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パラレル受験生
20060208-0315

ルックは黒ずくめの服を身にまとっている。
詰襟という単語が頭に浮かぶ。
そうだ、制服を着ているんだ。
今日はいよいよ本命校の受験日。
筆記試験は落ちる気がしないが、面接だけはどうにも厄介なのである。
とりあえず前日にクリーニングから返ってきたばかりの皺ひとつない学ランで少しでも点数を稼がなければならない。
ルックには愛想笑いなど到底不可能であり、さらには中学生らしい初々しさも持ち合わせておらず、将来の夢はといえば「家業を継ぐこと」。
これは夢でなく決定事項である。
だから重厚な茶褐色に統一された校舎が近づくにつれ憂鬱になるのは仕方のないことで、さらに後ろから聞きなじみのある大統領子息の声がすれば機嫌は下降の一途を辿らざるを得ない。
「よ、ルック。相変わらず朝っぱらからつんけんしてるなオイ」
「うるさいよ猿頭」
いつから我国は大統領制に移行したんだったか――何かを思い出しかけてふと気づく。
シーナは大統領ではなくて総理大臣のドラ息子だ。
もう三期も続いている支持率の高い内閣で、尻馬に乗って芸能界デビューを果たしたこいつは何もせずとも合格確実である。
気楽なやつほど鼻持ちならなく思えるのは世の常で、ルックはシーナの脛を軽く蹴った。
「うおっ、DV!?」
「八つ当たりだよ」
「恋人間の暴力はデートDVって言うんだぜ、デート中に暴行するって意味じゃなくってさ」
「そもそも僕らがドメスティックっていう前提、そろそろ撤回してもらわないと堪忍袋が破れそうなんだけど」
「へぇへぇ」
「俺も忍耐の限界だな」
「さよですか、――って、ええっ!?」
するりと割り込んだ秀麗な面構えとほろ甘いテノールに、シーナは素っ頓狂な声をあげた。
学ランすらも気品のある着こなしでルックとシーナの間に肢体を滑り込ませたのは、言わずと知れた校内一の大金持ち、アスフェル御曹司である。
シーナは目を白黒させてアスフェルを指差した。
「お前、何でこんなトコ受けんだよ」
「愛の悪戯」
ルックが察知して阻む前にアスフェルはさらりと言い切ってしまう。
頭を抱えるルックをよそに、三六〇度どこからみても欠点のない造作でアスフェルは笑んだ。
ルックの受験校は決して偏差値の低い高校というわけではない。
しかし最高峰かというとそれほどでもない。
アスフェルの父親は某財閥の傘下にある大手企業の代表取締役、兼、某最難関大学付属高校の理事長だ。
アスフェルは望みさえすればわざわざ入学試験を受ける必要からしてないわけである。
また、例え律儀に試験を受けたとしても、アスフェルの能力で合格できない高校はないと断言できる。
アスフェルは顔だけでなく頭も良いのだ。
それがこんな中堅高校を受験しようというのだから、シーナが驚くのも当たり前。
では何故ここにいるかというと、本人の供述にもあるように、恋人と離れがたかったからに他ならない。
「あー、愛されてんなー」
何やら一抹の同情を滲ませつつ、シーナはさもありなんと頷いた。
納得しないで欲しいんだけど!
……と声を大にして言いたいルックである。
(だって好きとか愛とかって、本人にだけ言うものなんじゃないの?)
ルックは今どき珍しく堅い家庭環境で、古風な躾を施されている。
アスフェルにはそこがまたかわいくて仕方ないのであろうが、ルックとしては、ならもう少しこちらの倫理観も尊重して欲しいのだ。
ふたりは確かにいろんなことまで致しちゃってる関係ではあるが、ルックの常識に照らすと、これは公にするような類の関わり方ではないはずである。
だがアスフェルが意気揚々と自慢したがる。
さすれば止める術などルックにはない。
いや、すでに、どうか内密にと何度頼んだか知れないくらいなのだ。
懇願を、むしろルックの場合脅迫に近かったのだが、それを素直に聞き入れてくれるような恋人ならここまで歯噛みしたり諦観したりはしないで済んだのである。
ルックは来たるべき面接に心を戻して羞恥に耐える。
せめて仏頂面くらいは何とかしなければ。
アスフェルは確実に合格するのだから、ルックも一緒に合格しないと意味がない。
ルックだってアスフェルと同じ高校へ行きたくないわけではないのだ。
「ルック」
眉間に皺を寄せたところへアスフェルの声が手の平とともに降ってきて、ルックはやんわり両眼を覆われた。
アスフェルは体格の割に手が大きく、そしていつもあたたかい。
思わず瞼を閉じてしまうのはルックの条件反射だ。
知ってか知らずか、その隙に空いた片手が肩に回され、ちょんと唇に軽く触れられる。
「おまじない」
アスフェルは優美なしぐさで眼前の手を裏返した。
ひらとよぎる指先の向こうに受験校の正門が見える。
「……!!!!!」
ルックは憤慨した。
闇の中受けた接吻は、泣きたくなるくらいただ穏やかだ。
ルックはもうアスフェルのことしか考えられなくなる。
「こ……公衆の面前とかTPOとかあんたには耳にたこが鈴なりになるくらい説明したと思うけど!!!」
「でも安心しただろう? 大丈夫だよ、ルック」
「あんたのせいで……っ」
「大丈夫。ルックのしっかりものなところとか優しいところとか、面接官にはきちんと伝わるから。……うーん、あんまり伝わっても困るな、どうしよう」
どうすればいいだろう、シーナ?
突然話を振られて、生キスシーンに固まっていた俺は――





「……って夢を見たんだよな」
「何で僕の視点なわけ?」
トラン湖城の朝食時間。
夢の一人称にまでいちゃもんつけんなよ、とシーナがトーストをかじって拗ねる。
小さなくるみパン一口だけで手を休めてしまったルックは、飲みきれないオレンジジュースの氷をストローでかき回した。
「それより問題はだな、お前らがデキてたってこともあるが、時代どころか次元が違う世界だったってこともあるが、起きたらベッドから思い切り落ちてたってこともまぁ置いといて、要するに俺は夢の中でまでお前らに虐げられるんだなっていう」
「シーナの本質ってことじゃないの」
「ルック……最近毒舌に磨きがかかってねぇか?」
「僕としては、僕の家庭環境だのの設定が甚だ不服なんだけど」
「だから夢だっつうの!」
シーナはヒステリックに、どこか喜劇的に叫んでみせた。
食堂の視線が集まるのを覚ってルックは溜息を吐く。
すると俯いた頭の上、旋毛あたりにふふと芳香がかかった。
「夢占いなら私得意よ……」
通りがかったジーンが圧倒的な質感の乳房を寄せるようにして会話に加わってきた。
シーナはとたんに鼻の下を伸ばす。
興味のないルックは視線を落としたままジュースの氷をつつき続けた。
「まず、夢の世界観はあなたの技スキルを表しているわ……。次に……」
ジーンは明らかに嘘臭いことを言い始めた。
(馬鹿らしい)
しかしシーナは割と真に受けているようだ。
青ざめたり苦々しい顔をしたりと忙しそうである。
ルックはさっさと席を立った。

馬鹿らしい。
「馬鹿らしいよ……あいつと恋人なんて」
ことさら厳しく、自戒のごとく口に出してみる。
シーナの脳内捏造とはいえ、どこか甘美な響きを持ったその夢は、まったく不愉快だとはどうしても言い切れなかった。
(もし僕が同じ夢を見たらどう思うんだろう……)
アスフェルと愛を共有しているのだ。
もしかしたら、それは今まで夢想したどんな絵空事よりも幸福な夢かもしれない。
そういえば総理大臣って何だろう、と思考が逸れて、結局シーナの夢はルックの記憶に残らず消えた。
まさか本当にルックが彼を恋しく思う日が来るなどと、ルック自身も予期し得なかったのである。


典型的な学園パラレル夢オチ付き。1時代終盤という無駄な設定が…。










パラレル入学式
20060208-0315

えー、この満開の桜のもと、といってもいささか曇り空ではありますが、えー、それを補って尚余りある若さと活気に満ち溢れた皆さんは、えー、今日から、あー、新しい世界を体験するわけでして、えー、ですから、えー、正義と秩序を守り、友愛と勉学に勤しみ、三年間の健やかな高校生活を送っていただきたいと、えー、えー、……。
「結構長いのな」
「黙りなよ」
全員気をつけのところを真新しいブレザーの制服同様だらしなく崩しているのは、特別推薦枠という名の七光で合格したシーナ。
背中をつつかれてむっとした顔を返すのは、筆記試験を第二位の成績で突破し授業料半額免除を勝ち取ったルックである。
ちなみに総合成績第一位のアスフェルは宣誓のため前方に待機しており、結局高校でもめでたく同じクラスに固まることとなった悪目立ちトリオは早速衆目を浴びているわけであった。
「俺今夜も仕事なんだよ、ラジオ生放送」
「高校がどうとか余計なことぺらぺらしゃべったらしばくからね」
「今朝雑誌に載ってたっつうの、手遅れだよ今さら」
「あんたたちといるとロクなことがない……」
さりげなく恋人も対象に含めて、ルックは今年だけで何百回目になるかわからない溜息を吐く。
ブレザーは濃いモスグリーンの落ち着いた三つボタンで、男子は金と茶のストライプネクタイ、女子は同じ配色のリボンを首元に結ぶ。
女子のスカートはグレーを基調としたチェックのプリーツ、男子は同じ模様のズボン。
ソックスは自由、鞄も自由、茶色のローファーは某有名ブランドだ。
詩琉芭馬倶高校は制服のデザインも好評らしい。
少しサイズの余るブレザーを憎らしく思いながら、ルックは最前列に立つ恋人を盗み見た。
アスフェルは何を着ても似合う。
昨日彼の自室で制服プレイをしたばかりなのだが、やはりアスフェルは目立つところに堂々と立つのが一番ふさわしい。
同時にどどっと余計な痴態まで思い出して赤らんだルックへ冷水をかけるように、シーナの声がタイミングよく耳を打った。
「お、宣誓が始まるんじゃねぇか」
「……言われなくてもわかるよ」
演壇ではようやく校長の長い式辞が終わったところであった。
朗々と流れるアスフェルの声をルックは好んでいる。
昨日も何だかんだと文句を言いつつ自分の前でだけ宣誓を披露してもらったのだ。
今からこの体育館いっぱいに彼の声が響く。
独占欲は湧かないでもないが、今は期待の方が上回っている。
(また三年間、一緒にいられるんだ……)
ルックの胸は高鳴った。





「……何で俺、こんな夢ばっか見るんだと思う?」
「性癖だろう」
トラン湖城、夕食時間。
贅沢にも周りがあくせく働いている間図書館に隠れて午睡を楽しんだらしいシーナへ、アスフェルはにべもない一言を投じた。
この若年軍主は朝から晩まで歩兵訓練の陣頭に立って疲れきっているはずである。
それでも疲労などおくびにも出さないで優雅にワインを傾ける様は確かに立派だ。
そしてその分口が悪くなるのだ、俺が嫌われているからだけではあるまい、とシーナは鶏肉を切り分けた。
「アスフェルよぅ、お前それルック以上の暴言だぞ」
「禁欲的な衣装での妄想プレイがお好みなシーナ君は事実を指摘されると俺に転嫁して逃れるようで。態度だけでなく性根も軽いな」
「……前半は俺の夢の中のお前が、だ」
シーナはフォークごと肉を噛んだ。
いくら席が足りないからとはいえアスフェルと相席したことを悔やみ始めているのである。
シーナを苛む一連の夢は、あらすじがよくある恋愛小説に酷似しているように思われる。
だからこの不思議な夢シリーズは決してシーナの願望ではなく、たまたまいつか読んだ本の内容が脳をよぎっただけであろう、と思いたい。
しかしキャスティングが問題なのだ。
どうしてルックがヒロイン役なのだろう……しかもきっちり男のままで。
アスフェルの言うとおり、シーナの嗜好は相当歪んでいるのかもしれない。
シーナは恨めしげにアスフェルを見た。
「じゃあ何で相手がお前かってのもあるんだよな」
ジーンの夢占いによれば、いつも気になって仕方のない相手が投影されているのだという。
ルックはジーンにからかわれただけだと馬鹿にしていたが、ジーンの言葉は目の前の軍主よりよほど信憑性があるのだ。
そういえば夢の中でもアスフェルはやたら格好良かった。
むしろ嫌いな部類に入れたいはずなのに、もしかして本当は。
「まさかな! んなことねーよな!!」
「食事中に騒がしい……レパントは飼い犬の躾がなってないな」
「ペットじゃねっつの!」
「そうだったかな」
うそぶいてスープを飲んだアスフェルを、シーナはこっそり、しかし入念に観察する。
シーナは基本的に目のきれいな女が好みだ。
理知的な光が垣間見えればさらに良い。
前髪は目にかかるくらいで、喉が白くて、唇を舌で舐めるしぐさが――。
(……全部、当てはまる……)
シーナは激しく落ち込んだ。
一応アップルにもすべて当てはまるのだが、それに気づくのは悲しいかな三年後である。
その夜シーナは悶々と悩んだ。


シルバーバーグ高校の進路指導はエレノア鬼先生です。










パラレル学園祭
(ブログより)

「どう? 似合う?」
くるりと一回転して真紅の振袖をひけらかすのは、相変わらず何を着てもひとかたならぬ出来栄えを誇るアスフェル御曹司。
花吹雪と牛車が描かれた振袖は随所に散らばる金色が目の覚めるような美しさで、もはやレンタルとは思えない高級感である。
よって、表情だけで一流を醸し出すことのできるアスフェルの顔立ちに化粧という装いは必要ない。
だがそれを自覚しつつも悪ノリしてみたらしい薔薇色の口紅が、まるでアスフェルを引き立たせるために作られた製品のごとく匂いたっていた。
「似合うとかじゃねぇよお前……」
アスフェルの正面で床へしゃがみこんで頭を抱えるのは、ついにゴールデン司会枠を獲得した急上昇マルチタレントことシーナ。
売れっ子ながら無遅刻無欠席で毎日元気よく高校へ通っているのは学業優先を父親に言い渡された故である。
学園祭に演劇なんて項目を入れたのはどこのどいつだ、と口中でぼやくシーナの悲哀を寸分違わず的確に読み取って、アスフェルは実に妖艶な笑みをその淫らな口許へ刷いた。
「というより、配役がマッシュ先生らしい周到さだな」
担任教師の執筆した脚本は、端的に述べると、さまざまな問題に直面しては心に飼う善と悪の狭間で葛藤する若き男の一生。
現代社会を反映したといえば聞こえはいいが、要はいかにもよくある陳腐な内容である。
「何で主役になっちまったんだ俺……」
「客寄せ」
「お前なぁ、幼稚園の頃からずっとだけどよ、俺に対して、も少し棘のない言い方はできんのか?」
「それは俺にシーナへ好感情を持てと言うのと同じだな。最大限善処しよう」
アスフェルは何事にも前向きである。
そのポジティブさが今回の事態を引き起こしたわけであるが、本人が俄然楽しんでいるためシーナには据えてやる灸もない。
今回だってアスフェルが半ば進んでこの衣装を着始めたのだ。
本番はこの格好で髪を結わえ上げ、根元にコウモリの羽をあしらうという。
完璧な悪魔役である。
誰かこの視覚効果を百二十パーセント以上理解していて尚こういうあくどいことをしでかすお茶目な坊ちゃんをとめてくれ。
シーナはひとしきり落ち込んで、されどすぐにきりりと持ち直した。
楽天的過ぎるのがシーナの長所だ。
さて練習と、真紅の友禅を見ないように立ち上がった。
その時、がらり、扉の開く音。
「ねぇ、これ歩きにくいんだけど」
ロッテがヒックスへ熱心に演技指導をしている傍、立て付けの良くない教室の扉をよろよろと引いて、ぎくしゃくした足取りで入ってきたのは衣装合わせを終えた天使役。
ルックの姿に、シーナは目を奪われた。
ゆるく波打つ金髪は腰までとどき、膝丈のワンピースはふわり広がる純白。
睨まれた覚えしかないきつい瞳は、長い睫毛が綺麗にカールされてとたんに毒気を抜かれたようだ。
不健康そうな薄い唇には淡い桃色のグロスが乗せられ、胸の辺りは大きめのコサージュが白い花を咲かせているため都合よく性別の判断がつかない。
足元は背中に小さく生えているのとお揃いの羽で飾られたミュールだ。
そう高くもないヒールでさえ相当不安定らしく、まるで忍者のように抜き足差し足、慎重に一歩ずつ足を出している。
「ああ、もう嫌。痛い」
投げやりに言うや否や、ルックはぽいとミュールを放り出した。
裸足でぺたりと降り立った床が、さながら楽園へ続く花畑に見えて、シーナは思わず目をこする。
「……気合い、入れすぎじゃね?」
ようやっとそれだけ口にすれば、ルックはつんと唇を尖らせた。
「シルビナに言って。三日後の本番は一日中ずっとこのままってだけでうんざりしてるんだから。足、擦り剥けそう」
「……そういう問題じゃないんだけどな……」
シーナは眩暈を覚えた。
何故シーナがここまで落ち込んでいるかというと、自他共に認める無類の女性愛好家として、この二人が女装すれば間違いなくそんじょそこらの女どもより数倍は魅力的に違いないととっくに予見できていたからである。
そして期待を裏切ってくれぬ二人の仕上がりにどうしようもなく早鐘を打つこの心臓。
シーナにとってはこの上なく自己嫌悪の対象だ。
ルックが足元を不快げに見下ろすたびカツラとは思えないブロンドが儚く揺れて、これが本当の女だったら、いやルックじゃなかったら、うっかり口説きにかかっていてもおかしくはないかもしれないのだ。
(俺って、見た目さえよけりゃ誰でもいいのか……?)
シーナはフェミニストになりたいのであって女好きになりたいのではない。
責任転嫁しようにも片や無自覚、他方は分かりきっての演出だから、結局惑わされるだけ己の愚かたる証明にしかならない。
そういえばアスフェルはこれを見てどうなんだ、と突然思い至り、シーナはそっとアスフェルへ視線を移した。
「……」
アスフェルは、憑き物の剥がれたような顔をしていた。
本来なら演技であってもそうでなくても感情表現の豊かなアスフェルが、ここまで素顔を晒している。
ただ一心不乱にルックだけを映す漆黒の瞳はこころなしか潤んでいて、真紅の振袖は小悪魔から清純な少女のまとうそれに変容した。
見ていられなくなってルックを振り返ると、ルックはようやく顔をあげたところで、アスフェルを下から上までまじまじ見つめるなり一気に頬を染め上げる。
穢れを知らぬ天使が真っ逆さまに地へ落ちたようなギャップである。
互いにしばらく見つめあい、しん、と教室が静まり返ること数十秒。
「……ええと、通訳しましょかね」
教室中の視線に向けて、どうやら互いに一目惚れし直したみたいです、と説明するのは、結局二人の幸いを望むシーナにとって少し惜しい気もしたのだった。








「……俺、精神科行った方がいいですかね……?」
トラン湖城、草木も眠る丑三つ時。
リュウカンを叩き起こしたシーナは、何がショックかってこの夢のせいだとは思いたくないが夢精していた、と涙ながらにひとしきり訴えた。
リュウカンの専門は薬学であって、精神分析は管轄外だ。
深夜に起こされた恨みは少年のかわいらしい悩みで帳消しにするとして、いくらリュウカンでも不可解な夢の診断まではしてやれない。
だから尤もらしく慰めた後、一週間分の白い粉末を手渡した。
「ストレスがたまりすぎて奇妙な夢を見ることがあるから、これを就寝前に飲みなされ」
……小麦粉である。
病は気から。シーナならこれで治るだろう。
果たしてリュウカンの読みは正しく、シーナは薬を見ただけで気を直した。
「ちょっと風にあたってから寝ます。ありがとっした!」
安心しきった顔で深夜の非礼を詫びる単細胞少年に、リュウカンは懐かしい青春の思い出を去来させたのであった。



粉薬を飲んでみる。
パサパサして飲みにくいが、水で流し込めばほどなくすっきりした感覚が得られた。
これはなかなか効力がありそうだ。
シーナは本館からレパント親子にあてがわれた離れまで真っ直ぐ戻らず、西塔へと足を向けた。
月が西方にあったからである。
夜目ならあのけばけばしい庭園も闇の帳に覆われるから、花の香りに包まれながらひとり月見と洒落込めそうだ。
風流に違いない。
酒類のないのは物足りないが、今宵の十六夜はそれ以上の価値がある。
西塔へ続く陸橋に足を踏み出し――シーナは慌てて柱の影に身を隠した。
話し声がするのである。
聞き覚えのある優美なテノールと、いつになく嫌味のない澄んだ声だ。
シーナは顔だけ突き出した。
人影がふたつ。
湖へ足を投げ出して座るふたりを包むように、透明な泡がいくつも舞っている。
泡は、橙や紺や月の色、その他幻想的なあらゆる色に煌いて弾け消えた。
それはしゃぼん玉であった。
ルックの吹くストローからは小さなしゃぼん玉がたくさんこぼれ出ている。
アスフェルはストローを繊細に扱って大きいしゃぼん玉をひとつずつぷかぷか浮かべていた。
「だから、フリックの騎馬隊が防御力低すぎ」
「それなりの装備はさせてるよ。布陣も防御重視にしている。あれは運がなさすぎるんだ」
「あいつらのせいで土の魔法をいくらかけても足りないじゃない」
「そういえばルック、クロウリーが主将になってから明らかに手を抜いてるだろう」
「悪い?」
「せめて悪びれるくらいしたら?」
「あんたの前では意味がないよ」
話しているのは相変わらず戦争談義のようだ。
手元に書類が散らばっているのも見受けられる。
だが、しゃぼん玉とともにゆったり流れるのは血生臭い話題へおよそそぐわない和やかな空気。
話しながらも球体の浮遊が途切れることはなく、月光に反射してはいくつもの虹世界がそれぞれの小宇宙を形作る。
ルックがゆるく風を巡らせた。
しゃぼん玉は寄り添い離れ合い、自由に夜空を彷徨する。
無意識なのだろう、ごくささやかに笑んでいたアスフェルが、慎重な手つきで大きなしゃぼん玉を吹いた。
ルックがそっとストローを差し入れ、中に小さなプリズムを詰め込む。
やがてふわりと飛翔したしゃぼん玉は、寛大な世界にたくさんの虹の欠片を抱いて泳いだ。
(……綺麗だ)
シーナの胸は締め付けられる。
ふたりを繋ぐ何か透明な、されど芯の通ったものが見えた気がしたのだ。
それは意外と脆いのかもしれないし、シーナが肉親や友人やその他多くのものに寄せる感情のどれよりも遠いのかもしれない。
シーナの人生観は快く楽天的だ。
ひととはいずれ死ぬもので、愛情も富も経験も含めて死ぬまでにどれだけたくさんのものを得るかが人生なのだと思っている。
だから楽なことや楽しいことを追い求めるこそ人生の醍醐味であり、義務責任は人生の拘束具に過ぎない。
でも普通に生きるだけなら、強がったり縋ったり、誰かと歩調を合わせてばかりだったり独り善がりばかりでいたら、こんな神聖な絹糸を結ぶことなどきっとできないのだ。
または憎しみや悲しみや、苦しみ、渇望、慟哭、我慢、どれも努めて忘れるように感じないようにとするものをいちいち真正面から受け止め続けたら、その先にわずか見えるのかもしれない。
シーナとまったく異なる環境下、異なる考え方で育ったあのふたりは、シーナには持ち得ない何かを確実に守っていた。
(綺麗だ)
シーナは、そんな得がたい何かが己の可視範囲に在ることへ感動したのだ。
人生とは選択の連続だから、シーナが良かれと思って選んだ道をもし選ばなければ、そこには少なくとも今と違った出会いがあったはずである。
一度きりの短い人生だから、選ばなかったものや決して手に入れることのできなくなったものが必ずあるのだ。
シーナは己がそれを持たぬことを悪いことだとは考えていないが、できることなら、いったいそれがどんなものなのか知りたいとは思っている。
それこそ人間交流の本質であり、遊学と称してシーナが求め続けたものなのかもしれない。

シーナは北塔へ戻った。
知らず鼻歌が漏れた。
月に照らされて連絡橋を歩くうちに、夢の続きも気にならなくなってくる。
「これも人生の面白み、かね」
どうせなら思い切り楽しもう。
シーナは楽天家らしく、せっかくリュウカンに処方してもらった粉薬を、一気に湖畔へと吹き散らしてしまったのだった。
小麦粉は、あのしゃぼん玉のように夜空へ掻き消えた。


ブログ2/22内にこっそり埋め込んだおまけでございます。