ルックはそっと奥の通路へ踏み込む。
人に聞くのは躊躇われ、かといっていつまでも為さないわけにもいかない。
石版前からずっと監視していた入口、人が途切れたところを見計らって、ルックはまるで秘境を探検する冒険家のような心持ちで慎重に歩を進めた。
三階南端、細い廊下。
入口の扉が開くたびちらりと見えていた通路は、想像と違って意外に明るく健康的である。
先はすぐに突き当たり、立ちはだかるは左右へ分かれる丁字路だ。
目印はそれぞれ赤と青。
書物の記憶を紐解いて、逡巡の末、青いパネルに示される右側を選ぶ。
やがて数歩も行かないうちに、いくつかの衝立で仕切られた場所へ出た。
(広い……)
石造りだった通路はがらりと様相を変え、きれいな青いタイルが敷き詰められている。
ルックは緊張に我を忘れて立ち尽くした。
ぎゅっと、己を鼓舞するように拳を握る。
実はここからが本題だ。
細長い白い陶器。
今までルックはこんな形状のものを見たことがない。
そもそも同じ箇所にいくつもあることからして不自然だ。
衝立は側面に小さく、これでは何も遮れやしまい。
いくらレックナートの知識が無尽蔵だといえど、さすがに今回に関しては師に頼るべき種類の問題ではない。
ルックは尻込みして後ずさる。
「ルック、どうした?」
周囲への警戒心がほとんど欠落していたその時である。
背後から投げかけられた声に、ルックは大仰に体を引きつらせた。
振り向いた最初の感想としては。
しくじったとか恥ずかしいとかではなく、ああこいつも人の子なのだと、整い切った容姿にいささか憐憫を覚えたのが、ルックの正直な気持ちであったという。
ルックはアスフェルを真似ることで何とか用を足す。
集団生活のいろはをまさに身を以って学ぶルック、並外れた好奇心がカバーしなければ彼はとうに破綻をきたしていたのかもしれない。
これはルックが当時まだ齢十一の、トラン湖城入り二日目の出来事であった。
その後奥へ個室を見つけたルックにさらなる冒険が控えていたのは、言うに及ばないだろう。
さら。
さらり。
アスフェルは何度も撫ぜる。
色素の薄い肌に映える金茶の髪は肩に届くくらい伸びた。
柔らかな猫毛は細くしなやかだ。
アスフェルの指を幾筋もの光が滑るよう。
身を屈めて、唇を乗せてみる。
不思議な香りがする。
ふ、と息を吹きかけた。
髪ははらりと光り舞った。
「これでも起きないか……」
昼までに街へ入ろうと、半日不休で歩き通したのだ。
さすがに疲れたのだろう。
ルックはアスフェルの膝に頭を預けて熟睡していた。
「無防備にも程があるよ、ルック」
そろそろ足が痺れてきた。
アスフェルは体勢を崩さないようゆっくり上体を立てる。
足を動かしたら起きてしまうかもしれない。
起こしたくなくて、でも起きてほしくて。
どこまで信頼されているだろう?
もし膝を動かしても起きなかったら……もし大声を出しても起きなかったら。
それはアスフェルの気配にすべてを委ねている証拠だと拡大解釈してもいいだろうか。
「実験してみたい気もするけれど、ね」
アスフェルは何度も髪を梳いた。
今は安らかな眠りを守りたい。
ゆるゆると溜まる、穏やかな時間。
指が通るたびほのかに目元が緩むのはアスフェルの思い過ごしだろうか。
「……?」
ルックの吐息が何か言葉を紡いだ。
最後に唇が尖る。
鼻の辺りに寄せられていた手がアスフェルの服を掴む。
一度だけそっと、ルックの頬が太腿へ擦りつけられる。
「ルック……俺の夢を、見てくれてる?」
アスフェルはルックを撫ぜる。
外は秋の音。
銀杏の絨毯。
紅葉の浮雲。
一瞬の、夕凪。
さら。
さらり。
「あんた、べたべたし過ぎ」
「ルックこそ、あの時そんな大変だったなんておくびにも出さなかったじゃないか」
「じゃああんた言えるわけ? 言ってみなよ、今すぐここで」
「……ルック、互いにこれは見なかったことにしないか?」
「賛成」
「…………………………アス、ルー、晩ご飯」
「っキキョウ! あんた、今の見た!?」
「……………ルー」
「読んでないよな、キキョウ。俺は信じているよ、そうでなければキキョウといえども容赦できないからね」
「……………アス……」(←実はさっきからずっといた人)