web拍手集 14





一陣の光
20061124-20070124

バイオリン?
そんなもの、どこで見つけてきたんだ?

……ああ、昔は弾いていたんだけれど。
もううまくは弾けないだろう。

……そう、だな。弾きたくない。
十年以上昔の話になるか……、あれっきり、ずっと、バイオリンには指一本触れていないんだ。

聞いてくれるか?

――俺にバイオリンを教えたのは、俺の母様だった。





母様は難病だった。俺が五歳になると同時にこの家で息を引き取った。
亡くなったのは東の天に初日を迎える前だったよ。星ひとつなかったけれど、雨も降っていなかった。
一月一日……俺の誕生日だ。

退院したというより、最初からずっと自宅看護だったんだ。余命幾許もないことが知れていたからね。父様の隣の部屋……そう、俺の部屋の向かいだよ、あそこが母様の病室だった。

母様は……俺の眼前で、亡くなったよ。
遺言? 俺には聞き取れなかった。父様が何か聞いていたけれど。

俺はずっと母様の側にいて、母様の手を握っていたんだ。事切れた母様が冷たくなるまで俺は頑なに離さなくて、グレミオが泣いて泣いて……。そのうち死後硬直が始まってね。今度は離したくとも離れなくなった。

母様のベッドへ頭を乗せて、俺は母様の骸の横でまんじりともせず夜を明かしたよ。
といっても、わずか数時間で朝になったし、強く握られていたわけでもなかった子供の手なんて実は簡単に外せるものだった。……俺は、この一晩が母様とともに過ごすことのできる最後の誕生日だと知っていたんだ。だからあえて母様の手を離さなかった。
一睡もせずに招いた元旦の朝は暗闇に混ざる曇り空が白雲に混ざる灰墨へ変容しただけで、初日の出も見られなかったよ。昼を過ぎると細かい雨が降り出して……俺は飽きもせずに母様と空を眺め続けていたな。

母様の死に顔は……本当に……綺麗だった。

それまではひどい苦痛に耐えていたらしい。俺にはそんな素振りも見せなかったし、母様の部屋へ勝手に入ったりしてはいけなかったから、母様の歪む形相を見たのは死を看取ったあの時だけだ。

いつになく穏やかでね。安らいでいた。
普段は痛みのせいか、優しく笑んでいてもどこか強張った顔をしていたんだろう。あんなに安らかな母様のお顔を俺は初めて間近に見たんだ。

美しいと思ったよ。もう死んだのに、死斑が出て肉体の腐敗が徐々に始まるはずなのに、母様は綺麗なままだった。
――まるで、死んでいないみたいだった……。





葬式は翌日。
父様の会社からも参列者を募ると大変な人数になるから、ごく近親だけで、この家で。テッドたちには頼んで来てもらったよ。キキョウが手の付けられないくらいわあわあ大泣きして、読経がほとんど掻き消されてね、テッドとじいちゃんが――じいちゃんももう亡くなってしまったけれど――二人してキキョウの口を塞いでいた。泣くな、男だろ、って。おかげで俺はタイミングを逸したというべきか……泣かなかったな。

そのせいかもしれないし、母様の骨上げをしてもまだ実感がわかなかったからかもしれないけれど。
母様は今にも戻ってくるだろうと詮無い望みを抱き続けて。俺は、母様の死を受け入れることがいつまでもできなかったんだ。

ああ、弥生に入っても変わらなかったよ。
母様の部屋を覗いては人けのないそこへ落胆して。母様のベッドへ腰掛けては亡きぬくもりを必死にまさぐって。本当に、不毛としか言いようのない日々だった。
喪失感がじわじわと俺を蝕んだ。

そうだな。俺のみならず、家中の者の気力まで殺いだろう。
グレミオはぴたりと母様の話をしなくなった。クレオは出張が多くなった。パーンは海外の大会に出るって言って、半年も先の話だったのに、もう渡航してしまった。
俺の周囲は緩やかにぎすぎすし始めたんだ。

父様も。母様が死ぬまではあんなにも家へいた父さまが、滅多に家へ帰って来られなくなったんだ。週に一度帰るかどうか……それも深夜で、夜の明ける頃には出て行く状態だ。
厨房を預かるグレミオが、テオ様は今日も外泊でしょうかねぇ、などとこぼすのを耳にしては二階へ逃げあがって。それもいつしか慣れてしまったな。

……それは、今さら言う間でもないだろう。
でも、俺には肯定も否定もできなかったよ。父様がそうせざるを得ない心情は俺にも分かるつもりだったし、同時に、父様がそんなことをするはずがないと信じてもいたから。

今でもそれは、分からない。ソニアさんにも聞いたことはない。

そもそも、みな、俺の行為が招いた事態だろう?
俺がいつまでも亡くなった母様を引き摺っているから家の空気があんなにも重かったんだ。
けれど、あえて子供らしい忘却を演じることが何になるだろう。母様の死を理解できているからこそ認められない子供が、ほかにどう振舞えばよかったんだろう。
俺はそこまで器用じゃなかったし、少なくともこの家においては、自分を偽りたくないと思っていたんだ。悲しい時に泣いていいと言ったのは……他ならぬ俺の母様だったから。

ああ。俺は鬱々と昼夜を過ごしたよ。俺は黒しか着なくなった。俺は笑わなくなった。

意外……かもしれないな。





バイオリンは母様だよ。
母様が、容態の良い時に教えてくれてね。本当は子供用のバイオリンを使うものだけれど、俺は母様のを借りていたから。そう、そのバイオリンを使っていたよ。母様と一緒に。

いや。母様が亡くなってから……一度だけ弾いた。

そんなことを俺に強いるのなんて後にも先にもテッドくらいだ。俺があまりにも塞ぎこむものだから、ついに業を煮やしたんだろう。
いきなり俺を引っつかんでね。トレジャーハンティングだ!って。

母様の部屋だよ。俺も弄ったことがなかったのに、テッドときたら箪笥の中身を片っ端から全部引っ張り出し始めて。服も靴も装飾品も部屋中に散乱して、母様が着てるのなんか見たことない振袖だとか、簪だとか……母様がさしてるところを見たことがない、艶やかに赤い口紅まで。
母様はずっと病気だったんだ、――俺を、産んでから。
それまでは華やかに着飾って、生気に満ち溢れて……美しいひとだったのに、俺を産んだから。俺のせいで母様は、

……。

……知らない。病名を知ったって、母様が生き返るわけじゃない。

関係ないはずがないだろう、昔のアルバムだって全部結婚前に撮られた日付ばっかり、俺が生まれてからの母様の写真が一枚もないんだ!

浮気をしてたかもしれない父様に、尋ねろって……?

……俺こそ、言い過ぎた。
もう母様は死んだんだから、父様が誰と何をしようと……それは不倫に当たらないだろう。

ああ。確かに、そういう問題じゃない。
けれど俺には聞けなかったよ。……今でもだ。

……そう、テッドは……あれは散らかすなと言ったって聞き入れるような奴じゃないからね。そのバイオリンも、けっこう上等な代物なのにケースごとベッドへ乱暴に放り投げて……さすがに俺が怒ったら、じゃあ次はテオ様の部屋だ、行くぞって。
テッドには本当に敵わないよ。
止める間もなく父様の部屋へ飛び込むや、今度は父様のクローゼットを荒らし始めてね。やりたい放題だ。泥棒が入ったってあんなにはならないだろう。

それで……テッドが最後に、箪笥の奥から引っ張り出したのが。

子供用の、赤いドレスだった。

吃驚したよ。母様の幼少時に着ていたものならもっと草臥れているはずだろう。それが一度も袖を通してなさそうで。
そもそも、母様じゃなく父様の部屋にあったんだ。嫌な想像は容易についたし、その他の可能性もさまざま考えた。俺たちを叱りに上がって来たグレミオなんか、ドレスを目にした瞬間、ものの見事に凍り付いてね。俺たちの想像を悪い方向へ後押しするだけだ。
テッドが珍しく泡を食った表情でそそくさと片づけようとして。

けれど結局、着たんだ。俺が。

いい加減むしゃくしゃしていたし、何が何だか、もう何も考えたくなくなっていた。端折れば当時の俺にも何とか着られるサイズだったのも功を奏してね、変に開き直ったんだ。
すると当然テッドも調子に乗るだろう。母様の化粧品とアクセサリを引っ張り出してきて、こうなるとグレミオごときじゃあどうしようもない。ピアノの発表会に出る女の子みたいに、フリルだらけの赤いドレスとお揃いのリボンで精一杯おめかししたんだ。
けっこうかわいかったんじゃないか? あのテッドが褒めたから。

それでね、ここからがテッドのテッドたる所以だよ。
今すぐ父様の会社へ行けって、無茶苦茶だろう。とにかくテオ様に見せりゃいいなんて、無責任なんだか騒ぎ好きなのか、まあどちらもだな。どうせならってカメラを持って、ついでにバイオリンも担いでね。グレミオの軽を転がしてそのまま会社へ行ったんだ。





三月に入ったばかりの寒い日だった。
静かに降っていた雪が昼過ぎから急にきつくなってきて、薄手のドレス一枚だからとにかく寒い。車のヒーターを全開にしてもまだ寒くて、寒さで手がかじかむとバイオリンが弾けないだろう。途中でスーパーに寄って、どこかのパーティーにでも行くような格好でだよ、カイロをまとめて買ったんだ。テッドは雪の中を歩きたくないなんて言うから俺一人でね。
ついでに腹が減っては戦ができぬ、でコロッケやらジュースやらを買い込まされて、そのうちテッドも雑誌を読みたいだとかでスーパーへ来てね、二人で、俺はあんな格好で、しばらく本屋で立ち読みをして。
あれ以上に人目を引いた経験は少ないな。

そうやって買い物をしているうちに雪は止んでいて、会社へ着いたら外はすっかり春らしい陽気に包まれていたよ。けれどもう夕方だ。それで、テッドはわざと時間を調整したんだと俺にもようやく分かった。昼間の父様は本当に忙しいだろうからね。
父様のいる会議室まで直行して、ちょうど会議が終わったところだったから人がわっと出てくるのと入れ違いだった。派手な子供とラフなジーンズ姿の若者はさすがに不審で、皆が足を止めていたよ。

な、無茶苦茶だろう?

それで、俺を見つけた父様が慌てるよりも先に――俺は、母様のバイオリンを弾き出した。

曲名は、ないんだ。
母様の作ってくれた練習用の簡単な曲。

多分あれは、母様にとって子守唄だったんだな。

突如響いたバイオリンはさぞかし社員を驚かせたんだろう。同じフロアにある他の会議室からもどんどん人が出てきてね。父様は呆気にとられているし、俺の周りは人垣ができて。
俺は、……泣きながら、バイオリンを弾いた。

分かってしまったんだ。

あのドレスは、多分、父様が、俺に贈ったものなんだ。

母様が俺を身ごもった頃だと思う。まだ性別の分からなかった俺に父様が贈ったんだろうと――父様の目を見たら分かった気がしたよ。

そして、父様が帰らなくなった理由も何となく分かった。

俺は母様に似ているんだ。
だから俺を見たくなかったんだろう。

きっとね。
父様は、母様の亡くなったことが悲しくて仕方なかったんだ。

いや、父様に直接聞いてはいない。だから悪い想像の方が当たっていたのかもしれない。だから俺は父様に問い質したかったよ。けれど、とにかく弾ききることが先だと思って、母様の曲を最後まで何とか弾き終えた。
あんなにも下手な演奏は最初で最後だ。……あんなに、時間を長く感じたことも。

父様は、大勢の部下がいる前なのに俺を抱き締めてくれたよ。
でもテッドがものすごく怒られてね。最後に父様が、もういい、せっかくアスフェルが着飾ってるんだから、今日はフォアグラだ!

父様らしいだろう。定時ちょうどだっていうのに皆の前で颯爽と退社して、父様馴染みの店へ三人で行って。テッドには父様が会社へ置いている背広を無理に着させて、テッドのオールバックがあまりにも似合わなくてね。今以上に不似合いだったよ。あの父様も笑っていた。

父様と夕食をともにしたのは、その後二人で手を繋いで帰ったのも、……実に二ヶ月ぶりだった。










ずいとバイオリンを差し出してくるのを、アスフェルはついに、困った笑顔で受け取った。
弓毛を張ると、松脂がちゃんと塗られていることに気づく。手入れをしたのはルックだろうか。
「それ以来だから……うまく弾けないと思うけれど」
「いいの」
ルックはぶんと頭を強く振って言う。払ったのはアスフェルの話して聞かせた悲しみだろう。慈しむように目を細め、アスフェルは、緊張の後おもむろに肩へバイオリンをあてがった。
懐かしい感触を首筋へ感じているのか。その場へ直立し、目を閉じる。しばらく動かずに深い息を数度吐く。
キッチンの物音はさっきからぴたりと止んでいる。だだっ広いホールのテーブルへつくのはルックのみ、ふたりの紅茶はとうに冷めきり色褪せるよう。
明るい室内とは対照的に、曇った空は昼でも暗い。
「曲は、……違うのじゃ、駄目かな……」
「うん」
「……本当に、全然、うまく弾けないよ。最後まで弾ききれるかも」
「いいから」
「……分かった」
アスフェルは薄く開いてお伺いを立てた目を、再び瞼の奥へしまった。弦を軽く指で押さえる。――よく調律がされている。
幼い頃より短く感じるネック部分、指板へ感覚をあわせる。ナットからブリッジまで指をなぞらせ確かめる。弓をG線に触れさせてみる。いつになく表情が引き締まり、心地よい緊張が肌の周りをぴんと冷やして、紅茶の表面をさざめかす。
それが静止する一瞬。す、弓が鈍重に手前へ引かれた。
長く最初の一音を伸ばす。引ききった弓を滑らかにしっとり震わせる。
ゆるく奏でる低音の調べ。なだらかな旋律で聴きやすい音階、丁寧なボーイングで前半を弾くと、不慣れな指先がようやく解れてきたようだ。
陽光がさす。
ゆったりと曲は進行し、梟の鳴くような哀切を伴い音域を広げ。眠たくならない子守唄。何度も繰り返し聴いていたいと思わせる穏やかな曲は、亡き母君の柔らかい面影を確かに今へ伝えてくれる。
ルックはアスフェルを見つめた。
脳裏を横切る幼きアスフェルがちらちらと音へ混ざっては霞む。どこかで会ったような。手がかりの糸は揺らめく音へ浚われて、残るは鮮やかに赤い紅色。
バイオリンが歌う。
鈍色の曇り空を切り裂き、一陣の光が、ホールの中心へ注がれた。


聞き手はルックです。ルックの発言部分にあたる行間はお好きに妄想どうぞ。