎはしないか、一人一枚ずつ用意すべきではないのかと、テッドはもやもや葛藤をした。
 と、アスフェルがわずかながら身動ぐ。
 テッドは軽く息を飲み込み、思わず咽喉を震わせた。狸寝入りとまでは言わないが、テッドの気配をとうに察していたのだろう。キキョウが目覚めるまで雑魚寝に付き合ってやるつもりらしいアスフェルへ、テッドはこっそり茶目っ気のあるウインクと、自然零れ出る微笑みを送る。
 アスフェルは光だ。アスフェルが生まれる前から渇望し、生まれた後は眼前に在るそれへひどく狼狽しまた恐縮もしたが、今となってはテッドの骨身へじんと馴染んで離しがたい。キキョウと二人、忙しいじいちゃんの戻らぬ夜は暗がりへ息を殺しながら闇に怯臆した、あの過去を暖めるようにアスフェルの黒い瞳が光る。
「もう三十分、寝てろな。アスフェル」
 応えが返らぬのは了承および即実行の意だ。遊んで、昼寝して、さあ起きたという時にあって幸せなものを作ろう。テッドは窓をそっと閉める。揺らめくカーテンが静かに壁へ着地する。

 キキョウがやっと目を覚ますのは、ホットケーキの甘い匂いが子供部屋まで届く頃。


ほのぼのとした日常生活。じいちゃんは滅多に帰ってこないだけで生きてますよ。