web拍手集 17





豚の角煮
20071002-20090325

 弟が、テッドの左足へしがみつき、怖々とコンロの青い火を見つめている。
 まだ鍋の中を覗き込むには身長が足りないからである。うちへ引き取られたばかりの新しい弟はわずか七歳、だが七歳男子の平均身長および体重をともに満たしてはいない。だから余計に幼く見える。
 テッドは制服が皺になることを少なからず憂慮したものの、結局、骨ばかり目立つ指がしがみつくのを拒むことなどできなかった。中学校の制服なんてあと二年足らずで着なくなる。それよりこの、人に話しかけられることを怖がり見られることを恐れ、自らは口を利くこともできない弟が、スキンシップだけは過剰に取りたがるのを受け入れる方が大切だ。
 しかし、理性ではそう思うテッドがわずかに身体を硬直させているのを、新しい弟は気づいたろうか。
 本当は他人にあまり触れて欲しくない。他人と深く関わりたくない。テッドは三年前からずっと亡くなった両親の喪に服している。それのどこが悪いんだ。両親が死んだ原因を己に求めて何がおかしい。だから誰も近づけたくない。近くにいればきっと、
「……ッ」
 暗転、する視界。死の呪術。
 首を振った。呼吸を飲む。気のせいだ。気のせいなんだ。くだらない思い込みが右手へ強い影響力を及ぼしているだけだ。怯懦を捨てろ。闇を呼び込むな。
 止めろ!
 きつく瞑っていたらしい。瞼の筋肉をそっと緩める。代わり映えしない台所の油に汚れたステンレス、壁のタイルは曇った水色、大人しく湯気をくゆらせる厚手の鍋と剥き終えたゆで卵がつるんと三つ入った小皿。……戻って、きたのか。強張る右手の指をゆっくり曲げながらテッドは鈍重に瞬きをする。
 と、足元にもぞもぞと動く感触がようやく脳へ伝わってきた。テッドは足元の旋毛を見下ろす。たったそれだけでひどく億劫。右手がひび割れる心地におそわれる。
 弟は――無事だ。変わらず不安げに瞳を揺らしてコンロの炎を見つめ続けている。テッドの視線へ戸惑うものか、旋毛がかすかに揺らめいた。
 彼は火も、火のような赤色も怖がっている。なのに瞳を逸らさない。火を恐れるくせに平気で触れようとすることもある。こいつも相当病んでるんだな。テッドは若干、安堵にも似た共感を持つ。
「そろそろ醤油入れっか」
「…」
「あと三十分ほど煮込んだら常温に冷まして、じいちゃんが帰ってくるまで置いとくんだ。出汁が染みて美味くなんだぞ」
「…」
 弟の無言を勝手に肯定と受け取って、テッドは調味料を取るため弟の掴まる左足を動かした。
 ほんの、わずかだ。
 弟の指がびくりと大仰に引きつるなんて想像もつかなかったのだ。テッドは焦る。むしろ狼狽しさえする。
「ど、どした?!」
「…」
「醤油、あそこにあっだろ、半歩横だぜ」
「…」
「醤油と砂糖入れて三十分煮込むんだって。入れなきゃ角煮にならねぇだろが」
「…」
「お前も一緒に半歩動けばいいじゃんか。すぐだから別に動かなくてもいいんだし」
「…」
「……もー、何なんだよ……」
 テッドは額に手首を当てた。
 弟は喋らない。だから、何を考えているのか、テッドにはさっぱり分からない。弟が普通の思考回路を持たないことは嫌でも理解しているが、じゃあどうなのかというとお手上げだ。テッドだって心に腫瘍があるのだ。他人のことまで気を回している場合じゃない。
 せめて一人で部屋にこもってでもいてくれたなら。などと思わず望んでしまうそれは、すこぶるセルフィッシュな考えである。間を置かずして自己嫌悪。俺は最低な人間だ。
「…、」
 苛々と首の後ろを掻き毟るテッドに、小さく、何か、音が聞こえた。
「…て」
 右手が疼く。右手が痙攣する。黙れ。黙ってろったら。聞こえなくなるじゃないか。
「…て、ど」
 何度か耳にしたのはいつも悲鳴か泣き声だったのに。
「…てど、……お、にぃ、ちゃ……」
 刹那。右手の耳鳴りが、嘘のように薙ぎ倒された。
 蟻の足音より小さな、されど雪解け水の作る滝より透明な。掠れて震える繊細な声音は今にも砕け散る薄氷に似る。幻想と見紛う声だ。しかし、テッドが信じこんでいる右手の呪詛をあっさり破ってみせたのも事実で、それはぴたりと騒ぐのを止めた右手がいっそ奇怪に思えてくるほどあっけない。弱々しいのに未来を手繰りよせる綱。一片の穢れも知らぬ雪のよう。テッドはただただ眼を瞠る。
 ああ、名を呼ばれただけで、こんなにも。
 こくんと生唾を飲み込んでから弟が、立ち尽くすテッドを戦々恐々として見上げた。瞳が心なしか涙に濡れて潤んでいる。ぎゅっとしがみつく指の力が強まって、柔らかな茶色い頭髪の、たんこぶや擦り傷で毛の薄い部分の皮膚が、悲しみのせいかまたは怒りか、それとも他の感情に衝かれたせいなのか、ほのかに赤くなっていた。
「…てど、に、……ちゃ」
 言いにくそうに瞳を歪め、片手でズボンを握り締めつつ、他方をテッドの制服の襟へ伸ばしてくる。もちろん届かない。本人に伸ばしきる意志がないからだ。臆病なのだ。第二ボタンのあたりへ爪が引っかかる。胸の中心を辿って落ちる。
 テッドは、その手を掴まなかった。屈んで弟を抱きしめてやったりも、やはりできなかった。手を下ろした弟はしばらくじっと待っていた。なのにテッドは、今以上歩み寄れはしなかった。
 暗い。暗いと思う。危なっかしい兄弟が二人手を取って進むには、眼前の道が暗すぎる。
 テッドは無理に足を動かした。弟を半ば引き摺って、醤油を取るとやや少なめに鍋へ振り掛ける。砂糖とゆで卵、隠し味にオイスターソース。未だ見上げてくる弟の頭へ、ほんの一瞬、そっと左手を乗せてみる。
「あと三十分な。――キキョウ」
 弟と同じ名を持つ花が出窓の外に集まって咲く、九月、中秋の明けだった。


テッドお兄ちゃん、が言いにくかったのですね。次からテド兄になります。










ベクトル
20071002-20090325

 高校を休んだキキョウのために宿題を担任へ問い合わせれば、数学は今日から新しい単元へ進んだという。どうせこんな素っ頓狂な電話をしてしまうくらいに奇妙な日なのだ、キキョウの代わりにベクトルを解いてみるのも悪くない。
「テッド、そこは五を代入」
 三分の百九十という頭でっかちな値を文字式へ放り込もうとしていたところ、御年八つになるアスフェルが、完全な無表情を保って、ノートの一字をつと指した。
「何で。さっきの解を代入だろ」
「この値を出してから。先にこれを展開して整理」
「あー、そか」
 アスフェルの言う通りに計算式を展開しつつ、テッドは一抹の憤りなぞを感じないではいられない。八歳つったら俺なんか、日がな一日中、野っ原で泥んこまみれになってたっての。どうやったら高校で習う内容が解けるんだ。
「……家庭教師には事欠かないから」
「てめ、まぁた俺の思考を読みやがったな」
「テッドが故意に、俺へ伝わるよう、顔に出してくれているんだろう?」
「マジかよ」
「はい、鏡」
 アスフェルがひょいと手鏡を差し出してきた。映る自分は確かに情けない顔をしている。格好悪い。八つ当たり気味に遠心力をつけてジャスト真後ろへ放り投げる。ベッドへうまく着地したはず。割れる音がしなかったから。
「お前よぅ」
 テッドは鉛筆を耳の裏へ引っ掛けた。
「俺の記憶だと三、四歳くらいまでは片言だった気がすんだがよ」
「そうだろうね。漢字を習得したのが四歳だ」
「だったけか」
「日本漢字能力検定は三級」
「って、年齢制限ねぇのかよソレ」
「合格証書が見たいのか?」
 言いつつどこからか本当に証明書を出してくるので、テッドは呻いて降参するしかなくなった。
 テッドとアスフェルは出会ってからもう八年になる。つまり、アスフェルの生まれる瞬間から付き合いがあったということだ。アスフェルの父親へさまざまな便宜をはかってもらっていたテッドは、アスフェルの出生時にも分娩室の外で固唾を飲んでいるほどマクドール家と親密であった。ちなみに当時、分娩室の中では、現在自室で寝込んでいる弟がテオとともに半泣きで出産に立ち会っていた。
「……話は変わるけれど、テッド」
 端整な容貌を切なげに顰め、アスフェルが重く口を開く。ぱりっと着こなした紺色の制服に若干そぐわない様で、背中にしょったままの黒いランドセルから紐で結わえたうちんちの鍵が揺れている。アスフェルは勝手知ったる何とやらでつい先ほど我が家へ侵入してきたばかりなのだ。もちろん、テッドが玄関チャイムへわざと応答しなかったにも関わらず。
「――キキョウは?」
 鋭く、容赦なく出された、今は寝込んでいる弟の名に、テッドは遣る瀬無く溜息を吐く。
「まただよ」
「相手は」
「下級生。――制裁は食らわしといた」
「……キキョウ……」
 うちの弟はよく襲われる。文字通り、襲われるのだ。昨日のそれで軽い裂肛、熱が出たため、今日は高校を休ませた。
「ま、俺も、たまたま今日は予定がなかったもんですから」
「一言電話してくれたら良かったのに。テッドの手伝いくらいならできるよ」
「お前の方がおもくそ手加減ないだろが」
 テッドは今朝キキョウが起きる前に欠席連絡を終わらせてしまった。キキョウは呆然と兄の持つ受話器を見遣ったものの、やがて観念したのか自室にこもり、それから今まで、おそらくずっと眠っている。――申し訳ないが確実に眠るようお粥へちょちょいと仕込んでおいたのだ。だからテッドは、午前中を丸々使って、加害者へ肉体および精神両面における「ほどほどな」制裁を食らわせていた次第であった。
 アスフェルは黒く艶めくくりくりの瞳を、よくぞここまでというほどぎんと凶悪に怒らせる。
「手加減しなくて当たり前だ。俺の、かわいい弟を」
「俺の弟だけどな」
「テッドの弟でもあるけれど、うちの大事な弟分でもあるよ」
「だな」
 さらさらの黒髪を左右へ散らしてアスフェルがむくれた顔をする。よほど、キキョウを守りきれなかったことが悔しいのだろう。テッドの耳へ掛けられたままの鉛筆へ向ける小さい右手も今はどことなくかりかりしている。
「おい、俺が解くっての」
 テッドの耳から奪取した鉛筆で、テッドの腹へ乗っかるようにして机との間に体を割り込ませ、ノートへおもむろに式を書き始めるアスフェルへ、テッドは急いで制止の言葉を突きつけた。無論、口だけでなく手も同時に出している。
 今日はわざわざ二回も高校へ電話したのだ。キキョウの様子を聞き出し、クラス内の不穏分子を聞き出して、今後弟のための安全対策を練るにあたって担任への心証をできる限り良くしておいた。その延長線上に宿題があるものだから、テッドとしては行き掛かりとはいえ一応自分で解いておきたいところである。ああ、馬鹿らしい意地と思うなかれ。アスフェルはこの点に関して誰よりも恐ろしいライバルだ。
「アスフェル、あいつの様子見てきてくんねーかな」
「……ああ」
 もうじきキキョウの薬が切れる、その時。枕元にテッドよりアスフェルのいる方が、キキョウは喜ぶんじゃないかと思う。兄なりの思いやりだ。テッドが言外にそう匂わせたのを、アスフェル曰く故意に悟らせようとしている表情から読み取ったらしく、アスフェルは渋々といった調子で頷いた。
 テッドは問題集へ向き直る。解いておいたらキキョウがどんな反応を見せるだろうか、楽しみだ。これもまたテッドなりに不器用な愛情表現の一種である。気づかれない程度に配慮するのがテッド流だ。
 とはいえ、キキョウもアスフェルも、実はそのことへとっくに気づいているのかも知れない。テッドがアスフェルやキキョウの隠す優しさへ気づいているのと同じ。俺ら三兄弟は大した言葉を使わずして互いを分かり合おうとする節があるものだから。
 それを証明するかのようなタイミング、ふいに、ぱさりと小さい手のひらが、テッドの栗茶頭へ置かれた。余計なことまで読み取ったらしい。テッドを観念させてしまうアスフェルの大人びた微笑みがテッドを子供部屋へと誘導するのに抗えず、テッドはちっと舌打ちに照れを紛らすことで応射した。


よん絡みだとこの2人、親友というより兄貴2人になるようです。











20071002-20090325

 海が見える。
 霧に包まれたこの船からも、わずかに見える、青い青い紺碧の海。西空の夕陽。東雲の朝。
 願うらくは、この広い海原を忌々しい紋章が駆けずり回ることのないよう、死神が、その不吉な鎌を音もなく風切らぬよう。
 俺はこの空間へ篭ろう。俺は心を閉ざしてしまおう。
 独り、恐怖に、耐え続けよう。

 それでも本当は、この長い時間さえも、いつか彼に会うための一刹那に過ぎないのだと……期待している。

 再び、俺が、霧の外を歩む日を。


上2つはテッドが見た夢、というオチをつけたつもりではなかったんですが…。