アスフェルはすぐに馬を使いたがる。
路銀の無駄だといくらたしなめても聞き入れる様子などない。
今日もアスフェルは上機嫌で栗毛の馬に跨り、ルックは戦々恐々としながらアスフェルの腰にしがみついている。
ルックは馬に限らず乗り物がそんなに好きではないのだ。
「ねえ、ルック」
上方に広がる青空を眺めていたアスフェルが、急に振り向いて朗らかな声を出した。
真夏の蝕むような暑さが、肌をざわめかせる冷気に取ってかわる季節。
色づき始めた広葉樹よりひときわ鮮やかな栗毛はふたりを乗せて草原を南下する。
桜の葉はすっかり赤茶色になって、けやきはまだくすんだ緑色。
足下ですすきの穂が風に揺れる。
アスフェルは振り向くと同時にだく足を弛めたので、つんのめりそうになってルックはぎゅっとアスフェルの背に顔を押しつけた。
「あんた、ほんっとに何遍言ったら理解できるわけ」
「全自動じゃないんだから、事物が常に一定速度で進むことこそ自然界の理を捻じ曲げてるよ」
「そういうのを屁理屈って言うの」
「まさかルックにその単語を向けられるとは思わなかったかな」
アスフェルは始終この上ない笑顔だ。
上体をひねって頬をルックの頭に擦りつけてくる。
「ルックにも移ってるね」
「あんたの腑抜けさが?」
「ひどいな。金木犀の匂い」
苦笑しつつ、アスフェルは鼻をひくつかせた。
ルックは頭をぱさりと振るう。
と、首元から橙色の花弁が転がり落ちた。
旅慣れたアスフェルはいつも街までの最短距離を進む。
だから時には獣道を通り抜けることもあるし、鬱蒼と茂る森を突っ切ることもある。
先ほど馬で走ってきた畦道は地元の村人しか使わないような細い裏道であったが、こざっぱりと整えられており、金木犀がきれいに並んで植わっていた。
きっとその香りが髪へ移ったのだろう。
(いい匂い……)
こんな時、ルックはいつも切ない気持ちになる。
それは例えば地図にも載らない道を示される時。
一時期転移ばかり用いていた自分と比べて、その頃の自分自身と比べて。
彼のうつくしさに、目が眩む。
アスフェルが足を動かす旅に拘るのは、アスフェルがどこまでもこの世界をいとしんでいるから。
五感で感じる世界を幸いと思っているからだ。
そんな彼だから、旅馬を借りるようになったのは最近のことだというのもルックは知っていた。
もちろんルックの体調に合わせるためだ。
馬車でなく馬なのはアスフェルの下心ゆえなれど、まだ右半身を充分動かせないルックにとって長く歩かずに済むのはありがたい。
しかしそれを素直に表せないのがルックのルックたる所以。
アスフェルに気遣われていると思えば反発はなおさらである。
ルックは頬を膨らませた。
アスフェルは片手で手綱を取り、空いた右手でルックをあやすように撫でる。
皮手袋に覆われた右手からも金木犀の香りが上る。
「金木犀の花言葉って知ってる?」
「知るわけ」
「ないよね、ルックが」
最近、アスフェルは答えを知りつつ聞いてくるようになった。
かつてのルックなら煩わしく思った問いもある。
昔は互いに相手の知識範囲がだいたい読めていたし、分かりきった質問をするのは時間の無駄だと思っていたから、互いに些細なことまでいちいち尋ねたりはしなかった。
だが再会してからのアスフェルはまるで十五年の空白を埋めるように何でも尋ねてくる。
そうやって今のルックをひとつひとつ確認してくれているのだ。
(嬉しいことは嬉しい、と思うけど……)
アスフェルの配慮はルックに気忙しさをも与える。
四六時中ルックに気を遣って疲れないのか、気を遣わせるルックはアスフェルの負担になっていまいか……。
ルックはまだアスフェルに全幅の信頼をおけない。
アスフェルはわざわざルックの思いを汲み取って合わせてくれているに過ぎない。
そう、例え今はすべて合わせてくれていても、いつ面倒になるか分からないだろうと思ってしまうのだ。
十五年も離れていれば互いに知らない部分が増え過ぎる。
おかげでルックの内に不安は絶えず巣食う。
心細い。
アスフェルはきっとそこまで見通して些細なことでも尋ねてくるに違いなかった。
そしてルックにはそれも引っかかってしまう。
アスフェルが全身でルックへの思慕を体現すべく細やかなところまで演出しているように思えてくるのだ。
まったく、つまらない不安だ。
グラスランドの争乱から二ヶ月。
暦は神無月に入り、ルックの心境はだいぶ落ち着いてきている。
背中から伝わる体温はあたたかい。
馬が揺れたせいにして、ルックはこそり、額をアスフェルにくっつける。
(……好き)
アスフェルの限りない優しさと愛情に包まれて、ルックはようやく、この熱とともに支え合いともに生きてゆこうと、少しの劣等感もなく思えるようになった。
それでも相手のすべては決してルックに伺い知ることができない。
どんなに想っていても他人は他人、いくら肉体の隔たりを埋めようと精神は溶け合うことなどないのだ。
アスフェルは何度も言ってくれる。
アスフェルの命はルックのためだと、いつだって真っ直ぐに。
でもルックは易々と鵜呑みにできない。
信じきるのは怖い。
どうしたって相手の真意がどこにあるか探り続けるし、すべてを自分に都合の良い方へ盲信することはルックにできるはずがないのだ。
だからもっとアスフェルのことを知りたい。
もっとたくさん他愛ない会話を紡いで、もっとたくさんアスフェルのことを知りたい。
知らないところがなくなるまで知りたい。
あと一歩、躊躇う心が完全にアスフェルへ傾倒するまで、ずくずくと埋もれこむまで。
(……馬鹿らしい)
ルックは目を伏せた。
それこそただの依存だ。
互いにひとり立ち、互いにひとり目標を定めることで、重なるふたりの力はふたり以上の成果をもたらす。
そんなこと、分かっている。
「ルック。花言葉はね」
アスフェルはそっと囁いた。
ルックの気分を敏感に嗅ぎ取ったらしい。
馬は並足からやがて静止、広がる草原、広がる青空。
アスフェルはルックの肩を包みこむ。
「謙遜、真実。――ルック、俺もきっと、ルックと同じ不安を抱えている」
ほら、やっぱり。
ルックのことばかり気に掛けてルックのためにルックの欲しいものばかり集めてきて、欲しい言葉はすぐにくれて。
「そうやって、あんたが僕のところまで下りてくるのが嫌なんだ」
ルックは呟いた。
依存したい、信頼したい。
でもいちばん強く願うのは、アスフェルと対等の立場で、同じ目線で生きてゆくことだ。
これからルックは何度生に飽くか知れないし何度道を誤るか知れない。
だがそのたび助けてもらいたいとは、ただの一度だって望んだことがないのだ。
(あんたにつりあう、人間になりたい)
すとんと言葉はこぼれ出て、ルックはずっと自分がそう考えていたのだと、何度も同じ言葉を唱えていたのだと、今になって気が付いた。
灼けつくような苦しみの中でも、百万もの憎悪を浴びても。
ルックはずっと、そればかり願っていたのだ。
「声に出さないと、思考はすぐ消えてしまう」
アスフェルはルックの耳朶に唇を寄せる。
「だから俺は何度でも同じことを言うよ。ねえルック、ルックのことだけを、俺はいちばん大切に想っている」
アスフェルの声は染み透る。
ルックが今欲しいと望んだ言葉をアスフェルはまさに今具現化する。
(でも、それは真実?)
ルックは金木犀を求めた。
アスフェルの首筋に顔を埋める。
真実かどうか見定めたい。
アスフェルを信じたい。
違う、そうじゃない。
――アスフェルにだけは、負けたく、ない。
ルックは腕を突っ張った。
「僕にとってのあんたは何番目だと思う? ……アスフェル」
アスフェルのぬくもりから自分を引き剥がして、ルックは目を閃かせた。
たったひとつ、かけがえのない名を呼ぶ。
(僕だって)
欲しがるばかりが愛ではない。
ルックにも、確かにアスフェルへ届けたい想いがある。
言葉にするには、ルックの内に邪魔がありすぎて、普段なかなか出てこないけれど。
きっとアスフェルにもらうばかりだから苦しいのだ。
今こそどうにか片鱗だけでも贈りたいとルックは試行錯誤する。
名前の端に、眦の隅に、想いを乗せる。
でもアスフェルにはこれが真実かどうかなんて永遠に分からないだろう。
ルックだってアスフェルのことが分からないのだから、逆もまた然り。
ただアスフェルはルックが見せる小さな合図を目敏く見出し、おそらく真実だと推定して、論拠としてルックのすべてを信じてくれているのだ。
「少なくとも、最下位ではない……と思っているけれど」
アスフェルは煮え切らない返答を寄越した。
ぎゅっと、ルックを抱く腕の力が強くなる。
何だかひどくかわいらしい。
アスフェルの意外な一面だ。
「最下位かもしれないよ」
「……っ嫌いな人ランキングの?」
アスフェルが困り果てて切り返すのへ、ルックは思わず失笑した。
肺に気を満たせば藁束の香りが胸に清々しい。
芳風は秋の訪れを歓び酔い痴れる。
ルックは答えの代わりに風を天へ巻き上げた。
木の葉の協奏。
昔のアスフェル以上に危なっかしい制御だからか、思わず力が入りすぎた。
すすきの種子が舞い散る。
ルックの羽織ったマントがめくれ上がる。
翻る黒布越し、飛んでいかないようにと捕まえられて。
ルックはやんわり、口づけを受けた。
「……で?」
「……失ったものランキング」
「可愛げがないな。そのひねくれたところも好きだけどね」
アスフェルが笑う。
ルックのいちばん好きな顔だ。
ルックはきつくしがみつき、泣きたい気持ちで感受した。