横たわる境界 表





朝のまだ早い時間に、僕は魔術師の島を訪れた。

訪問にはふさわしくない時間だったが、この塔にはそんなことを気にする人間はいない。
それにルックは所用で外出することが多いから、すれ違いになってしまうことがよくあるのだ。

相変わらず無闇に長い螺旋階段を、音が響かないよう、なるべく静かに駆け上る。
ルックは朝が弱いから、まだ眠っているだろう。

というより、彼は実はあまり眠らないのだ。
1日に4,5時間眠ればいいほうで、寝つきが悪く眠りが浅いらしい。
ベッドに入って一眠りしても、2,3時間もせずに目が覚めてしまうのだという。
不眠症なのかと聞けば、わからないと答えた。
物心ついた時からずっとそうだから、たくさん眠った記憶なんてないと。

だが、それにはどうやら理由があるらしい。
初めてルックが弱音を吐いたのは、もう18年も前。あの湖の城のこと。

真夜中だった。
僕が彼を見つけたのは本当にたまたまだった。
その夜、刺客に襲われたためだ。
始末をした後で、城内の巡回をしていた。
逃走経路を探して屋上に上った。そこで見つけたのだ。
ルックは風に当たっていた。

『眠りたくないんだ。同じ夢ばかり見るから』

ぽつんと伏し目がちに呟いた。
心底憂鬱そうな顔で。


(今日はちゃんと眠れただろうか)


そんなことを考えていると、ルックの部屋に着いた。
軽くノックをして、扉を開ける。
いつもならまだ寝ているはずの彼は、今日はなぜだか起きていた。
ベッドに座ってぼんやりと窓の外を見ている。すぐに様子が妙なことに気づいた。
そっと近づいて覗きこむ。

「ルック?」

問いかけても返事はない。視線すら寄越さない。
視点はぴたりと中空に止まっている。
まるで薄壁を隔てているかのような違和感。
ここにいながらにして違う世界を見ているかのような、距離感。

(ああ、まただ)

乱暴に抱き寄せて、また問いかける。

「…嫌な夢でも見た?」

ルックはかすかに頷いた。
その拍子に、肩を過ぎた金茶の髪がさらりと揺れて、伏せた顔を隠してしまう。
髪を耳にかけて、ゆっくりと梳いてやると、やっとこちらを見た。

「ティル?」
「ん?」

ルックはそっと僕の頬に触れる。
その指先がひどく冷たかったから、手のひらを重ねた。

(…どのくらい、ああやって座っていたんだろう)

やるせなさに歯噛みする。

(もっと早く来ればよかった)

ルックはまだ頭が働かないらしく、普段より幾分かたどたどしい口調で聞いてきた。

「…なんでここにいるの?」
「そりゃあ、ルックに会いに」
「……ふぅん…」

納得したというように1つ首を縦に振る。
そして首を垂れたまま、僕に寄りかかってきた。

「……眠い…」
「……。それならもう1度寝たら?予定があるんなら、また起こしに来るし」
「いい。起きる。もうちょっと。したら」

ルックはぎゅっと目を閉じて、僕の胸にもたれかかる。
ルックから抱きついてくれるのは、そうあることじゃない。
甘えてもらえたらすごく嬉しいし。
だが、

(だいぶ参ってるみたいだ…いや)

(…だんだん弱ってきてると言ったほうが、正しいのかもしれない)

ため息が漏れないよう気をつけて、ルックの髪をなでる。
なめらかな感触と、髪が擦れ合う小さな音が心地良い。
2人でいる時はいつも安心するけれど、こうしてくっついている時が一番安らぐ。
ルックも気持ち良さそうにまどろんでいる。

腕の中の、愛しい存在。
あふれる気持ちの奔流のままに、強くルックを抱きしめた。


「ねぇ、ルック。ここにいてよ。ずっと。いっしょにいよう?」


ルックの身体がびくりと痙攣する。
まるで何かにおびえているみたいだと思った。
僕はただ推測するしかない。ルックは何も言わないから。

「もう少し頼ってくれてもいいのに。ルックの願うことなら、なんでもするよ?」

ルックは少し笑ったようだった。

「いらないよ。何も」

僕は少し苦笑した。
わかりきっていた返答。今まで何度も交わしたやり取り。

それでも、繰り返さずにいられないのは、希望を抱かずにいられないから。


弱々しく、だけど確かに、僕を抱きしめてくれるこの手に。