マクドール家の風呂場は、はっきり言って豪華である。
広い浴槽はもちろんジェットバス、ミストサウナもテレビも完備、梅雨時などは乾燥室として洗濯物を干せるようにもなっており、果ては遊び心か細長い姿見がドアの脇に埋め込まれている始末。
占めて四畳半ほどのスペースはちょっとしたホテルのように控えめなアイボリーでデザインされている。
贅を凝らした造りである。
惜しむらくは、宝石箱を引っくり返したような都下の眺望が風呂場で楽しめないことか。
南向きの新築分譲マンション最上階、上品に磨き抜かれたエレベーターホールから最左奥、学生時代の儲けを元手に購入した3LDKが三年前に親元を離れたアスフェルの住まいである。
都心からほどよく離れた閑静な市街地に聳え立つこのマンションは、もとは丘陵であったところを切り開いた高級住宅街の一角だ。
絶景と称される都心のきらめきは南方にガラス張りの開けるリビングおよびその西隣に位置する和室から望むことができる。
軽く二十畳を超えるリビングと床の間および押入れのついたシックな和室はガラス戸からベランダで行き来できるようになっており、晴れた夜には眼下へ壮大な景色が広がるのである。
家でのほとんどを過ごすリビングに繋がるカウンターキッチンは東中央、ちょっとした門扉とポーチを備えた玄関はキッチンから廊下を通って西端だ。
その玄関で振り返って北側、すなわち間取り図で玄関の左側には、広めの洋室が二部屋並ぶ。
奥の洋室はマンションの角に当たるため北から東へ回り込んでベランダがあり、ここがふたりの寝室だ。
そして風呂場などの水周りは玄関から見て右側、キッチンの斜向かいにまとめられている。
つまり、このマンションの構造上、隣家と隔てる吹き抜けに面す風呂へは空気を入れ替えるための小窓しか取ることができないのである。
ぽこぽこと弱く出した泡に揺られること小半時間、アスフェルはそろそろぼんやりしてきた頭をことり浴槽の淵に乗せた。
のぼせたかもしれない。
赤く火照る腕も湯船から出してしまい、ぺたん、冷たい浴槽の側面へくっつける。
――ルックはまだかな。
恋しい金茶の天邪鬼はまだ来ない。
アスフェルは手持ち無沙汰にルックの一糸まとわぬ痩せた肢体を思い出す。
あの細い腰を掻き抱くのが好きだ。
あばらの浮き出た胸部も好きだし、湯気で後れ毛の貼りついたうなじはかなりイイ。
湯に浸かるとすぐ上気する頬、水滴の乗る睫毛、最後まで冷たい耳の裏はアスフェルが洗ってやるとくすぐったがって身を捩る。
(……あ、やばい)
ルックの体ならどこまでも鮮やかに脳裏へ浮かべることができて、我ながら見事にルックフェチだと、アスフェルは己が下半身を眺めながら反省した。
先に入っといて、と冷たくあしらわれたきり、ルックはなかなか風呂場へ来ない。
アスフェルは両手に湯を掬って顔を浸した。
いつもはふたり一緒に入浴する。
柔らかくもつれやすい髪を洗うのはアスフェルの義務であり、また特権でもあるのだ。
先ほどアスフェルが呼びかけた時、ルックは暇そうにテレビのチャンネルをぷつぷつ変えながらお気に入りのアッサムティーをミルクで飲んでいた。
特に何か忙しそうだったとは思えない。
(トイレ、かな)
アスフェルは長い待ちぼうけに穏当な理由づけを試みる。
同棲ならではの忌憚ない推測だ。
無論、アスフェルとて本気でそう思っているわけではなく、とりあえずはまずまずな判断を下してみただけである。
どうせルックのことだからもっとつまらない理由だ。
キリの良いところまで新聞を読みたいとか、風呂から上がった時のために紅茶を淹れて冷やしておこうとか。
だがそんなルックをわざわざ浴室から出てまでしつこく急かすのはアスフェルの性に合わないし、できるだけルックには、例えるなら放し飼いの猫のように、自由気ままに振舞ってほしい。
だからアスフェルはのぼせた体を上半身だけ湯船から出して、ルックが来てくれるまでの間、ルックがひとりで何をしているのか想像することにした。
最初は普通にあり得そうな状況。
(せっせとメールを打ってたり)
ルックはしょっちゅうメールを送る。
送信相手は言わずもがな、養い親のレックナートである。
それなりに長い文章を送らないとすぐさま電話が掛かってきて、母への思いやりが足りない、仕事とアスフェルと母親のどれが一番大事なのか、等々、ぐちぐち嫌味を言われるらしい。
とにかく長ければ納得はしてくれるという意味不明な養母のために、ルックは読んでいる論文の一説を引用したり辞書の一項目を丸写ししてみたり、それはもうかわいそうなくらい頑張って長文メールをしこしこと打つ。
その横顔は凛とひたむきでかなりかわいい。
で、アスフェルとしてはこれを手伝ってあげるのが醍醐味なのだ。
養母に嫉妬しないのかなんて愚問は聞きたくもない、それよりもルックと少しでも同じことを考えていたい。
恋はあらゆる負の感情を凌駕するのである。
(または、小腹が空いて、プリンを食べていたりして)
そういえば冷蔵庫にプリンがあったと、アスフェルはぼんやり記憶をたどった。
つるんとルックの唇に吸い込まれるプリンは何度見ても飽きない。
そしてプリンの場合は口に入れる前段階も飽きず見てしまう。
カラメルの部分が大好きなルックはできるだけ均等にカラメルを振り分けようとする。
一口ごとに一定量のカラメルがスプーンに乗るよう、そして最後の一口だけはちょっと多めになるよう、それは熱心に焦げ茶部分を掬うのだ。
その様子の愛らしさといったらビデオに撮ってもまだ足りないくらいだ。
とっておきのかわいい仕草である。
……思い出すだけで、おかずになるくらい。
アスフェルは何だかやにわに熱くなってきた顔を手のひらで幾度も扇いだ。
(まさか、仕事の電話が掛かってきてはいないと思うけれど)
(テレビで没頭するほど面白い番組を見つけた?)
(それとも、突然キッチンの換気扇を掃除し始めたとか)
だんだん現実味がなくなってきた。
やっぱり当初の「トイレ」説が最も妥当である。
ではもし、本当に、ありきたりに、トイレへこもっていたとして、ルックはその密室で何をしているのか。
(もしかして、本当にもしかしてだけれど、俺がうっかりリビングへ置きっ放しにした……)
ふとある事実を思い出し、アスフェルはすこぶるにやついた。
テレビの脇へまだ片付けずに置いたままの袋があるのだ。
わざわざ黒いビニール袋へ入れられているのは、今日薬局で箱入りをまとめて買った、男性器に装着する、ラテックス製の筒状避妊具である。
基本的にアスフェルはそれを着けてルックと交わる。
ルックの後始末を思いやってだ。
断じてルック以外に使用しないと言明しておくが、ルックにはかなりの高頻度で用いるため、十二個一箱の物体はそこそこのペースで使い切る。
しかしあのルックが堂々とあんなものを買って来るはずがなく、だがあれなしで済ませるわけにもいかないので、アスフェルは自分一人で買い物に行く時を見計らって結構まめに購入するのだ。
その一度に四つも買ってきた紙箱へもしかして、万が一、ルックが変な昂ぶりを覚えてしまっていたとしたら。
アスフェルは風呂に入っているから、ルックとしてはひとりでちょっとすっきりする大チャンスである。
敢えて補足するが毎日の性生活が充実していないわけではない。
男というものはどれだけ満たされていようとたまには自らいじりたくなる時があるのだ。
(ルックのそういうシーンって……見たことがない……)
アスフェルは嬉々として妄想に励んだ。
きっと声を殺し、息を潜めて。
覚束ない手つきでルックが己を慰める。
羞恥はルックの細い指先をしとどに濡らし、そんな行為へ耽る己が自身をさらなる羞恥で煽る。
だんだん勢いを増して擦り上げられるルックの、――。
アスフェルに気づかれるかもしれない緊張は理性を追い込む潤滑剤にしかならなくて、止められず、淫らに、指を這わせる。
そして、まさかとは思うが、それ用に道具類をこっそり買っていたとしたら。
アスフェルとしては悔しい気もするが同時にどうしようもなく興奮する。
あのルックが、自分で、アソコに。
アスフェルので貫かれるところを想像して。
魚のように撥ね、背をくねらせて。
白濁した液体をとろり床まで滴らせるのだ。
「あんた、まだ入ってんの?」
ドア越しに注がれる冷めた声音へ、アスフェルはふいに妄想を断ち切られた。
途端に天井がくるんと回る。
つうと鼻から嫌な感触。
「……ル、ルック……」
アスフェルに出せたのは、相当弱った救いの懇願だけだった。
アスフェルはふらつく足取りでリビングに座り込んだ。
腰へバスタオルを巻いたきり、ソファの足へ背中をもたせる。
フローリングのひんやりした感触が気持ち良い。
拭いても拭いても吹き出る汗がいやに生々しくこめかみを伝う。
「あんた、一時間以上も何やってんの?」
ルックが呆れた顔でティッシュとうちわを持ってきた。
そよ、とうちわの風にのぼせきった体を撫でられて、アスフェルは鼻にティッシュを当てながら眩暈を押し殺す。
「何してたの、ルックこそ」
「家計簿。つけてたら偶然、ここ一ヶ月の数字が綺麗な階差数列になってて。ついでだし他にもあるかと思って過去二年分を一通り計算してみたんだけど、ほら」
ルックは広告の裏を見せてきた。
「去年の四月は特徴的だよね、年度始めだから大きな数字が動きやすいのかな、ちょっと特異な形のグラフを描ける。で、興味深いのが八月で、冷房の電気代と」
どこか嬉々として、そう、先ほどあらぬ妄想を掻き立てていたアスフェルのように嬉々とした弾む表情で、ルックは楽しそうに金銭の美学を説明してくれた。
「……俺、病気かも」
アスフェルは収まらない嘔吐感を訴えるべくルックを遮る。
本当に、予想以上に、どうしようもなく。
どうでもいい発見だとしかコメントできない。
いつものアスフェルなら一緒になって議論したかもしれないけれど、今はとてもじゃないが数式をあれこれするような気分ではない。
それこそ熱に浮かされた病人のように、アスフェルはルックの手首を掴んでひいひい弱音を吐く。
うちわの手を止めてルックはアスフェルの瞳を覗き込んできた。
「病気かもしれない」
アスフェルは大真面目に主張する。
「気持ち悪いし、熱いし。……それに」
アスフェルは一旦声を切り、ゆっくり息を吸った。
ルックが先を促してぱちりと瞬きをする。
何て綺麗な翡翠の双眸。
芽吹いたばかりの若葉よりなお清く、それでいて鋭い刃を携える翠緑。
一心にアスフェルを見つめる瞳が照射する眼光は真夏の紫外線よりも心に痛んで、アスフェルはどくりと心臓の動く音を感じた。
「それに?」
ルックはほとんど無表情で聞いてくる。
アスフェルでなければ分からないほどわずかに顰められた眉間から、顔へ出さずともルックが心配してくれていると分かる。
どくん、再び血液の強く押し出される音がした。
「欲しい」
思わず、本音が口を吐く。
「はぁ?」
「ルックが、欲しい。しよう?」
ルックはすうっと目尻を細める。
構わずアスフェルは豪胆に誘う。
「ルックが欲しい。口づけたい、触れたい、舐めたい、齧りたい、――」
べちん!
続いて言いかけた性器の名称は、問答無用におでこをはたいたルックの手によってあえなく散らされた。
ルックは怒りと恥ずかしさに頬を染めている。
燃えるような翡翠が、やっぱり綺麗だ。
「ルック……きれ」
「こンの変態馬鹿男っ!! 頭もソレも冷やしてきなよ!!」
力いっぱい殴られて、ちょうど眩暈がひどくなったのと重複シンクロ。
ごづんと濁った効果音が熱のこもった耳に鳴り響く。
アスフェルの頭はぐらり地に沈んだ。
もう夜中である。
呻くアスフェルを置き去りにさっさと根源の風呂を使い、てきぱき明日の支度を整えて、アスフェルがようやくだらだらとパジャマを着る頃には炊飯器のタイマーセットまで終えていたルックは、あんたのせいで今日は疲れた鬱陶しいと、けんもほろろに、とりつくしまもなく、ダブルベッドの右側になる東窓の方へそっぽ向いて。
先に、寝てしまった。
アスフェルは体の冷めるとともに醒めてしまった眠気を呼び戻すことができず、ルックの左隣でベッドの縁に浅く腰掛ける。
防音の効いた室内は針の音すら浮かび上がらせるほど。
すうすうと眠るルックの寝息が規則的に耳たぶを揺らす。
もぞり、後ろで動く小さな気配で、ルックが仰向けに寝相を変えたと知れる。
「ルック……」
喉の奥で呟いて、アスフェルはそっとルックを返り見た。
東からレースのカーテン越しに冴える月光、ルックの瞼をどこまでも白く透き通らせる。
頬へ落ちる睫毛の影。
薄く開かれる色のない唇。
神々しく散らばる金茶の髪。
ルックは、綺麗だ。
他にふさわしい言葉が見つからず、アスフェルはどうにか外へ吐き出したい衝動を持て余す。
ほんのり吐息の漏れる唇を貪りたい。
冷たくすべらかな雪肌へ全身で触れたい。
折れそうな首筋を思う様舐めたい。
感じてすぐ勃つピンクに咲いた胸飾りを齧りたい。
アスフェルしか知らない奥の秘所へ、猛る己を遠慮なく、
(……挿れ、たい)
さっきから一向に鎮まる気配のない一物へ、アスフェルは自己嫌悪に苛々と前髪を掻いた。
白い顎へ顔を埋めれば石鹸の香りがするだろう。
吸いつけばそこだけ堕落したように紅い跡が刻まれ、ひんやり冷たかった素肌はいつの間にかしっとり汗ばんで。
撫で回すほど感じる太股、吸いつけば途端に硬く尖る乳首、どれひとつとしてアスフェルを狂わさない場所はなく。
壊れそうに華奢な腰はアスフェルのをみっちり銜え込む。
ぬるぬる溢れて淫猥な匂いを漂わす汁。
欲しがるままに突いてやれば、苦悶と快楽の入り混じった、がらりと仮面の崩れた素顔を惜しげなくシーツへ乱れさせて。
――アスフェル、と。
イく瞬間、一際震えた嬌声で呼んでくれる。
好きも愛してるも今までに一回だって言ったことのないルックが、おそらく最もそれに近い発音をするのがこの時だ。
同時にぎゅっと熟れた蕾がすぼめられる。
内襞までひくつくのが分かる。
(……かわいい)
それがたまらなく愛しいのだ。
アスフェルはルックの耳元へ両手を突いた。
覆いかぶさり、逃げ場のないルックをひたすら見つめる。
警戒心なく眠るルック。
ねえ、俺が毎晩眠りにつくルックの横でどんなことを考えてるか、知ってた?
馬鹿みたいに卑猥で強欲で。
そして、馬鹿みたいに愛しさばかり抱えている。
「ルック」
唇を寄せてみる。
間近で見るルックは本当に綺麗だ。
綺麗だから好きなんじゃない。
好きだから、何よりも綺麗に見えるんだ。
小柄な体躯の内に秘められた強さも弱さも、俺は全部知っているから。
「ルック。……愛してる」
吐息の触れそうなところで、アスフェルはゆっくり囁いた。
血管が全部拡張されたみたいだ。
何もかもが溢れそう。
アスフェルは首を振るう。
ぱさ、黒髪がルックの額へ落ちかかる。
それでも起きないルックが憎たらしくて嬉しくて好きで失くしたくなくてルック本人にすら嫉妬して。
(――やば)
臨界点を告げる下腹部に、結構シリアスな気持ちでルックを愛でていたアスフェルは、がばと身を翻しトイレへ駆け込んだ。
(俺って、真性ヘタレ?)
……早く気づけよ!
「って、思わず夢につっこんで目が覚めたっていう」
肩を竦めて締めくくり。
大人しく、いや珍しく顔色をころころ変えながら黙って聞いていたアスフェルは、最後の下りで身に覚えでもあるかのように頭を抱え込んだ。
酒場の椅子へ肘を突き、後頭部をすっぽり両手で覆って、言うべき言葉がひとつも見つからないらしくただ溜息を繋げて落とす。
シーナはちょっぴり同情した。
「ここまで来るとさ、リアルにも程があるっつうか、単に俺の夢じゃ片付かないと思わね? お前らの前世とか、お前らの未来とか、きっとどこかでお前らに関わる世界じゃないかって」
「……俺には……シーナの果てない妄想結果だとしか思えな……い」
くもない、を飲み込んでアスフェルが顔を上げる。
夢の中より弱りきった顔つきがあまりに三年前の軍主面とかけ離れていて新鮮だ。
シーナはヘタレた空気ごとからりと笑い飛ばした。
「お前、何で自分がそこまでダメージ受けてるか分かってんのか? もういい加減分かってんだろ?」
そうなのだ。
解放軍時代からけっこうあからさまにルックばかり見ていたアスフェルは、あれから三年経った今も熱烈な視線をルックのみに注いでいる。
なのにそれ以上踏み込む勇気がないのだ。
顔を合わせりゃ毎回喧嘩、どうもアスフェルの百発百中な努力はルックの前でだけ失効する様子。
だからかもしれないが、だからこそアスフェルにとってルックは特別なのだろうに、アスフェルは頑としてそれが友情より厚い気持ちであると認めたがらない。
いや、分かっているから目を逸らしているのだ。
気持ちに名前をつけた途端、抑えが利かなくなると分かっているから。
「アスフェルよう、我慢したっていいこたひとつもないぜ」
シーナはばしんとその背を叩いた。
「我慢……じゃないけれど……」
「じゃあお前、もうすぐこの戦争が終わることも分かってんのか? また三年空ける気か? いや、次の戦争がまた三年後でお前らふたりがまた会すとは、それこそ可能性の低い夢物語なんだぞ」
シーナは畳み掛けて諭してやる。
今しかチャンスがないかもしれない、これから一生後悔するかもしれない。
他人に指摘されればより焦りも増そう。
今こそお前が踏ん切りつけろ、そう言い切って、シーナはじっとアスフェルを待つ。
アスフェルは芯から情けない表情をした。
どうしていいか分からないと漆黒の瞳が雄弁に示し、何か言いかけては噤まれる唇に何度も噛み締めた歯形がうっすらついている。
(こいつ、こんな顔も持つんだ)
思えば昔からよく泣いてよく笑って、アスフェルは非常に情感豊かだった。
だから今までこんな顔を見せなかったのは、こんな苦しい片思いをしたことがないからなのだろう。
シーナはできるだけはっぱをかけてやる。
「俺も、一度は男とヤってもいいかなって。あいつが――ルックが相手ならな」
「……」
「真剣にへこむなよ」
「…………」
「逆ギレすんなって!」
アスフェルの瞳は表情に応じて色合いが変わる。
今も哀れっぽい鼠色から毒々しい紅蓮へと移った色彩へ、シーナはどうどうと手綱を取るように瞳を諌めた。
アスフェルは暫時シーナを睨んだものの、次には眼差しを和らげる。
「シーナのおかげで」
穏やかな声音だ。
にこりと笑んできたアスフェルへ、シーナは安堵しぱっと食らいついた。
「やる気が出たか?」
「ああ。おかげで俺も、ヤりたくなった」
「……冗談?」
「冗談」
アスフェルはきっちり口角を上方へ曲げて作りこんだ笑顔を形取る。
少しおだてりゃ途端にしっぺ返し、どこまで取扱危険物指定をさせりゃ気が済むんだ。
(……まぁ、うだうだと悩まれるよりは、ずっといい)
シーナは勢いよく席を立ち上がりざまアスフェルの胸元へ伝票を押し込んだ。
アスフェルがその腕を咄嗟に掴んでくる。
反撃か、と投げ技捻り技へ構えたシーナへ、アスフェルは腕を掴んだまま小さく笑んだ。
「ありがとう」
こざっぱりした、飾りのない声だ。
言いながら皺になった伝票をシーナの手から抜き取る。
あまりに無駄のない素顔を見せられて、シーナはしっかり固まった。
「……ああ、誰とヤりたくなったかって、もちろんシーナなんだけれど?」
「ッじょ」
「うん、冗談」
珍しく親愛の情を晒すアスフェルだ。
シーナはふらりと踵を返す。
ようやく離された腕を肩の上で振って、結局励まされたのは俺の方かもしれないと、シーナは早足で酒場を後にした。
アスフェルがついに告白するのは、これから数日後のことである。