今でも、あれは逃げなんかじゃなかったと思っている。
僕はただ一刻も早く独りになりたかったのだ。
その日は朝早くに家を出た。図書館に行くと告げた僕を、レックナートさまは少なくとも表面上では疑うことなく送り出してくれた。僕は幼稚園に通っていなかったし、当然友人などひとりもいなかったから、外出するとしたら買い物か図書館しか言い訳を捻出できなかったのである。
最初はひたすら西へ歩いた。電車賃は持っていなかった。二時間以上も線路沿いのアスファルトをひたすら歩き通し、さすがに疲れて道端へ座った。
僕は昔から頭の回転が悪くはなかったのだと思う。駅へ向かう大人、それもある程度の年齢に見える女性の後へくっついて駅構内に入るという名案を思いついたのだ。作戦は拍子抜けするほどあっさり成功し、僕は、一度しか乗ったことのない、児童養護施設への数駅を鈍行に揺られて無賃乗車した。
車内は異様に蒸し暑かった。施設への最寄駅名はしっかり記憶していたので、間違えることなく駅へひとりで降り立った。
……懐かしかった。
僕は子供ながらにじんと感じた。今日で二度目に訪れる駅のはずだが確かにどこか懐かしいのだ。施設の記憶が駅名と融合し、僕の中でふるさととして位置づけられてでもいたのだろうか。――もちろん、当時の僕にそこまで分析できようはずもなかったが。
改札は、入ったときと同じ方法で難なく出られた。自動改札機よりも背の低い僕は駅係員から見えないのかもしれない。それはちょっぴり、僕の高慢な自尊心を刺激する切ない事実だ。
僕はそこからまたしても西へ向かって坂道を歩き続けた。大人の足でも三十分ほどの距離だ。僕は太陽を目印にして、見覚えのあるような気がする道を何度か間違いながらも早足で歩く。すぐ両足の裏へまめができた。僕はそれほどまでに普段から外で走り回ったりしない子供であった。だから師匠に引き取られたのだ。
桜の時期だったように思う。いや、もしかしたら薄の時期だったかもしれない。僕の眼前には常にちらちらと白い何かが舞っていて、景色は淡く霞んで見えた。異国に取り残された移民、もしくは大海にひとつ流された筏。そんな気持ちが容赦なく僕を襲う。僕はこの地に歓迎されていない。だってこんなに視界が悪い。施設を見つけられそうにない。
……だけど、僕はついに辿りついた。
懐かしい――本当に懐かしい、寂れた遊具と四角く平たい建物が坂の中腹に見えてきた。僕が捨てられていた児童養護施設だ。淡いクリーム色の壁面に煉瓦色の屋根が乗り、園児は入ることを許されない屋上の一部分だけ出っ張っているところへ十字架の聳えているのが特徴だ。僕は二ヶ月前にレックナートさまへ引き取られるまでの三年弱をここで暮らした。
施設では本当によくしてもらった。だが唯一神の教えは僕にまったく馴染んでくれなかった。僕は勝手にお釈迦様の本や孔子の本、さらには八百万におわします神様の本を読みまくったものだ。僕が初めて感銘を受けたのは幼児向けに書かれた古事記の訳本で、天照大神や日本武尊をまるで実在のもののように近しく感じた。
今になって思えば、それは捨てられるまでの二年ほどで実の親に教わった価値観と符合しやすかったからだろう。僕にとっての神とは恩愛と峻厳を併せ持つ独善的な存在だ。神は気紛れで、すべての命に慈悲を与えたもうたりはしない。つまりひとは平等でない。世界も平等でない。祈りは誰かに届くことなく消える。だからこそ、自ら動かねばならない。
とにかく僕はいつまで経っても施設に馴染むことができない子供で、しかし、施設を何より大切な居場所に思っていた子供のひとりであった。だからこうして、引き離されたふるさとへと一人で帰省してきたのである。
施設はあたたかく電気が灯っていた。分厚い雲が辺りを鼠色に見せていた。雪が芽吹き始めたばかりの白木蓮へ白く添い――ああ、さっきからちらついていたのは季節外れの雪だったのだ――僕の両手は白くかじかんでひりついた。
門をくぐれば狭い校庭があり、滑り台とブランコが薄ら雪に濡れていた。側には小さな花壇がある。ここにも雪が降っては溶けてゆく。
僕は花壇まで歩み寄った。ほとんど土いじりをしたがらなかったくせに、こういう時だけその数少ない思い出がぶわっと瞼に映じて苦しい。
――でも今さら、どの面下げてここへ戻ってきたっていうんだ?
僕は激しく自問した。僕には里親が見つかったのだ。ここに僕の居場所はないんだ。そもそも一人でこんなところまでやって来て、誰に何を訴えたいのか、自分でも胸の中身が分からない。
僕は逃げてきたんじゃないんだ。
僕は、……じゃあ、何をしに来た?
僕はそれきり動けずにいた。
「ルックくん!」
呼ばれて僕は振り向いた。それまで僕はずっと花壇の前に立っていた。僕の靴にも雪が乗っかって、布地に染みができていた。
おそらく門を閉めようと外へ出てきたのであろう。ふっくらした中背を裾の長いワンピースに包んで毛編みのカーディガンを羽織った女性が、僕を見るなり駆け寄ってきた。院長先生だ。本来なら園長と呼称されるべきなのだろうが、皆院長先生と呼んでいる。孤児院の院から来たのだろう。
「どうしたの? いつからここにいたの? ……ひとりで来たの?」
院長先生は慌てて僕にカーディガンを掛けてくれた。相変わらずその手は皺で節くれだっている。髪もほとんど白くなり、いよいよ年を重ねて見えた。
僕は寒くない。カーディガンの内側が雪で濡れてしまう。そう言いたいのに、口がうまく開かなかった。僕は毛糸の重さが肩を覆うまでただ黙ってなされるままになっていた。
――気づいてしまったからだ。
僕はずっと待っていた。誰かが呼んでくれるのを、……誰かが気づいてくれるのを。
僕は、見つけてもらいたかったのだ。
施設の先生なら誰かが見つけてくれる。ここにいるのだと認めてくれる。先生はいつも言っていたんだ。我々は皆家族です、と。
それが戯れ言だと、とっくに理解してもいたが。
「……せんせ……」
僕は囁いた。声にならなかった。涙は出ようとしなかった。でも僕は泣いているのと同じ状態で今までずっとここに立っていたのだった。
僕の太股や手のひらにはたくさん痣があって、それは皆僕が何かを我慢する時にきつくつねっていた跡だ。今もまた僕の手の甲はつねられていて、院長先生が外して下さるまで僕はまったく無意識だった。
僕は代わりに唇を噛んだ。それもまた無意識のことだった。鉄の味が少しした。
泣きたいんじゃない。逃げたいんじゃない。同情されたくもないし、自分が誰かより不幸だとか幸福だとかを比べたがっているのでもない。
僕は、ひとりになりたいのだ。
独りで生きてゆけるようになりたい。
僕は院長先生の服を握った。こうして彼女の服を掴むのはおそらく二度目のことである。最初は階段を踏み外しそうになった時。あれは不慮の事態だった。そしてそれきり、今の今まで彼女と触れ合う機会はなかった。僕は誰か他人に触れることが気持ち悪くて耐えられなかったのだ。
でも今僕は自ら触れた。触れねば伝わらぬものがあると思った。
僕は院長先生の目を見て言った。
「……ひとりで、できるようになりたいんだ」
院長先生は優しく笑んだ。彼女は子供が話すなら何を置いても聞こうとする性質で、この時もそれは例外でなかった。雪のさらさら降りしきる中、彼女は僕を傾聴した。
「何を?」
「目をとじるのがいやだから。なにか見のがすかもしれないし、それに、ここがどこだかわからなくなるし」
「……そうね。怖いわね」
「こわくない」
「暗いところは怖いものよ。ひとりでいるのはもっと怖いわ。あなたは他に、一体何に怯えているのかしら」
「なにも。こわがってなんかない」
院長先生は僕に優しく言い含めようとする。僕は何度もかぶりを振って否を言う。
「新しいお母様がおられるから大丈夫よ。あなたはひとりじゃないのよ」
「ううん、ちがう」
「寂しいの? お母様があなたを守って下さるわ。あなたがひとりにならないように、孤独に苛まれないように」
「いやだ。――ひとりがいい」
僕は世界を拒絶した。院長先生が、その円らでしっとりした瞳を大きく瞠った。
僕はひとりになりたいんだ。
ひとりきりになりたい。
「……そうね……。あなたはずっと、そうだったわね。私や他の職員が手伝うのを、それが例えば部屋の電気を消すようなどんなに些細なことでも、いつも嫌がっていたものね……」
僕の言わんとすることを、院長先生はどうやら悟ってくれたようだった。僕は何でも独りでできるようになりたい。僕には誰もいらないんだ。
院長先生は僕の頭の雪を払った。頭皮の奥まで凍みていた。僕はぶるりと体を震わせ、小さくくしゃみをしてしまった。
同時に院長先生が小さくしゃくり上げたのを、僕は聞かないふりをした。
僕は、施設にいる間、ずっとひとりで風呂を使えなかった。熱いお湯が苦手だったし、シャンプー液が目や耳に入ったり濯ぎ湯で息が詰まったりして頭をひとりで洗えなかった。もちろん他の子供たちもたいていひとりではできなかったが、他者は比較対象にならない。僕にとってそれは汚点といって差し支えないほどひたすらもどかしいものであった。
「これを使えば平気よ。キャラクターの絵が入っているけれど、我慢してくれるかしら?」
院長先生は僕を院長室へ招き入れ、ビニールでできた幅広の輪っかを下さった。数度しか入ったことのない院長室は調度もそんなに華美でなく、慎まやかな品がある。点けられたばかりの暖房がごうと音を立てていた。
僕は真新しいタオルを借りて、頭や手足を拭いていた。降り出した雪は今が最も激しくなったようだ。真白い粉が一直線に落ちてゆく。
それまで窓の外を見ていた僕は、院長先生が見せて下さったものに、好奇心からつい手を伸ばした。
「なににつかうものですか?」
「一緒にやってみましょうか。こうして頭にはめて、髪の毛を上へ出して。そう」
輪っかは直径十五センチメートルほどで、ちょうど麦藁帽子から真ん中の丸みをくりぬいて鍔だけにしたようなドーナツ形だ。鍔はトタン屋根のような蛇腹になっている。最も広くなっているところへ哺乳類らしきキャラクターが描かれていたが、まったく興味のない僕には何なのかわからなかった。院長先生が僕の頭にそれを乗せ、位置やサイズを確かめる。
「これは、ぼうしですか?」
僕にはまだこれの用途が推し量れなかった。珍しく勘の鈍い僕へ院長先生が優しく微笑む。
「できるだけおでこのきわにかぶること。耳は下へ出すこと」
僕は思わず眉間を顰めた。院長先生は時々僕を試すようなことをなさる。今ならそれが彼女なりに僕と戯れようとしていたことが分かるけれど、当時の僕は馬鹿にされている気分がしたものだ。また、彼女は僕が謎掛けを喜ぶことまで知っていた。難しい問題ほど考えたがる子供なぞ特異だったに違いない。
僕は鍔の端を掴んだ。四ミリほどの分厚いEVA樹脂だ。弾力のある素材なのにたわみにくい。かつ伸縮性に富んでいて、僕の頭蓋がいくらかまでは成長しても対応できそうに思われた。
「これは、いつつかうものですか?」
「ほとんど毎日よ」
「どこでつかうものですか?」
「あら、それは答えに直結するからヒントをひとつあげるわね。あなたの肌荒れと関わりがあります」
院長先生が輪っかの上に出た僕の髪を撫ぜてくる。二ヶ月前より少し伸びたと思っておられるのであろう。耳の後ろがちょうど隠れるくらいだが、僕にはそれで都合がよかった。僕の耳の裏はひどい肌荒れでたくさんぶつぶつが出来ていたのだ。
湿疹の原因は石鹸だ。ひとりではなかなか耳の後ろまで泡を濯ぐことができない。同様に額の生え際も濯ぎ残した石鹸のせいでかぶれている。レックナートさまは僕の自主性を尊重してくれて、僕はひとりで風呂を使わせていただいているから、これは自分の至らなさだ。夜中に掻き毟ってしまうため湿疹はしょっちゅうつぶれて血を流し、枕につけば師匠を不安がらせるだろうと僕は毎晩ティッシュを上へ敷いていた。もともと荒れやすい肌質の上、数種類のアレルギーも持っているため、肌荒れの原因を特定することはいくら師匠でも不可能だろう。……そもそも師匠は盲目だ。
院長先生は僕の肌荒れへとっくに気づいておられた。でも今まで何も仰らなかった。ならばきっと帰りに膏薬を下さるだろうと僕は思った。それくらいには僕はこの施設と先生を信頼し、また依存してもいたのである。
僕は院長先生を見上げた。服はほとんど乾いていたが、僕も院長先生もソファへは座らずにいた。大事な話をする時以外はこのソファを使わない決まりになっているのだ。園児間での暗黙の了解というやつである。大事な話とは在園中に二度しかこないはずのもので、一つはここへ入園する時、他方はここを去る時である。
電気ストーブを弱めた院長先生は、円らな瞳を今度は細くしてどこか悪戯っぽく笑った。
「これだと、目を瞑らなくても頭を洗うことができるでしょう?」
僕はきょとんとしただろう。院長先生が両手を頭の上にやり、わしゃわしゃと掻く仕草をしてみせる。
「……いんちょうせんせい」
僕はようやく理解した。
「これはね、シャンプーハットっていうのよ」
「……」
僕は言葉を発せなかった。喉の奥に熱い痞えができていた。彼女が僕へしてくれたこと、ようやくすべてが僕の心へ収まって、どう返していいか分からなかったのだ。
ここの園児はほとんど必ず職員とともに風呂を使い、それが傷ついた園児へのコミュニケーション手段ともなる。つまりひとりで風呂へ入るための道具はこの施設に必要のないものなのだ。わざわざひとつだけ買ってあったこれはわざわざ僕の好きな黄緑色で、――それを好きというのも僕が頻繁に緑色のクレヨンを使っていたことまで先生がよく見ていてくれたからこそ今僕に初めて伝わった事実で、つまり、僕は、彼女らに。
愛されていたのだ。
「あなたはここへ逃げ帰ってきたんじゃないわ。ただ助けてほしかったのね。ひとりで何でもできるようになるまで、その方法を教えて欲しくてここへ来たんだわ。違うかしら?」
「……わ」
分からないと言いかけて、されど言葉は飲み込まされた。院長先生が僕を両腕で抱きしめたからだ。僕は瞬間ぞくりと鳥肌が立った。でもすぐに彼女の胸元を掴み返した。本当は僕も先生の背を抱き返してみたかったが、そうするにはまだ残念なことに気持ち悪い強張りが解けきっていなかったのだ。
院長先生の腕はぬくかった。布団よりもあたたかく、そっと僕をくるんでくれる柔らかいぬくもりであった。そして、僕はよくよく素直じゃない子供だ。数秒、もしくは数分後に必ず離れると知っていながら束の間だけのぬくもりを甘受することは到底できない。すぐになくなるものを得ようとするのは愚かしい。
僕は僕を抱く腕を引き剥がした。院長先生はやはり逆らわなかった。代わりに今度は僕の肩へ両手を乗せて、僕の瞳を覗き込む。
「ルックくん。次からは約束してちょうだい。ここへひとりで来ようだなんて、とんだ無茶にも程があります」
「……」
「あのね、先ほどお母様がこちらへお電話下さったのよ。そろそろあなたが着く頃ですって。そうじゃなかったら校庭にあなたがいるなんて気づかなかったわ」
そうだったのか。僕は師匠のことを思った。やはり師匠は分かっておられた。なのに止めようとしなかったのは愛情ゆえにか扱いに困ってのことか。……今は深く詮索すまい。
僕は思考をうやむやにした。
僕はひとりで生きていくんだから。
師匠が迎えにくるまで僕は少しソファで眠った。決まりを破って座ったソファは先の腕より柔らかく感じた。院長先生の腕は、それほど強く力が込もっていたのだ。
僕はそいつを遠くへ捨てた。不要な拠り所などほしくなかった。
雪はとっくに止んでいた。日が差せば途端に春らしい陽気、ぽかぽかと歩く僕らを包み込む。
師匠は普段と変わらなかった。
とはいえそれは態度のことで、道行く僕らの物理的距離には以前と大きな違いがあったのだが、ここでは控えておこうと思う。
他にあえて付け加えるとするなら、師匠は帰り道に大きな洗濯ばさみを一つ買い、シャンプーハットを物干しに吊って乾かすよう僕へ命じた。以来、物干しの隅はシャンプーハットの定位置だ。僕がシャンプーハットを使わなくなってからも洗濯ばさみはそこへあり、捨てることも他の洗濯物へ使うことも何故だか未だできずにいる。
子供らしい、感傷にまみれた思い出だ。
そして、最後に余談。
立ち寄ったスーパーにはびっくりするくらい整った顔立ちの美少女がいた。レースでごてごてに飾り立てられた赤いドレスの裾をふわふわさせて、漆塗りより光るショートカットに服とお揃いのリボンを結わえ、黒い瞳を濃い睫毛がつやつや縁取っている。年は僕と同じくらいか。およそこんな家庭用品の陳列ゾーンに関わりのなさそうな様相だ。
しばらく僕と同じものを見ていたレックナートさまは、喉の奥で含み笑って僕の耳元へこう囁いた。
――再会しますよ、と。
師匠の予言はこのひとつだけがまだ外れている。その理由について、師匠は今も頑なに口を割らない。
「ほほほ」
シーナが話し終えると、盲目の星見は邪気のない笑みをころころ漏らした。
時に四六一年。デュナン統一戦争は都市同盟軍の勝利に終わり、デュナン湖を囲む六つの都市と旧ハイランド皇国はひとつの統一国家を形成し得た。ここまで早く体勢が整うとは、偏にテレーズを始めとする皆の団結ゆえだろう。……王になるべき少年が姿を消したにも関わらず。
シーナはこれからアップルとともにハルモニア神聖国へ赴くことになっている。いよいよ明日から新たな門出、父母よ小遣いを多めにくれと、催促虚しく自室へすごすご帰ってきたのがそういえば二刻ほど前のことだ。
だが、さぁ寝るかと布団を捲くった時に突如現れたのがレックナートそのひとであった。今昼の夢を聞かせてほしい、それだけ告げられシーナは焦って正座した。昼寝を貪ったのがどうしてバレたのか。それも実は女とともに、だ。レックナートは穏やかに笑い、私は夢を聞きたいだけですと裏の見えない台詞でますますシーナを揺さぶった。
「……まぁ、ただの夢なんで、いろいろ矛盾つうかワケわかんないとこがあったりするんすけどね」
サイドボードの水を含んでシーナは呟く。結局それから三時間ほどあれやこれやと喋らされていたわけで、喉はがらがらするし魔女を相手にすっかり気疲れしてしまっている。それでも追い出したりしないのは相手が一応女性だからだ。シーナはつくづくフェミニストなのである。
「百万世界、です」
レックナートは微笑んだ。
「……へ?」
「私たちの存在するこの世界は、例えるなら川へばら撒いた百万ものおはじきのうちのたったひとつ。他にも無数の世界が散らばっていて、それらは並行し流れながらごく一瞬はじき合い、互いに世界の欠片を落としてゆくと聞き及びます」
「それ、マジっすか?」
「諸説の一です」
「……つまり信憑性薄いっつーことですか」
「あら、ルックよりも物分かりが良いようですね」
「あいつ頭固いっすからねー! って、ルックのお師匠さんじゃん。すんません」
「ほほほほほ」
レックナートは鈴をうち振るうように涼しげな、それでいて上品な笑い声を響かせた。瞼は常に伏せられていて、しかし彼女が真実盲目であるのかはシーナにまったく読み取れない。なぜなら、彼女はシーナの瞳を正しく見据え、またシーナの動きに正しく反応するからだ。
シーナは身振りで水を勧めた。レックナートは首をたおやかに揺らして辞した。……やはり、見えているのではなかろうか。
「あなたはどう思います? あなたの見る夢は、どんなものだと」
「や、最初はただの夢だと思ったんすけどね。今はちょっとだけ考えてることがあって」
「どうぞ、お聞かせ下さい」
「魂が在るなら――なんすけど。夢のあいつらは、本当のあいつらと同じ魂だって思うんすよね」
「彼らの生まれ変わり、または前世と?」
「んー、そういうのとは違うかも。同時に在る、とは思うんす。ただ同時には在り得ないっつう感じもあって。だから、多分、……この世界そのもの自体が完全な現実じゃないのかなーって、……わ、わかります?」
「ええ」
「俺は言いながら分かってないんすけど」
「ほほほほほ」
シーナは頭を抱え込んだ。正直言って、ただの夢ではあり得ない。だがただの夢だとしか判ずることができないのもまた事実であると思う。それ以上でもそれ以下でもない。これはあくまでも夢だ。夢なのだ。
「――だから、現実の彼らこそが足掻くべきだとお思いなのですね?」
レックナートは鋭くシーナの思考を突いてきた。……彼女にはどこまで視えている? 今さら空恐ろしくなってきて、シーナはごくりと生唾を飲む。
「そうです。あいつらが、互いに手遅れになる前に」
シーナは震えを消すように両手を組み合わせてみせた。十の指が互い違いに重なって、強度を増すのがわかるだろうか。ぐいと引く手に力を込める。それでも両手は離れない。
レックナートは確かに見ていて、然りと頷き微笑んだ。
闇色の空に、一陣の風が吹き抜けた。