彼の進むところだけ、凛と浄まり澄んでいる。
ルックはただ散歩を楽しんでいるといった風情、周囲への緊張を必要としない安らいだ目元を四方へ向ける。麗らかな日差しはこんな時期に芽吹いた雑草へも注がれて、固い葉を尖らせる針葉樹、薄ら霜を被った土壌、唯一精彩を放つ椿の紅がルックに応じて背筋をぴんと伸ばすよう。体重を感じさせない足取りでそっと落ち葉の枯れた跡を踏めば、ふんわかした次の一歩を苔の間へひらり差す。
何の変哲も無い、住宅街を縫う細い緑地だ。散歩をしようと珍しく切り出したのはルックから。誰かのように寒いだの面倒くさいだのと渋る道理があるはずもなく、ふたりして行き先も決めぬまま冬の小径をこうしてそぞろ歩くことほんの数分というところだろう。ルックは久しぶりに北風の弱い晴れた冬空をいたくお気に召した様子で、それでもぎっちり巻き込んだマフラーの裾をわずか虚空にそよがせている。吐く息はたまに白くなりまた透けて、無造作に泳ぐルックの手先も白く椿へ冴えていた。
――どこか聖域に踏み込んだ気さえして、なかなかルックへ近づけずにいる。
「アスフェル」
ルックが珍しく名を呼んできた。冷たい空気を震撼させて、柔らかい音が紡がれる。
「冬って、冷えるの『ひゆ』が転じた語なんだって。または寒さが威力を『振ゆ』、寒さで身が『震ゆ』。あと、生殖の殖で『ふゆ』って説もあるらしいよ。……どれが本当だろうね」
最後のひとつは趣がなさすぎる、とひとりごちるや、ルックはほんのり笑みを浮かべる。それがあまりに屈託なくて、つい目を細めて視野を狭めた。
椿より朱を極める唇がまたもや小さく呼んでくる。今度は可憐にはにかんだ声音。
「ね、アスフェル」
そっけなく上向けられたてのひらが、腰の高さで待っていた。爪の先まで青白い。そっと一度だけ握られ解かれ、蝶の舞うより小さな羽ばたき。
犯しがたい白さは一転して護るべき純白へ変ずる。頭上に槍を刺された心地で、咄嗟にコートのポケットへ突っ込んでいた手をルックの方へうんと伸ばした。届かない。焦って近寄る。ルックはその場にすっくと立って、ものも言わずに待っている。
「……人間懐炉だ」
ぎゅ、と握り締めた指先は驚くほど冷たかった。ルックが大きな目を瞠る。両手ですっぽりくるみ込んでやる。拍子にちくりと爪が手の内にささくれて、手探りでその原因を問う。
「爪、伸びすぎちゃって。こないだ靴履くときに引っかけた」
照れ隠しか、ルックは淡い笑みをのぼらせる。
何げなく引っ込めようとする冷たい指を逃さないようきつく掴んだ。コートのポケットへまとめて入れる。ルックの指は一度だけ震え、躊躇うように力が抜ける。
待つのは得意だ。しかし此度はそう待たされずに済みそうだ。
冷たい五指と、コートの中で絡み合う。
ルックがきゅっと唇を噛んだ。そんな顔をされたらどうして――もっと触れずにいられよう。
力のこもる指先をよそに、霜へ光が反射した。
ちか、ときらめく、いくつもの星。
空は混ざりけのない闇色で、穿たれた楔のように星が鋭く、小さい光を伸ばして寄越す。
見つけやすいのはオリオン座。ひときわ強く輝くシリウス。頭上をまたぐ逆正三角形、冬の大三角を内接させてさらに広大な冬の第六角形。カシオペヤ座は薄い光を優美に投げかけ、星を見る時につい探してしまう北斗七星、こぐま座を形作る北極星は、どうしてか今宵に限って見つけられない。
隣をゆったり歩くルックは、白い息を白い指へ吹きかけながら、いつまでも青白い顎を仰のけている。トレンチコートとスーツは黒色、寒そうに見える白い襟元。
「あんた、何探してんの?」
こちらをちらとも振り向かないで、ルックがぽつり呟いた。ほ、と言いかけたのをルックは瞬きひとつで遮る。まるで大空の星たちのように。
「あそこ。雲みたいに霞んでるとこ。あれがはっきり見えたらいいのに」
ルックが指すのはおうし座アルデバランの北東、プレアデス星団だ。いくら住宅街とはいえ、街灯や、各戸を照らす照明、車のライト、ひとつひとつは星の光にはるか及ばずとも、重なってはすばるをぼやかすに充分な光量となる。
「写真や望遠鏡で見ると嘘臭い気がして。でも肉眼ではどうしても見えきらない」
そういう、不具合というべきか、神経の端へちょっと擦れる微々たる何かを、今は明瞭に感じているのだろう。際立って意識されにくい曖昧な感情ほどルックはどうにか表現したがる。自己思索を深めたいのか、単に性質なのか、境目はまだ見分けられない。
ルックはおもむろに体を返しつつ、人差し指を北の空へ持ち上げた。宙へいびつな形にアルファベットのWを描く。カシオペヤ座だ。そこから右へ指を滑らせ、ちょうど高い建物が連なるあたりで動きを止める。とんとん、と指が図面を叩くように揺らされた。
「あのあたりじゃない? ポラリス」
逸らされたようでいて、ちゃんと聞いてくれていたのだ。
ポラリス――北極星。示す羅針盤がしばらく天に掲げられ、ルックの瞳は星を治めて翡翠を闇に透き通らせる。不思議な色合いだ。
「もうちょっと歩けば、見えるかもね」
言いながら静かな足取りで辿る家路。昼間あんなにも晴れていたから夜の空気は凍りそうに冷えている。身の縮まる寒さだ。思わず瞑りかけた目を何の気なしに隣へ移し、はっと、まさに息を飲んだ。
闇に白く映える頬へ、闇を吸う金茶の髪がはらりゆるやかに零れかかる。目線はいつも正面か上にあり、長めの睫毛に縁取られた瞼は滅多に自ら閉ざされない。唇はたいていきつく結ばれていて、だが癖らしく今も少しだけ尖らせているのは仕事後の弛緩を表すものか。白く彩る表情に花唇だけが鮮やかだ。
彼の凛とした清々しい貴さは、こんな夜により昇華され光輝を魅せる。
だからだろう。両腕に彼を囲い胸元へ手繰り寄せてもまだ、ルックは冷たいままでいた。旋毛の先までひんやり香る。息をかけるとくすぐったがって首を竦める。白い鼻先を、こつんと胸へ押し当ててくる。
「――家に、戻ろう」
ビルの狭間は縦長の空に、ポラリスがひとつ、瞬いた。
「……って、ちょい待て、マジで待て、ッいてぇっつーんだ馬鹿軍主野郎!!」
「お早う、シーナ君」
上は崖。下は雪。そら寒いわなと夢の中身に納得しつつ、シーナはぐらぐらする頭を起こした。
端的な話、シークの谷へ再偵察にと同行を請われたことが元凶だ。なぜかアスフェルと二人っきりでやたら寒いシークの谷を半日かけてうろちょろしまくり、挙句シーナが足を滑らせたせいで――。
「……もしかして、俺」
「気絶してたのは十分ほどだ」
「お前、もしかしてその間ずっと」
「頭を打ったわけじゃなさそうだったから、遠慮なく起こそうと思って」
腰辺りの嫌な痛みも両頬の熱い痛みも、不本意ながらようやく事態は飲み込めた。にしてもこれはやりすぎだ。マジで痛い。頬を引っぱたかれ続けたせいで目の裏側までちかちかしている。
「あれだろ、この隙にっつう抜け目なさで俺をさんざんっぱらストレス解消に使いやがっただろ」
「あながち否定はできないな」
「そこでせめて外っ面だけでも軍主らしく善人ぶれないかお前は」
「隠密行動ゆえ、残念なことに俺の善良さを見せてやる必要のある者が周囲にいない」
「……へいへい。俺は除外ね」
隠密、を持ち出されると弱い。
ちょっと真面目に重い話だが、アスフェルとシーナはこの地へ、他ならぬ、死体を、捜しに来ているのである。
初めてこの地を踏んだのは半月ほど前のことだ。アスフェルは腕の中で親友が塵になったのをまだ認めたくないらしい。けれど大手を振ってシークの谷へ再訪するわけにもいかない。だから夕方、人けのなくなった頃合を見計らってミリアにこっそり懇願し、夜中二人だけでシークの谷を訪れたのだ。
なぜこいつのお供がよりによってシーナなのかというと、深夜に姿を消して不自然でないのがシーナくらいしかいないからである。当たっているだけに耳に痛い。頬はマジでまだ痛い。
「足引っ張っちまったな。――も、帰るか?」
「……ああ」
あと数時間で夜が明ける。シーナの不在は見咎められずとも軍主の不在は非常にまずい。もう戻らねば間に合わない。
シーナの提案に頷きながら、アスフェルは器用に目だけを歪めて嫌がった。黒々とした瞳孔がしんなり濡れる。
だからこいつは軍主に向かないってんだ、と、何度も父親に上申した旨をまたも胸中にめぐらせる。しかしこいつ以上にふさわしいものがいないこともまたどうしようもない事実である。
アスフェルこそ、こうしてまっとうに命を憐れむ心を持つ男だからこそ、軍の長にふさわしいのだ。
「ちょっとヤなこと言うけどよ。肉体が蒸発するなんざ紋章の力が関与してるとしか思えねえだろ。だからな、俺よりクロウリーとか、――ルック、とか、連れてくる方がいいと思うんだわ」
「……いや、いい」
「そう言うと思ったけどな。ほら、あの変な鍛冶屋のおししょっさんが住んでる小屋へルックと来ればいいじゃんよ。モースたちと六人でよ。ついでにちょちょっと探し物のひとつやふたつ」
「ひとり、だ」
「……悪ィ」
シーナは思わず口を閉ざした。
失神していたらしい十数分の間にそれはそれはすごい夢を見たのだが、今は黙っておくしかなかろう。教えてやるタイミングを逸したというだけでなく、ほかにもいろいろもやっとした確信が胸に湧いてきたからだ。
「付き合わせて悪かったな、シーナ。……戻ろう」
アスフェルが音も無く立ち上がったのを、シーナはへたり込んだまましばし呆然と見つめてしまった。同じだ。さっきの夢と同じ声。掻き消える夢の最後、同じ音が重なったのを確かに聞いた。
――家へ戻ろう、と。
だがこうも哀情が滲むのはなぜか。お前の家はどこにある。トラン湖城か、まだグレッグミンスターのままなのか、……きっともう既にどちらでもない。昔通りの故郷はとうに失われ、アスフェルは同じものが二度と取り戻せないことを知っている。だからこんなに、こんなにも。
ふと見る雪は、月の光を受けていた。