アスフェルはマンションの最上階に住んでいる。
某財閥の傘下にある大手企業の代表取締役、兼、某最難関大学付属高校の理事長である父親に買い与えられたというわけではない。
学生時代に株で儲けたのを元手に自ら購入したものである。
最寄の快速停車駅まで車で十五分ほどの閑静な住宅街、七階建ての新築マンションは南向きの3LDK。
もちろんひとり暮らしではない。
「お早うございます」
いつも同じくらいの時間にエレベーターで乗り合わせる、真下の住人ゲオルグ=プライムへ、アスフェルは丁寧に頭を下げる。
ネクタイを締めながらエレベーターへ乗り込んできたゲオルグは精悍な表情を幾分ほころばせた。
「お早う、アスフェル君。今日は社用で御社に伺うんだが、帰りに一杯やらないか?」
「いいですね。社用というと、例のプロジェクトで?」
「ああ。うちでお引き受けすることになった」
ゲオルグの会社はアスフェルの父親であるテオ=マクドールと懇意にしており、いくつもの業務を提携している。
テオとゲオルグは互いに持ちつ持たれつの深い絆があるらしい。
「それから今日は新製品の最終調整会議にも参加させていただく。担当は細君殿とお聞きしたが」
「……一応。今日の会議は上司がいいとこ持ってくけど……あふ」
ゲオルグに話題を振られて、アスフェルの後ろにいたルックは欠伸をしながら頷いた。
ルックは朝に弱い。
ゲオルグに細君呼ばわりされても怒らないどころか、敬語を使うことすら失念するくらいだから相当だ。
近所付き合いをするようになってもう三年目になるゲオルグはそんなルックのこともよく知っているので、まだ瞼の開かないルックにわずか苦笑する。
「では、会議後にロビーで」
地下の駐車場まで共に降りて、エレベーターの開ボタンを押しつつアスフェルは軽く会釈した。
ゲオルグが手を振り返しながらBMWへ乗り込むのを見送る。
スーツのよく似合うゲオルグは、父に似ていかつくがっしりした頼りがいのある背中だ。
ただし父と異なり意外と繊細なところもあるゲオルグは食後のデザートに殊の外チーズケーキを好む。
アスフェルは早速チーズケーキの美味い店を脳裏でリストアップした。
「ルック、立ちながら寝ない!」
ふとぬくもりに振り返ればルックはアスフェルへ寄りかかっている。
放っておくとこの低血圧は本気で寝出す。
アスフェルはうとうとと微睡むルックを引っ張って車へ急いだ。
乗り物全般の苦手なルックは車に乗せさえすれば不機嫌ながらもとにかく起きはする。
そんなところも可愛くて仕方ない。
アスフェルはこっそり、ルックに目覚めのキスを捧げた。
普段は車で通勤する二人だが、新入社員の多いこの時期は主に電車で会社へ向かう。
将たるもの常に最下層を見ておけ、とは偉大なる父の訓言だ。
この場合なら会社内で最も地位の低い層、つまり新人や派遣社員、アルバイトの出勤を見ることで、仕事への意欲などを窺うわけである。
「アスフェルさーん、おはよーございまーす!」
満員電車の窮屈さの中、ルックへきちんと空いたところを確保しさらに自身が防御壁となったアスフェルへ、入社して二年目になるリツカがハムスターのようにもそもそと近づいてきた。
アスフェルとリツカはそうと見えないがたった二歳差。
高校時代からの旧友である。
「先輩、今年こそ役員昇格だと思ったのに」
「そう甘くはないよ」
「ぼく先輩が社長ならもっと張り切って残業しますよー?」
「それはいくら何でも嘘だろう。リツカに限って」
「てへへ、しっかり見抜かれてますか」
リツカは笑って首を竦めた。
常に定時、がリツカのモットーである。
小学校の教師をしている姉と二人で暮らしているリツカは姉のために家事全般を請け負っている。
そして姉の次に大切な幼馴染が九州勤務、本人曰くあくまでも親友であって断じて恋仲ではないが限りなく遠恋に近い状態で、リツカは暇さえあれば博多まで新幹線で往復しているらしい。
さらに娯楽を何より好む。
バイタリティーは人一倍のリツカである。
而してリツカは定時で帰れるよう異常な速度を以って仕事をこなすのだ。
しかも元来の愛想の良さから仕事さえきっちりできればお咎めなしの風土を部門内に築き上げた。
リツカは自部門の全員が残業するくらい忙しい時期でもさっさと帰るが、成績が落ちたことは一度もない。
まさに営業部門へ適した人材である。
「ルック、うちの部下をまたフったでしょー。泣いてたよー」
リツカはアスフェルの腕に匿われているルックの隣へ、ひょいと滑り込むように立ち位置をずらし話しかけた。
リツカはなぜかアスフェルと同じく二歳年上であるルックに敬語を使わない。
リツカの弁を借りると、「だってアスフェルさんは先輩だけどルックは友達だもん!」という理屈があるらしい。
ルックは先日の女性をぼんやり思い出そうとした。
どんなんだっけと首を捻る。
顔すらほとんど覚えちゃいない。
「だからあんたも分かってるなら止めてって」
「言っても聞かないんだもん。ふたりを見ればすぐ分かるのにねー」
「……分かっても困るんだけど……」
ルックはうんざり溜息を吐いた。
アスフェルとルックは中学二年生の二学期から交際すること足掛け九年、大学の卒業式でようやく双方の親から許可を得た。
現在は晴れて公認のお付き合いである。
ただし、どちらかというと修羅場だったのはルックの養い親の方で、養母レックナートはそれまでの九年間にありとあらゆる手でふたりの恋路を妨害し続けていた。
また、ルックに家業の一流呉服屋を継がせんと、ルックの意志など一切無視して電話線を切ったり郵便物をすべて焼却したりとせこい工作をやってくれたりもしたものだ。
理系のルックに接客は無理だと宥めすかし、それでも月に一度は手伝うからと血判まで押して、ルックはようやく魔女から解放されたのである。
どうせルックより先にあの養母が死ぬはずはなく、ならルックが家業を継ごうにもおそらく生涯現役のレックナートがいるうちはルックに出番などない。
これで良かったのだ。
そのあたりの事情もよく知っているリツカは気安くルックの肩に触れた。
「だからー、もっとオープンにいちゃつけばいいじゃん」
ちょっと社内名簿でも見ればふたりの住所が同じであることくらい誰にでも分かるのだが、交際の事実はなかなか社内に浸透しない。
一般的に考えてリツカのようにすとんと何の抵抗もなく受け入れる方が異常なのであろう。
アスフェルは機会のあるごとに意図的に噂をばらまいているが、羞恥心の遥かに勝るルックとしては広まっても困るし知られなくても困る。
すなわちルックはどちらにせよ不満が溜まるのである。
「あ、ロッテ! おはよー!」
リツカが次の駅で乗り込んできたロッテを目敏く見つけた。
ロッテは過密した車内を無理やり割って三人の隣に立つ。
アスフェル、ルックと同期に入社したロッテは今年で四年目、総務課の窓口としてすっかり貫禄がついた。
ロッテは猫友であるリツカの顔を見るなりおもむろに猫談義を開始する。
ルックが眠たそうに欠伸を噛み殺した。
アスフェルはそうっとルックを胸元へ引き寄せてやる。
油断なく目撃したリツカが口元へ小さな笑みを刷いた。
ルックは会社に着くなり湯を沸かす。
アスフェルとはフロアが異なるためビル入口のロビーで見つめあってしばしお別れだ。
ルックは開発部門に勤務している。
今は新しい携帯電話の開発が最優先業務だ。
どういうわけかこの部門には夜型の社員が多い。
よって三階フロアの朝は全体的に微睡んだ雰囲気である。
これを打破すべく、開発課最年少のルックはまず自分と皆のためにどぎついコーヒーを淹れるのが習慣になった。
自分を含め全員きちんと起きてもらわないと仕事にならないからである。
黒々どろどろした濃厚な液体を、ルックは机に突っ伏している皆へ配布した。
本人は気づいていないがルックは意外にも年配に可愛がられている。
実は皆ルックのモーニングコーヒーを楽しみにしているのだ。
「……すまんの」
「なら起きてよ、鬱陶しい」
しょぼついた目で上体を起こすクロウリー部長を、ルックはびしりとどやしつけた。
続いてメイザース、テンコウ、セルゲイ、ゲン、カマンドール、ジュッポと叩き起こして回る。
「……あー、マジ眠い」
「あんた今日会議って分かってんの? ゲオルグさん来るんだけど」
「分かってっよー」
ジュッポは冴えない顔つきで頬杖を突く。
どうせまた麻雀にでも負けたのだろう。
徹夜したらしい隈が見て取れるうえ、手がしきりに牌を触るような動きを繰り返している。
ルックはジュッポの机に散らかる書類をばさりと均した。
「一応あんたの顔を立ててあげるつもりだけど、昼休憩までにそれまとめなかったら僕が代わるからね、覚えときなよ」
「そりゃあ大変だー」
「こらこらルック、あんまり先輩を虐めるでないぞ」
口を挟んだ上司に向かって、ルックはぎりとメイザースを睨みつけた。
「あんたもだよ! とっととそれまとめてくれないと、全部僕がやるからね!」
フロアに和やかな笑いが広がる。
開発課は今日も平和に始業した。
「えー、ここですかぁー?」
「そう! ここ! 絶対動いちゃ駄目だからね!!」
「はぁい」
きつく念押しするアルバートにほんわか微笑んで、ビッキーは早速広々とした会議室内をぐるり一周した。
小学校で同じクラスだったルックが新しい携帯電話のCMに是非ともビッキーを使いたいと言ってきたらしい。
癒し系アイドルで年齢を十も誤魔化しているビッキーはほいほいと安請け合いした。
ビッキーが勝手に出演を決めてしまったのでマネージャーのアルバートはそれこそ身を削る思いでスケジュールを調整したのであるが、鈍感なビッキーにはつゆほども伝わっていない。
会議室に飾られた製品や額縁を見て回ると、方向音痴で有名なビッキーは今日こそ勝手に出歩いて迷わないよう大人しく椅子に座り直した。
今日は携帯電話の試作品をプレゼンするとのことである。
デザインの最終調整をする会議であるためこの段階でビッキーが来る必要はほぼまったくなかったが、ビッキーは単にルックの仕事ぶりを見たいという理由で強引に席を設けさせた。
アルバートは出入口の脇で忙しく電話をかけている。
「いや、だから、アンネリーの方は今……ええ、はい、そうです、それで……」
「売れっ子をふたりも掛け持つと大変だねー」
ビッキーは返事が返らないのを承知で呟いた。
暇潰しに長い毛先を指へ巻きつけ、枝毛がないか探してみたりする。
「この格好、もしかして派手かなぁ……?」
いくら春だからとはいえフリルの豪勢なキャミソール一枚にミニスカートは寒々しいか。
でも空調が効いてるしアイドルは可愛い方がいいよね、と己の下半身を見渡して、ビッキーは思わず呟いた。
「あ、伝線」
……嫌な予感が、する。
セラミック加工に関して随一の技術を誇るゲオルグは、ルックの説明に深く頷いてメモを取った。
凛と澄んだ声は聞き取りやすいし、内容にも説得力がある。
開発課の連中は喋り出すと皆長話になるのが玉に瑕だが、ルックは簡潔かつ明瞭に話すので非常に聴きやすいのだ。
予算は多少苦しけれど挑戦する価値は大いにあると判断して、ゲオルグは丁寧に発言した。
「今週中に仕上げてご覧に入れましょう」
「助かります」
ルックが儀礼的に微笑んだ。
ようやく社交術の片鱗を覚えたらしい。
些細なことでおかしくなって、ゲオルグは思わずくつりと笑う。
ビッキーが突然はぁいと挙手した。
「ピンクはないの? 私ピンクが好き」
女の子はピンクだとやたらめったら主張して天然アイドルはひとり満足そうに手を打った。
ルックが、あんたは黙ってなよ、と囁いている。
もちろんビッキーは歯牙にもかけない。
スパンコールだらけの派手な鞄をかき回し、ごてごてに装飾の施された自分の携帯を取り出した。
「あのね、これより濃いピンクがいいの」
「ございますよ。ここを自由にカスタマイズできます」
「わぁ、かわいい!」
ゲオルグが示すとビッキーは無邪気に喜んだ。
客の反応は技術者にとって何よりの褒美だ。
ビッキーにピーアールさせる新製品は、本人を目の前にするとやはりイメージを練りやすい。
今をときめくアイドルがちょこんと上座に収まっていた時はどうしようかと焦ったが――ゲオルグは破天荒なところのあるこの会社を割合気に入っている。
ルックがこちらへ謝辞のつもりか目配せしてきた。
ゲオルグは眼光を和らげることで応える。
会議は極めて円滑に進んだ。
アスフェルの仕事は代表取締役である父親の補佐である。
先達の背を見て学べ、とはテオの教育方針だ。
とはいえあの父親がそう簡単に息子だからというだけで会社を譲るわけはなく、つまりアスフェルは時期社長に内定しているわけではないので、一社員として広報部門にも属している。
一人で二人分の業務を行っているわけだ。
圧倒的な仕事量に残業こそ多いものの、ミスはほとんどしたことがないので、父の計らい通り社内の信頼を勝ち取るのに見事成功している。
書類に判子を捺印したところでぴりりと単調な電子音が鳴った。
アスフェルは優雅な仕草で二つ折りの携帯を開く。
「もしもし」
電話の相手は悪友だ。
政治家の父に似て人を束ねる才能があったのか、シーナはタレント活動の傍ら小さなアイドル事務所を立ち上げている。
アスフェルの会社とも親交が深く、特にアスフェルとシーナの個人的な交流に関しては幼稚園どころか実は産婦人科から未だに縁が切れない。
アスフェルとシーナは偶然にも同じ病院で産まれたのである。
『そっちにうちのが行ってるだろ? ビッキーが』
「ああ」
『あと三十分で特番の収録なんだ、ダブルブッキングしちまって』
「了解」
『悪りィ』
電話は用件のみで切れる。
不愉快なことにシーナとは阿吽の呼吸が通じる。
アスフェルはマットな質感の黒い携帯をぱちんと折りたたむなり席を立った。
課長席から机の間を通り抜けて部屋を出ると、長い廊下を足早に歩きながら携帯で巧みに五本の用件を済ます。
ついでに父親へメールで事情だけ知らせておいて、アスフェルは八階の会議室に向かった。
会議室の入口へアスフェルの姿を認めた途端、だいたいの事情を察したルックはさりげなく会議を切り上げる。
「詳しいことは、来週に。開発部長のクロウリーから改めてお話します」
ゲオルグ達が立ち上がって礼を寄越す。
ルックは後の締めをジュッポに示唆し、素早くアスフェルの元へ駆け寄った。
「ダブルブッキング」
「僕は電話でいいの?」
アスフェルとルックはシーナ以上にツーカーだ。
アスフェルが一言発しただけで、アスフェルがビッキーをTV局まで送るつもりでいること、さらにルックから先方へ謝罪した方が良いだろうということまで伝わってしまう。
ルックはじっとアスフェルの瞳を窺った。
「生放送じゃないみたいだからね」
アスフェルは穏やかに笑む。
責はこちらにあるわけではない。
だからわざわざ訪問してまで謝するに及ばない。
そうアスフェルの黒耀が述べるのを汲み取って、ルックはこくりと首を振った。
アスフェルはビッキーへ手招きする。
アルバートにはすでに会議室の外で話を通している。
彼の車ではこの時間だと渋滞に掴まるだろうから、アスフェルが会社のヘリで送ることになったのだ。
ビル屋上のヘリポートへはすでに手配を済ませており、後は操縦士の免許も持つアスフェルが運転席に乗り込むだけで発進できる。
ルックは手短にビッキーへ知らせた。
「こいつがヘリで送るから」
「ヘリコプター? 乗りたい! 乗りたい!!」
「アルバートをあんまり責めないでやって。僕が無理言ったのも悪いし」
「そうなの?」
「そうだから。じゃ、また」
ビッキーはいまいち分かっていない顔をしている。
あんたはそのままでいい、と言ってやるのも面倒で、ルックはおざなりに会話を切った。
よろしく、と念じアスフェルの腕に触れる。
それだけでアスフェルにはだいたい伝わる。
ルックは努めて淡白にすいと踵を返した。
アスフェルが戻ると、ルックはカマンドールを叱り飛ばしていた。
「だから、これは向こうにも渡すの。とっととFAXして、こっちに控えで一部」
「わしは事務向きじゃない!」
「だから僕が半分以上やったげてるだろ! これ終わったら好きなだけ作業室に篭っていいよ」
カマンドールは渋々書類を打ち出し始める。
ルックは続いてゲンに小言を垂れる。
「あんたも始末書くらい早く仕上げなよ! あんたが壊した備品だからね!」
アスフェルはつい噴き出した。
開発課は総じて研究熱心だ。
ただし研究にのみ高じ過ぎるきらいがある。
ゆえに、しっかり者のルックがちょうどよい監視役になっているのだ。
「何笑ってんのさ」
目敏いルックが扉横へ立つアスフェルを見つけるなりちくちく毒づいてくる。
アスフェルは軽く小首を傾げた。
「まるで先生だと思って」
「まったく保母の気分だよ……」
アスフェルの側までゆっくり歩いてきたルックは眉間に皺を寄せて深く息を吐く。
その溜息に紛れ込ませて、かすかに謝罪の声が聞こえた。
ルックにしては珍しい。
ストレートにごめんと告げてくる。
アスフェルは何でもないことのようにことさら明るく笑った。
「ルックのせいじゃないよ。アルバートとピコが日にちを勘違いしていたらしい」
「……そう」
初めにビッキーを誘ったのは自分だからと、ルックはかなり気に病んでいるようだ。
部内の皆にやたら刺々しいのもそのせいなのだろう。
クロウリーの促す視線をルックの肩越しに受けて、アスフェルはなるべく荒立てないようルックを励ました。
「今日は早めに帰ろうか。ゲオルグ氏ももうすぐ父様と打ち合わせが終わるみたいだし、ルックと三人で飲みたいって今朝言ってただろう」
「……そうだっけ」
「ルック、寝ぼけて聞いてなかったけどね」
ルックはふっと幼い表情を晒す。
アスフェルの前でのみ見せる、わずかな頼りなさだ。
ルックは嫌うその一瞬がアスフェルには心底愛おしい。
早くふたりきりになりたい、と喉元まで出かかったところへ、テンコウがいきなり大声を発した。
「次世代ゲーム機の概要書類、今日までじゃったか!」
正確には今日の午前中までである。
時計の短針は五の直前。
途端にルックが目をつり上げてテンコウを振り返った。
「先週末にもうできたって言ってたんじゃなかったの!?」
「いやぁ、誤字を直しておってなぁ……」
「そんなの二分でできるでしょ」
「誤字脱字が占めて八一三六箇所あってのぅ」
「……半分貸して」
ルックは青筋を浮かべながらテンコウの机へ急行した。
すんでのところで何かを逃したアスフェルが、宙に浮いた手を所在無くひらひらさせる。
クロウリーが苦笑いするのへ、アスフェルは腕を組んで憮然としてみせた。
チーズケーキの好評な店はすでに予約してあるからゲオルグの相手は父親に譲ろう。
どうせテオのことだ、たまにはふたりでと喜ぶだろう。
とりあえず開発課の皆に缶コーヒーでも差し入れするか。
(今日のルックは、ミルクティーかピーチジュースのどちらを喜ぶだろう)
どちらにせよ糖度の高いものがいい。
どうせ自分も残業する必要があるしと、暢気にアスフェルは扉を閉めた。
午後十一時。
誤字どころか書類の規格からして間違えていたテンコウの修正作業に追われて、ルックはその後ひとりで自分の仕事もこなしていた。
部門の皆は大好きな研究作業に入るなりさっさと帰宅するなりしてしまい、三階フロアはルックの机だけがぽつり卓上ライトを点している。
自身も山積みの仕事をようやく片付けたアスフェルは、今日はそろそろ切り上げようとルックのもとを訪れた。
「……あとちょっとだから」
ルックは仕事に没頭すると時間を忘れる。
アスフェルが帰ろうと声をかけても気の乗らない一言が返るのみ。
だだだとキーボードを打ちながら電卓を叩き、メモにびっしり計算式を書き留めて何事か思案している。
何だかんだ言いつつルックは仕事が好きなのだ。
多少嫉妬を覚えざるを得ない。
アスフェルは背後からルックの首元に手を伸ばした。
するり、ネクタイを解いてしまう。
「邪魔」
ルックは緩慢にアスフェルの手を振り払った。
アスフェルは構わずYシャツのボタンを上から外す。
キーボードを打つ音が次第に弱くなる。
にやり秀麗に微笑んで、アスフェルは途中までボタンを外すとその細い肩を抱きしめた。
肌蹴た白いYシャツよりなお透明に紡がれる、抜けるような真珠肌。
アスフェルの昨夜つけた跡が襟足の際にひとつある。
「ルック」
「だからあと三十分待ってって……ちょっと!」
乳首をやんわり弄られて、さすがにルックは後ろを振り向いた。
「こんなとこで何するのさこの万年発情馬鹿駄犬!!」
「じゃあ帰ろう?」
ルックはしばし躊躇する。
溜息を落とし、仕方ないと唇を尖らせる。
「……あと五分」
ルックにとっての妥協とは、アスフェルを最優先することと限りなく同義だ。
アスフェルはこの上ない笑顔でルックをふうわり抱きしめた。
アスフェルがネクタイの結び目に指を差し入れる。
就職祝いにルックの贈った黒いネクタイをしゅると半ばまで弛める。
スーツのボタンはすべて外して、Yシャツは首元だけ寛げた。
ルックはその胸元へきゅっと抱きつく。
クリーニングの匂いとアスフェルの匂い。
清潔で、男らしくて、どこかルックを安心させてくれる。
「ルック、可愛い」
アスフェルがだらしなく相好を崩した。
愛しいのはあんたの方だ、とルックは声に出さず訴える。
何でもできちゃうところも、それでも努力を惜しまないところも。
最善を尽くそうと挺身するところ、どこまでも重い責任をその双肩へ一手に引き受けようとするところ、ルックの前でだけ腑抜けになるところも。
何もかも。
全部。
「……アスフェル」
言えない言葉の代わり、愛する名を呼ぶ。
出せない態度の代わり、愛する者を呼ぶ。
世界はあんたを地軸にしている。
世界はあんたがいなければどんなに色褪せて見えるだろう。
僕の世界は、あんたさえいれば。
アスフェルは耳元で何か囁いた。
聞く間でもなく心へ届く。
「……僕も……」
アスフェルに煽られて思わず漏れる猥らな声の合間、ルックは吐息だけで同意を呟いた。
込み上げる快楽と愛情。
勝手に双眸を縁取る涙。
ルックは、渾身の力でアスフェルを掻き抱いた。
「……久しぶりに見たんだけどさ」
デュナン湖ほとりの都市同盟軍が本拠地、展望台。
気の済むまで喋りたくってシーナはようやく息を吐いた。
チャコとシドが食い入るようにシーナの話へ聞き入っている。
シーナご自慢の「異世界閲覧」能力である。
先に単なる夢だと種明かせば決まって馬鹿にされるので、もっともらしく聞こえるように「異世界閲覧」なる表現を使うことにしたらしい。
ブライトがきゅいと一声鳴いた。
「阿呆くさい」
仕方なく付き合っていたルックは不機嫌さを隠そうともせずシーナの夢を一蹴する。
本当にこのこまっしゃくれ魔法使いは、ひとの気持ちなんかこれっぽっちも汲んじゃいない。
どうせお前らのいちゃつく夢ばっかり見る俺が変態だとでも思ってるんだろ。
俺だって昔は悩んだんだ。
今はそれが見当外れでもなかったと分かっただけに楽しんで見ているが……くそう。
シーナは気を取り直すように首をうち振るった。
「今回のはな、お前らが二十六歳だったんだ。って俺もだけどよ。二十六だぜ、何つうか、そういうの安心するよな」
「何に? 全然意味が分からないんだけど。あんたついに脳味噌溶けたんじゃない?」
「だーかーらーなー! ……もういいや」
シーナは自身の本音を伝達することを諦めた。
三年前より少し背の伸びたルックは展望台の端にいる。
足を踏み外せば落ちそうな場所にも関わらず、ひどく気持ちよさそうに風と戯れている。
この、どこか生き急ぐように見えてならない風使いが、平凡でも満ち足りた未来を進むといい。
シーナはこの奇妙な夢シリーズを見るたびそう思うのだ。
願わくば夢の通りに早くふたりが引っつかないかと、シーナは一抹の期待を込めて熱心に語る。
「気になるのはやっぱさ」
「携帯だよね」
ルックが至極真面目な表情で声を割り込ませた。
「携帯電話って一体どんな物質なんだろう。アダリーに頼んだら作れるかな」
純粋に興味があるらしい。
ルックは遠くの相手と肉声で会話ができるという摩訶不思議な機器の仕組みについてぶつぶつ真剣に考察する。
動力源は電とついているから雷か。
雷の紋章をどう宿せばそんな効力が出るのだろう。
まったく、どうでもいいことでさえよく回る頭脳である。
シーナはこっそり肩を竦めた。
「あと、代表取締役っていうのも気になるよね。それに株って何だろう。よく分からないけど、もし普及したらこの世界の経済は大きく変革するよ、きっと」
シーナは呆れてルックを見遣った。
捻くれ者というか何と言うか、ルックは意外と丁寧にシーナの話を聞き込んでいたらしい。
アスフェルとのあれやそれやは蚊帳の外、聞きなれない単語をルックはひとしきりああだこうだと想像している。
ちょっと楽しそうだ。
シーナはチャコへにんまり笑みを向けた。
「あと少しでこの戦争も終わるな」
チャコは途端にぱあっと笑う。
戦争なんか、早く終わればいい。
皆が笑える未来が来るといい。
シーナはぼんやり雲を眺めた。
初冬の空は、まるでルックのようにきんと澄んでいた。