ルックは一際高く、フルートを校庭に響かせた。
日曜日の学校はしんと重たく空気が沈む。
いくぶん湿った薫りを伴い地面すれすれまで降りてきた雲がフルートの滑らかな音合いをいつもより重厚に押し包み、音の震動を若干鈍くするようだ。が、却って、かりかりした気分のルックを程よく鎮静させてくれる。
演ずるは即興の、節も調も曖昧な曲、音の集合。ルックはただがむしゃらに好きな音階を吹き鳴らした。
……別に、あいつが悪いんじゃない。
ルックはふぅと、余韻を残さず吹ききって唇を離す。
理性ではとっくに始末が付いている。不具合があるのはもう一方で、あの黒く艶めく眼差し、優雅に差し伸べられる掌、綺麗にかたちどられた唇、どれもこれもを独占したいと声高に喚く心の奥底だ。すなわち、理性のようにすとんと割り切りできない感情の方である。
そんなの、仕方がないことだ。
ただしルックの齟齬感は主に己が飛び抜けて天邪鬼であるところへ深く起因するものであり、こればかりはどうにもひとりで処理しがたい。だからやむなく楽器の力を借りて、こうして散らしているのだが。
「……嫌な音」
自分の出した不本意な音色にルックは険しく眉間を顰めた。
一般的な意味での他者へ対する情愛は、ルックの場合無生物または動植物になら割と正しく機能する。こんな音を撒き散らしたくて吹いてるんじゃない。フルートに失礼だ。などと、ルックはひとしきり自己を糾弾してまた吹いた。
しかし音は変わらない。
ひどい乱れに思わず吹き口から体を遠ざけ、ルックは溜息に肩を下げながら物言わぬ銀の楽器を透かし見る。
よく磨かれた胴体に映るのは憤懣やる方ないといった風の、そして激しく悔恨している顔つきの、最も嫌いな自分の顔だ。楽器は奏者の心を透かす鏡である。音だけでなく、その質感、冷たさ重さ、すべてが秘めたる心中を示す。
(謝ろう)
うまく言えるとは到底思えないけれど。歩み寄らなきゃ進展しない。
(僕が悪かった。アスフェル)
幾度も心に繰り返したらちょっとは素直になれるだろうか。
つまらない嫉妬だ。子供じみた反抗だ。あんたが思わず涙ぐむほど僕は激しく苛立ったけど、それも相手がアスフェルだから。素直になれない僕のことなんかで、どうか傷つかないでほしい。
ルックは急に思い立ち、ビバルディを吹き出した。
陽気ながらも秋らしい物悲しさを含有する主旋律、本来ならバイオリンで紡がれるパートをルックは管楽器で器用に再現してゆく。
内心のわだかまりを掻き消すようにただ太かった音色がだんだん穏やかにたわみゆく。それでもやはりところどころで苛付いた跳ねがあり、そのたびルックは片眉を上げる。
ともすれば甲高く耳障りになりかねない高音域を、鈍色の空が掬って溶いた。
吹き終わる頃には彼が迎えに来るだろうと、何とはなしに予感があった。
「にゅーぶしまーす!!」
母音にそれぞれ小文字の付くような、やたら間延びした言い方に、アスフェルは頬元をつい綻ばせた。
「アスフェルせんぱーい!!」
「こんにちは、リツカ」
バッシュに履き替えるのと手近なマネージャーへ愛想を振りまくのとアスフェルへ腰を折って挨拶するのとをほぼすべて同時にこなし、さらにはあまりの馴れ馴れしさに仰天した風の先輩部員まで不敵な笑顔ひとつで黙らせて、リツカはひょこんとアスフェルの隣へ直立した。入部時における第一印象としてはかなり上出来、いや素晴らしい。アスフェルは隙のない構えでゆったり応じることにする。
「久しぶりだね」
「やだなー、今朝も昇降口で会ったじゃないですかー」
「俺は山から餌を探しに降りてきたらしい小猿を運動場へ追い払った覚えしかないけれど」
「それがぼくですってばー! 彼女さん、じゃなかった彼氏さん? 目つき悪いですねー!」
ばちばちっと音がして、鋭い火花が飛び散った。二人を取り巻く気配は飽くまで和やか、なれど内に秘めたる牙を今か今かと研ぎ澄ましている気配がどろり周囲に漏れ出づる。薄皮たった一枚の、簡単に弾け飛ぶであろう嵐の前触れを何とかせねばと誰もが思い、しかし魔王の異名を持つ男バス副部長及び得体の知れない新入生に挑めるものはそういない。
「……で、リツカはバスケ部に入部したいって?」
「はーい! ぼく、アスフェル先輩とプレーしたくてこの高校受けたんですよー!」
「それは光栄」
「おかげで親友と高校離れちゃってー、ジョウイったら、あっちの高校の方が強いから転校してこいなんて言うんですよー! だからぜっっったい、県大会で打ち負かしたいんです!!」
リツカは強く言い切った。
リツカが中学一年生の時、すなわちアスフェルが中三の時、ふたりは初めてコート上にて対峙した。結果はリツカの惨敗である。といってもリツカが弱かったわけではなく、残りのメンバーがアスフェルたちに遠く及ばなかっただけだった。ただリツカがこの試合をどう評価しているかは本人の胸中にしか述懐がない。アスフェルへ憧憬と敵意の相反する感情を抱いているところから察するに、それは今でも深いしこりであるのだろう。
対するアスフェルはリツカのプレーにただならぬ素質を感じた一人である。よって非常に親しみぶかい、素直に好意的な気持ちを示してあげていたのであるが、リツカの宿敵心に四六時中付き纏われてさすがに辟易、打たれ強い彼の性格を把握してからは遠慮なく叩き潰すことにした模様。功を奏してリツカはリツカの基本学力より遥かに高いこの高校へ入学できたのだから、アスフェルの煽動はリツカへきちんと前向きに作用したわけである。
どちらにせよ本人たちが二人揃ってこの状況を面白がっているのは明白だ。周囲がその度はらはらさせられるのはある程度仕方のないことと割り切るより他にないのだろう。
「……二人とも、どうしたの?」
「何やってんのあんたたち」
バスケ部部長にしてリツカと同じ中学校出身であるヒックスと、アスフェルが今朝小猿相手にブチ切れるきっかけとなった恋人ルック、救いの声ふたつが後方より飛来するまで、二人は互いに睨み合っていた。
さーっと嫌な予感が聴覚をよぎる。
ルックは慌ててベランダへ出る。
案の定、降り出した雨が久しぶりに屋外へ干した布団を濡らしかけており、耳聡い養母へ悟られる前にとルックは急いで取り込んだ。
梅雨時の空は養母の勘を以ってしても予測不可能な気紛れだ。家事と学業を同時にこなすには若干体力の足りないルック、たった二揃の布団ですでに息が切れてしまい、布団に凭れてぜいぜい荒い息を吐く。
――と、そこへベルだ。
二階のベランダから階段を走って一階突き当たりの玄関まで、似合わない汗を額に浮かべてルックは足音高く駆ける。養母はもちろん玄関先になんか出やしないのだ。
「すいませぇん、今度ねぇ、新しく駅前にオープンした英会話スクールなんですぅ」
相手をよく見ず開けたドア、先にはやたら童顔にミニスカートのスーツを着こなす、いかにもな訪問販売員が笑顔を安売りする姿。
「あ、申し遅れましたぁ、わたし、スクールアシスタントのミアキスって言いますぅ」
「……結構です」
「話だけでもぉ、聞いて下さいよぉ。先生はみんなネイティブでぇ、ニホンジンって発音苦手なひと多いじゃないですかぁ、でもウチなら安心! しかも今なら開校記念で入学金がいらなくってぇ、毎月のレッスン料と教材合わせて何とぉ、さん」
「Mind your own business.(頭上の蠅も追えないくせに余計なお世話だよ)」
ばたん。
ルックはにべもなく扉を閉めた。
英語は、嫌いだ。
この顔が嫌いなのと同じで、英語は嫌でも実父を思い起こさせる。それでもルックがそれなりに英語を使いこなせるのはやはり実父へのただならぬ思いが根底にあったからで、ルックはそんな自分も含めて英語をひどく厭うているのだ。
だいたい日本語を話せもしない人間が英語を話せるわけがない。ことばというものは単に通じればいいのではなく、背後に己のすべてを背負わせることのできるもの、つまり己の人生を示してみせることと同義であるのだ。
――と、度々意見が合致するマクドール家の女傑が言を思い巡らし、そういえば試合はどうなったろうとルックは時計を仰ぎ見る。
六時過ぎ。もう終わる頃だ。
「……師匠。電話は僕が出ますから。じっとしていて下さいね」
「嫌です。私がこの家の主ですもの」
「だったらいい加減家計簿のひとつもつけて下さい」
「そんなことよりもルック、師匠だなんて他人行儀な言い方は悲しいですよ。母上とお呼びなさい」
「……家計簿はつけたくないんですね。ならせめて紋付の仕立て、とっとと手をつけないと納品に間に合いませんよ。師匠」
手早く昆布だしを取り炊飯器のスイッチを入れながら沸かした麦茶を冷蔵庫へしまって、ルックは二階へ上がりざま居間で優雅に香を焚く養母へ牽制球を打ち込んだ。もちろん上記の通り成果は芳しくなく、電話の子機を階上へ奪ってしまうことで師匠の介入を阻むことにする。
先ほど駆け下りた木製の階段を、今度は手摺りで体を引っ張りのろのろ上がる。消耗度合いは殊の外高い。
溜息を飲み込んで二階へ戻ると、布団はわずかながら湿った匂いを醸し出していた。
濃いオレンジが畳を染め上げ、布団ごと空気を蒸したよう。振り返れば自室の窓は赤く燃え、中心を落陽が鮮烈な存在感で沈みゆく。
すると計ったように子機が鳴る。
ルックは素早く通話ボタンを押し、しばらく間を置いて耳元に当てる。
『ルック、勝ったよ。……優勝だ』
雨は、どうやら上がったようだった。
アスフェルはちょっとうんざりすらした。
この男がうんざりなどという負の感情をある特定の人物に対して抱くことなどそれだけでまさに天変地異とも呼称されるべき珍事である。ゆえに、何か大切な誓いを裏切った気さえむらむら胸に湧いてきて、腹立ち紛れに伸びてきた前髪をきつく掻く。
快晴だ。けちのつけようもなく晴れ渡る空。濾過したての薬液よりも隈なき水色、トーストの数枚は軽く焼けてしまえる濃い日差し。
今が真夏でなかったならば。ルックとて、ここまで不機嫌にはならなかったはずなのだ。
バスルームに篭城したきり盛んに水音を立てている愛しの姫君ときたらこの状態が続くこと早三時間、いい加減水道代だとか俺の堪忍袋の尾だとか、周囲を思い遣るだけの分別くらいは持って欲しい。
「ルック。俺が悪かったから。お願い、出てきて」
……返事はない。アスフェルはがっくり気落ちし目を閉じる。
先の台詞なぞもう何百回目になるだろう。
こんなにも気持ちよく晴れた日曜の真っ昼間、冷房を入れるか入れないかで喧嘩したままちょっと強姦まがいに抱いたのは、確かにアスフェルが悪かった。その際買ったばかりのネクタイを使ってみたのも、まあ確かにアスフェルが悪い。それがルックの選んでくれたネクタイだというのもさらにまずかったかもしれない。
が、しかし。
「俺のネクタイなんだから、別にどうしたっていいだろう……」
「――よくないよ、馬鹿!!」
「な、……え!?」
アスフェルはがばっと扉に縋りついた。
ごく低く呟いたつもりの独白に、何と三時間まったく反応のなかった天の岩戸から自分を貶す怒声が返ったではないか。
せめてバスルーム内に拉致されたままであるエアコンのリモコンだけでも取り返すべく、アスフェルは床まで汗水を垂らして陳謝する。
「ルック! ごめん、許して、本当に、罰は甘んじてすべて受けるから、ね、ごめん、お願い、ルック!!」
「……」
「ルック!!!」
「……」
通信、再遮断。
摂氏三十九度。
――ご近所さんへ退避すべきか……。
階下の旧友ゲオルグに失笑されるのをさながら討ち入りの思いで覚悟して、アスフェルは、ついに携帯へその手を伸ばした。
もちろん、例によって例に漏れず、その前に仲直りできたらしい。
それはまるで愛を奏でる男鹿のように物悲しげな、それでいて頑なな誰をも瞬時に氷解せしめるだけの無垢さを併せもつ、秋月のごとき声色であった。
ルックは唖然と、器用に憂いを現してみせる傍らの馬鹿を覗き見る。
「……あんた、何かんが」
「断るのも申し訳なくて」
「義理だけで? わざわざ滞在費自腹切ってまで?」
「父様がいつも使うホテルの方が安心だろう」
「……一泊三万円も出せば、ね」
ルックは大きく息を嘆じた。
場所は校庭、ルックはフルートを膝の上へ乗せている。植え込みの縁へ並んで腰を下ろし、さも申し訳なさそうながらちゃっかり己が正当性を主張する右隣の恋人へ、ルックは冷たく視線を刺した。
「あんたが行くのは勝手だけどね、僕までついてく必要はないんじゃないの?」
「ルックがいないと力が出ないよ」
「何を女々しい」
「厳然たる事実だ。今日だって」
端的に証拠を指摘され、ルックはかっと頬を火照らす。
夏休みに入ったばかりの七月最終日曜日は野球部地区大会決勝戦、己が部活もないくせに自主練がどうだと適当な理由をかこつけて運動場へ登校したのは確かにルックの方である。だがまさか本当に九回表で満塁ホームランをかっ飛ばすとは思わなかったし、その後同回裏で相手校四番がライトへ放った渾身の一打を易々捕るとも思わなかった。第一こいつは野球部でなく男子バスケットボール部所属である。そっちはどうだと目で聞けば、白地に紺があしらわれた暑苦しげなユニホームもさらりと着こなす万能葱はにんまりした食えない笑みではぐらかす。
「引退試合になる三年生からレギュラーを割り振るものだろう」
「野球もそれは同じでしょ」
「だから俺は単なる代打」
「の割に今日の五得点は全部あんただったじゃない」
「ルック、ずっと応援していてくれたんだ」
「――!!」
あっという間に挙げ足を取られた。ルックは憮然と楽器を握る。
「そんなにきつく掴んだら壊れてしまう。フルートじゃなくルックの指がね」
「……どうせ僕は非力だよ!」
「俺を力づける力があるじゃないか」
何を言っても暖簾に腕押し、糠に釘。ルックはついに根を上げる。
「……チケット」
フルートから離した五指をルックは右側へ突き出した。
「出しなよ。もう用意できてるんでしょ」
「ご慧眼。来週日曜日、十一時に羽田」
「は、羽……本州間の移動ごときに……」
「値段はそんなに変わらないし、ちゃんとファーストクラスだよ。ルックは狭いと酔うだろうと思って」
「あんた特割とかパックとか何にも使ってないんでしょ、空港までの交通費も考えてみなよ。だからって新幹線グリーン車にしても破るからね」
「指定席ならいいだろう? はい、東京九時半」
「……」
するりと差し出されるのは東京から新大阪間ののぞみ禁煙車切符。最初からこれを取っていたのだ。ルックは一睨みしてから不承不承ひったくる。
はなからこいつの手の内だ。ルックの一挙一投足をいとも容易く読まれることが、歯痒い一方こそばゆい。
……だからこそ僕はあんたを選んだんだ。
と、類い稀なる恋情に満ちた本音などわずかも漏らしてやらない意地で、それがルックの示し得る最後の抵抗となるのだが、数瞬唇を引き結んだルックはやがて小さく笑みかけた。
「……楽器、片付けてくるから」
「裏門で待ってる。グレミオがルックの分もおやつを作ってるんだ」
「……仕方ないね」
ルックは砂を払って立ち上がる。
運動場ではまだ甲子園初出場という快挙をついに成し遂げた部員共が割れるような歓声を上げており、風に乗って興奮と希望をルックの内へも流し込んできだ。茹るような熱波の中を切り開く感情の奔流が知らずルックを和ませる。ルックは立ち上がりざまにすると隣の肩へ手をぶつけ――頑張って、と励ます代わり、愛しい男の名を呼んだ。
「アスフェル」
「……ありがとう、ルック」
暫時眼を瞠ったアスフェルは、蕩けるように華やぎ笑んだ。
「……ちょっと」
ルックがすうと立ち上がった。
手洗いへ行くのだろう背中を二人で黙してただ見つめ、ゲオルグはふっと性に合わぬ穏やかな情を浮かべてしまう。
ルックの姿が消えるのを待って、ゲオルグはくつり喉で笑った。
「可愛いでしょう」
笑みの理由を見越したようにアスフェルが小さく囁いた。その手に握られているお猪口は空っぽで、テーブルに置かれた一升瓶ももはや空。宴はそろそろ潮時だろう。
ゲオルグはひとつ伸びをした。
「アスフェル君も、だな」
「俺ですか?」
「そんなに柔らかい黒曜を拝むことができるとは思わなかった。テオの横へ佇むお前はいつも老爺より大人びていたからな」
「俺だってもう二十四ですよ」
「何を言う。こんなにちびっこい頃からお前を見てきたんだぞ」
ゲオルグは膝の辺りへ手をかざし、これくらい、と身振りでその大きさをアスフェルに示した。アスフェルは照れたように苦笑する。
「さすがに同性とは驚いたものだが……」
「すみません」
「謝る必要はない。もっともテオは未だに孫が欲しいと渋っているがな」
「……です、よね」
「気に病むなと言っている。お前にそんな面をさせるだけでもあの子の価値が知れようものだ」
独身のゲオルグにとって実子同然にかわいがってきた親友の息子が結婚相手を連れてきた。テオからその報を受けたのは九年前になる。いくら線の細い子だとはいえルックの性別を違えられるはずもなく、男を連れてきた息子にテオは呆然とし、ゲオルグはマクドール家史上初の親子喧嘩が始まるのかと不届きにもしばらく胸を高揚させた。
思えばアスフェルはルックに関してのみ非常に率直で、同性との交際をあえて親に隠そうとしなかった。お願いだから認めてくれと大人びた仕草で頭を下げたアスフェルを今でもたまに夢で見る。
それくらいアスフェルは真剣に恋をしていて、――真剣に、生涯の誓いを立てたのだ。どうしてゲオルグに反対できよう。幼少より何でもかんでも人より上手くできすぎたアスフェルが人並みに足掻く、それはアスフェルをより人間として充実させるに違いない。
「……ルックは」
アスフェルがしおらしい声音を発した。
「ルックは、どう見えますか?」
「どう、と言うと」
「つまり、……俺といるルックは、どう、……つまり、ええと」
煮え切らない。
――煮え切らない態度を取ることなど、かつてアスフェルにあっただろうか。
「……いや、いいです。忘れて下さい」
ぶんと音がしそうなほど強く首を振るったアスフェルの頭頂へ、ゲオルグは軽く手のひらを乗せる。そして答えは与えてやるまい、心に思って代わりに笑んだ。
「ッ」
洗面所から小さく声が届く。続いてシャーっと水の音。ルックが蛇口ではなくシャワーの栓でも開けたのだろう。ゲオルグの家は――つまり同じ間取りであるアスフェルたちの新居もそうだが、洗面所に小さなシャワーが備え付けられている。軽く頭を洗い流したりすることができるのだ。
アスフェルはまるで兎のようにぴょんと椅子から飛び跳ねて、ルックのもとへと即座に駆けた。機敏というよりどこか滑稽だ。常に泰然としているアスフェルをここまで翻弄せしめ得るとは、さすがアスフェルの選んだ相手である。
「大丈夫?」
「放っといてよ」
「心配じゃないか」
「あんたに手取り足取りされるいわれはないの。いい加減馬鹿のひとつ覚えみたいに僕へべたべたしてくるのやめてくれる、しかも人前で特に」
「ルックがかわいいから」
洗面所でふたりは何やら言い合っている。微笑ましいものだ。ゲオルグは再度くつりと喉鳴らし、携帯電話を取り出した。
拝啓、マクドール殿。貴息は万事頗る順調。
短い文面をすぐさま送る。相手は含意を悟るだろう。返事はどうせ戻りやしまいが、テオの噴き出す姿が浮かぶ。
ややして洗面所から出てきたふたりを、ゲオルグは満面の笑みを湛え迎えた。
ゆったり姿勢を動かして、アスフェルは枕に突いていた肘を伸ばすと半身をごろんと横たえた。
隣でうつ伏せになっていたルックが視線をこちらへ振り向けて寄越す。
「昔のことを……思い出してた」
端的に述べると、ルックは興味をそそられた顔でしぱしぱと二度瞬いた。いくつになっても愛らしい。ふとした瞬間の何げない仕草、そのひとつひとつがアスフェルを酔わせ続けてもう二十年にもなるだろうか。性別も年齢も現世さえも、すべて飛び越えるほど愛し抜いているという自覚はアスフェルとて一応それなりに持っている。
「覚えてる? 下へ初めてご挨拶に伺った時」
纏うもののない肩を白く月夜へ浮かばせて弾力のある大きな枕を下に抱えこんでいるルックへ、アスフェルはふいと話題を振った。
ルックは再び瞬きをする。やっぱり二回、大きな瞳で。
「ゲオルグさんとこ? あんたが帆立の網焼きに七味かけるようになったの、あの時からでしょ」
「そう。よく知ってるね」
アスフェルが笑えばルックはわずかに眉間を顰めた。悔しそうな顔で少しだけ唇を噛んだのを、どうしてかなんて今さら考える間でもない。それくらい多くのものをふたりは既に共有している。
ルックは躊躇いがちに口を開いた。
「……僕も、思い出してたよ」
「高校のこと? 甲子園、リッツ・カールトンに泊まったのをまだ怒ってる?」
「あんた相当しつこいね、最初から怒ってないってば……。思い出してたのは中学の時。バスケ、全国大会の決勝戦で。あんた携帯持ってるのにわざわざ体育館の公衆電話からかけてきて、やたら雑音が多くて。師匠が横で五月蠅いし」
今でも鮮明に蘇るのだろう、養母との軋轢――というには互いに親愛のこもり過ぎたものであったが――を溜息で表すと、ルックは瞳孔をきゅうと細めた。
昔を回顧する時の癖だ。
養母は今も隣県で独り呉服屋を切り盛りしており、数十年の伝統を誇る技術はまだ多くの需要によって固く支えられている。しかしルックが跡を継がなければ養母の代で店を畳むことは否めない。だからルックは昔を思い出すたび養母への申し訳なさに瞳を小さく伏せるのだ。
アスフェルもまた、昔をやんわり思い返した。
ルックは携帯電話を持っていなくて、ルックへ連絡する時は二度に一回の確率で何らかの障害に妨げられたものだった。それでも不思議と特に大事な用件に限ってそれがなかったのだ。巡りあわせ、というのだろう。
「そういえば、ルックがバスルームに立てこもったこともあったな。勤めてからだったから……いつだろう」
「二十五歳の夏」
「よく覚えてるね。ふたりの思い出、どれもこれも」
「そ、そんなの、たまたまだし……っ」
「照れてる?」
「そういうのをわざと口にするあんたって心底むかつく!」
「俺はそういう毒舌を平気で垂れ流して止まないルックが結構好きだけれど」
ルックはぐうと喉を鳴らした。思わずその顔を引き寄せ、額に軽く唇を乗せる。アスフェルがそうするのをまるで悟っていたように瞼をわずか閉ざしたルックは、いくつになっても慣れないらしく頬をすうっと朱に染めた。
「リツカが入部する時もそうだっただろう。ルックの止め処ない毒舌にさすがのリツカも根負けで、以来大人しくなったんだった」
「僕はすり寄られて大変だったよ」
「リツカなりにルックのことも尊敬してるんだよ。俺を従える猛獣使いとでも捉えている節があるから」
「猛獣っていうか。あんたの場合、……何でもない」
「何?」
「何でもないって」
「言えないようなこと?」
「……うるさいよ」
言いざま、ルックは体を起こした。吹き抜ける微風の香りに訳なく惑って、ルックがアスフェルの唇をルックのそれでもって封じたのだと気づくのに短くはない時間がかかった。
もういくらかひんやりしている。さっきまであんなに、ただ熱かったのに。
「ルック」
「うるさい!」
「好き」
「いい加減に」
「愛してる」
「だからいい加減にしなって、アスフェル! ……恥ずかしい、から……ッ」
そう言って枕へ耳の真ん中まで埋めてしまったルックの肩を、アスフェルは腕で覆って月から隠す。こちらもだいぶ冷えている。もう晩春であるが、ルックは低血圧で冷え性なのだ。
ルックがアスフェルを何に例えたかったかなんて、それも尋ねる間でもない。それくらい深く、ルックという人物のうちを暴いてきたつもりだからだ。
アスフェルは毛布を引き上げた。干したばかりの毛布からはルックと同じ涼やかな風の匂いが漂ってくる。自分にもいくらか移っているだろうと単純な事実に胸を高揚させ、アスフェルは腕の力を強めた。
ルックの耳が少し赤らむ。枕に埋めた顔がゆっくりこちらへ持ち上がる。
合わせた唇は、さっきより少し温かかった。