きっかけは日常の片隅から





胡散臭い石版と共に突然参戦した小柄な風使いは、当時特大の猫を被っていたアスフェルを掻き乱すに充分な爆撃機であった。


師の言いつけだからとやらされ感全開の小憎たらしい面構えと、いっそ清々しいくらいに容赦のない毒舌。
その割には帝国打倒の志に燃えて闇雲に戦いたがる一般兵などよりよほど的確に仕事をこなし、純粋に部下として使いやすい。
知識量といい判断力といい、まさに将器たる人材である。


しかしアスフェルは当初、ルックを魔力一辺倒の面白い子供ではあるが信用するに値する人物であるかどうか見極めかねていた。


初めて出会った魔術師の塔での振舞いから鑑みるに、あの魔法使いは己を過信するが故に他人を蔑み、他人に良く思われようとしない、寧ろ嫌われようとさえしているようである。
それはつまり他人を思いやれないということであり、人間味が欠如しているということではないだろうか。
いくら魔法に長けている者が乏しいとはいえ、ひとの命を遣り取りする戦争で、ひとを慈しめない人物に将として兵を預けられるのか。


まだまだ兵の足りない解放軍の構成に頭を悩ませていたアスフェルが、そうした逡巡の末結局ルックを将に据えることとしたのは、実に些細な一件からであった。





子供のヒステリックな泣き声が耳に入り、アスフェルはぎょっとして上昇しているえれべーたのボタンを連打した。
強引に三階で止めたえれべーたの扉が開くや否や、まだ改装中のがらんとしたフロアに響き渡る泣き声が耳を劈く。
騒ぎの出所は想像通り石版前で、室内を窺うと石版に縋り付いて泣き喚く子供が見受けられた。
ぐるりと見回すも他は数人の兵士と子供たちばかりで、いつもそこにいるはずの風使いの姿が、ない。
アスフェルは子供の側でおろおろしている兵士の肩を掴んだ。
「何の騒ぎだ?」
「ああ、アスフェル様! いやあ、猫がですね……あれでして」
ほっとした様子の兵士が指差す先には全長三メートル以上ある石版と、その上で縮こまっている黒猫がいた。
子供たちに追い回されていた猫が窓枠から石版に飛び乗って、そのまま降りられなくなったらしい。
猫の飼い主である子供が必死で手を伸ばしていたが、周りには三十センチ足らずの低い椅子が一脚あるのみでこれでは大人が乗っても猫に届かない。
「俺が何とかしよう。待っておいで」
アスフェルは、魅惑的と定評のある微笑みで、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった子供の頭を撫でた。


風を使えば降ろせるだろうに、こまっしゃくれた石版守は面倒臭くなって逃げ出したのか。
普通はそうすることを躊躇わせる作用があるはずの、いわゆる人情が欠けているのか。
それとも、この子供とそう年が変わらないのに戦争で用いる種の明晰さを具えているということは、そのため感情の発達を抑制せざるを得なかったのだろうか……。


「ちょっと、そこどいて」
子供の泣き声を掻き消すように澄んだ音が頭上から降って来て、アスフェルは目を丸くして後方を向いた。
今しがた思いを巡らせていた石版守が、分厚い本を何冊も抱えて立っている。
重量によろよろしながらルックは椅子の上へ本を積み重ね、高くなった椅子を石版の前まで引き摺って応急上り台を拵えた。
唖然と見ているアスフェルと子供の前で、変わらず無表情を保つルックが危なっかしい足付きで本の上に乗り、アスフェルは慌てて椅子と本を支える。
まさか、猫のために本を持ってきたのか。
金縁の装丁が施された、見るからに高価そうな本はすべてルックの私物であろう。
優しさも愛おしみも、黒猫だけを見ている眼差しや何も浮かばない表情からは読み取りようがなく、それでもルックの行動はその慈しみを雄弁に物語っていて、アスフェルは目から鱗が落ちた気がした。
「おいで」
腕を伸ばしたルックはそっと囁いて、ようやく手の届いた猫を抱え込んだ。
意外と胴の長い烏猫がルックに鼻先をすり寄せたのが見えて、動物は人間より勘が鋭いらしいとアスフェルは苦笑した。





要するに、ルックは他人を近付けたくないのだ。
だから必要以上に冷たい言葉を浴びせたりするのだろうけれど、決してひとを愛しめないわけではない。
きっと不器用すぎて、情を外に表す術を持たないだけなのだ。


解放軍の求めている人材は、戦場で少しでも多くの兵を命拾いさせるような采配を振るうことができる将である。
アスフェルが曰くありげな毒舌風使いへ魔法兵団のひとつを任せる気になったのは、この時であった。
つんけんしていた態度の裏へ潜む真実を垣間見て、アスフェルはどうしようもなく幸福な気分になったのである。