切り立った崖の、落ちそうな場所に座り込んでいたから。
怪我しないでほしい、だから動かないでほしい、そうしたらしばらく見ていられると思って。
理解不能な三段論法を、一番解せなかったのは僕自身だった。
トラン湖の景色は心が洗われるようで美しいと思っていたが、よく考えれば、それは今夕陽を全身に浴びている彼の色と同じだった。
あいつの瞳はこんな色をしている。
雄大で、たおやかで、荘厳で、おだやか。
風景は彼が来たとたん精彩をなくし、夕空は彼のために広がった。
この刻々と変化する美しい景色を凝縮したのが、彼の瞳を彩る光源だった。
あいつは世界中の色という色を、それがどんなに美しいものであるか、その瞳で体現していた。
もっと近くでと引っ付いた窓ガラスに、僕の手は遮られて押し留められた。
ここから先は彼の空間。
僕は、踏み込んではならない。
手を伸ばせば掴めそうなほど近くにいる彼を、窓ガラスは無情に隔絶した。
それでいい。
僕は誰の近くにもいない方がいい。
僕はひとじゃないんだから。
置いていかれたような気持ちは、強引に胸のうちへ押し込んだ。
彼が振り向いた。
僕の眼前に来た。
そんなところを歩いて、落ちでもしたらどうするんだ。
はらはらしながら僕は見ていて、でもしなやかな体躯の彼は安定した足取りで窓の前へ立った。
ああ、皮肉が口を吐いて出る。
そんなことが言いたいんじゃないのに。
心配だと、素直に言えばいいのに。
僕はどうして天邪鬼なんだろう。
僕は自分に憤った。
優しくて強くて大らかな彼の、視界に入る資格なんか僕のどこにもない。
僕はただ、唇を噛み締めた。
あいつの右手は、ガラス越しにその温もりを伝えてきた。
僕はその瞳に吸い寄せられて、時が止まったような錯覚に陥って息もできなくなる。
アスフェルの目には、今、僕だけが映っているのだろうか。
僕もその漆黒に包まれているのだろうか。
酒に酔ったこともないのに、僕は酔いそうな気持ちになったと感じた。
アスフェルの額がこつんとガラスに当てられる。
僕も同じところに額をあてがった。
もちろん、同じようにするには僕の身長が十センチほど足りない。
僕は爪先で立って額を当てた。
ふたりの体温は確かに触れているはずなのに、絶対に触れられない、ガラスの境界。
それは僕の周りを囲む、檻のごとく。
それでも触れ合える温度と視線だけ、気付けば僕は貪るように摂取していた。
見つめあった向こう側の瞳は、どこまでも透き通る黒耀に、深青と紅蓮が瞬いている。
ルックは、綺麗だ。
アスフェルの声が響いた気がした。
しかしアスフェルの口元は、凍りついたように微動だにしない。
それでも声となって、その目が僕に言った。
ルックの瞳は、闇を貫く翡翠だ。
アスフェルの眼差しが、僕に語りかける。
ちゃんと聞こえる。
世界はこんなにも静まり返っているのに。
未来は灰色で、音も匂いも味もなく、感情も感動も排斥される静寂のはずなのに。
アスフェルの声だけは、ちゃんと。
僕はまばたきもできないでアスフェルを見た。
明らかに間違っていると思うその内容に、それでもアスフェルの瞳が正面にある今だけは、あんたが言うなら正しいのかも知れないと思うこともできた。
だから僕は否と言えなかった。
代わりに僕は、精一杯目を開けて、そこは危ないよ、と念じてみた。
僕の眼差しでも、あんたには届くだろうか。
身動ぎもせず見つめていたらあんたはくしゃりと破願した。
つられて、僕も笑みが漏れた。
アスフェルはガラスにひとつ口付けを落として、去っていった。
夕陽はとっくに湖の向こうへ沈んでいた。
僕は背伸びをしたまま、そっと。
あんたの触れたところへ、同じように唇で触れた。
やっぱり、酔ったような気持ちになった。