トラン湖の夕空は美しい。
目も覚めるような紅蓮が柔らかな曲線を描く秋雲の下腹部を茜色に縁取り、水は雲間から溢れる光の轍を紺碧の中に彩る。
やがて上天から深青が降りてくると、併せて湖へ凝縮されるように沈む熾火と交わり境界が厳かな金色に明らんで、そのまますべての色相が押し潰されるようにひとつの蒼穹へ溶け合ってゆく。
誰にも邪魔されずに藍と紅が一望できるこの場所を、アスフェルは隠れ家と呼んでいた。
今度は、ハンフリーと竜洞騎士団へ赴くことになった。
まったく休む暇もない遠征続きである。
出立を翌日に控えた夕暮れ時、アスフェルは辺りに人影のないのを確認すると、岩の張り出した部分へ器用に足をかけてひょいひょいと崖を登った。
トラン湖城はもともと岩をくり抜いただけの簡素な構造で長年補修もせず風雨に曝されてきたため壁面が荒い。
特に西側は、大きいところでは人ひとりが寝転べるくらいに岩肌が迫り出している。
この荒れ果てた幽霊城へ解放軍の拠点を構えてから、アスフェルはしばしば、足を滑らせれば真っ逆様に湖へ落ちる岩壁へ座り込んでは景色を眺めていた。
高いところで、四面を見張りや好奇の視線に束縛されないで、ひとりで物思いに耽ったりただ水面を見つめたりする時間が欲しかったのだ。
こうしていると、テッドとよくやらかしたいくつもの遊び、市街地や野山を駆けずり回っては羽目を外しすぎてグレミオに何度も泣かれたあの日々を、昨日のことのように思い出す。
当時もこうして、グレッグミンスターの郊外にある大木へ登っては少しだけ近くなった大空を眺めて。
テッドとふたり、いつまでも、語り合ったものだった。
――煙と何とかは高いところを好む、っていうけどさ。
テッドは、ブランコに乗っているように上体を前後へ揺らしながら言っていた。
――こうしてお前みたいなガキが景色も世事も遠くまで見通せるように育つんだ、まんざら馬鹿でもないと思わねぇ?
大人たちを皮肉ったような、それでいて人間という存在そのものに愛着を示すような声音で、テッドは話した。
「金も権力も高いところを好むんじゃないか?」
齢十四のアスフェルが言い返しても、テッドは余裕の笑みを崩さない。
お前はまだまだガキだなと兄貴面をしてみせた。
――だからこうして、高いところから見えるものと見えないものを学ぶんだよ。それにほら、気ぃ抜くと落ちるとこまで一緒だぜ。
テッドは演技ぶった大げさな動作で人差し指を下へ向け、付き人の金髪を指差した。
途端にグレミオの大声が聞こえてきて、そう。
テッドとふたり、いつまでも、笑い合ったものだった。
現在、テッドの消息は知れない。
生きているのかさえも、つかめない。
次から次へと大切なものを亡くす戦いの中で、最初に失ったテッドをもし救えることがあるならば、それは自己の救いにもなるような気がしていた。
テッドとの思い出を繰り返し反芻しながら、そんなに都合よくいくはずがないということも……本当は、わかっていた。
ふと振り返った。
右後方へ、ちかと光を反射する何かがあったのだ。
今日は気の向くままに高く登ったから、おそらくこの辺りは三階部分であろう。
おあつらえ向きに平たく出っ張っていた岩の上を、アスフェルは吸い寄せられる蛾のように、半ば無意識で光源へ移動した。
反射していたのは、岩の狭間へ嵌め込むように設えられた窓の内であった。
座り易そうな岩塊が目に入ったので、窓の手前に腰掛けようと手を付きかける。
そこでアスフェルは瞠目した。
秋も深まり風の冷たくなった夕刻、内側で照らす西日を受けて煌くものは。
金緑の、宝石。
窓ガラスの向こうで驚いた顔をしている、ルックであった。
「あんた何してんの、そんなとこで!」
語気の強い、怒ったような声がガラス越しに届いた。
三階の北西に位置する石版の間から数えて二つ隣の窓である。
そこはアスフェルより五つも年下の、星見の魔女に使わされた毒舌冷淡風使い、―つまりルックの自室であった。
自室といってもそう広くもない城内で幹部以外の全員に個室を確保するのは難しく、ルックは魔法兵の数名と同室だ。
いくつかのベッドと机、作り付けの共用クローゼットがひとつあるきりの質素な部屋は、窓こそそれなりに大きいものの、ベッドの間ごとへおざなりに据えられた薄い間仕切りでどこか窮屈そうに見えた。
ルックは窓際に寄って空を見ていたらしい。
窓の手前にあるベッドだけ他よりきちんとシーツが整えられているのは、この窓とベッドだけが彼に与えられた私的空間であることを知らしめた。
サ−クレットの飾りだったのか、とアスフェルは夕陽に映えるルックの額を注視する。
沈みゆく赤光にも屈さない、不可侵の白磁を保つ肌。
透き通る氷細工にはらりと落とされた花弁のごとく、目元がほのかに桜色を帯びている。
それは薔薇色の唇と相まって、ひどく強烈な、且つ儚い印象を刻んでいて。
アスフェルの胸のうちに、感傷的なものが込み上げた。
妖しく艶めく丹紅へ誘われるように指を伸ばす。
けれどこつんと音を立てて、指頭は窓ガラスに遮られた。
「……空を、見に」
ガラスの硬い冷たさで、はっとアスフェルは我に返った。
ようやく端的に応える。
じっとアスフェルを見つめていたルックは、アスフェルの奥歯に物が挟まったような返答を受けて訝しげに眉を顰めた。
「そこは普通ひとの座るとこじゃないよ。あんた、よくこんなとこまで登ったね」
「……空を、見たかった……から」
「ふうん。さすがのあんたもついに自殺願望かと思った。もっとも、この程度の高さなら季節外れの水泳会になるだろうけど、迷惑だから慎んだ方がいいんじゃないの」
「自っ……、ル、ルック」
ちょっと肩を竦めたルックは、溜息とともに仮にも軍主へ向かって洒落にならない皮肉を言ってのけた。
自分はそんな風に見られていたのか。
グレミオが死に父を殺して、幼きテッドをこれから三百年以上も流浪わせると知りつつ過去の世界へ置き去りにしてきた俺は、いよいよ追い詰められて見えたのだろうか。
俺は、思ったよりも冷静だ。
解放軍を率いて戦う軍主だ。
アスフェルはとんでもないよと言う代わりに、一片の曇りもないよう心掛けてきっちり笑んでみせた。
呆れてくれると思っていたルックは、しかしますますむかついたといった剣呑な目付きでアスフェルを睨む。
「感じ悪っ」
ルックはアスフェルから顔を背けて、唾棄するような激しさで言い捨てた。
そして険しく眉を顰めたまま、早くどこかへ去ってくれと言わんばかりに唇をきゅっと噛んだ。
アスフェルは当惑する。
無愛想な風使いが何をこんなに怒っているのか、見当も付かない。
白皙の彼がひとり真紅の夕焼けと対峙する、大切な時間を侵犯してしまったからだろうか。
ひとときでもその透徹たる視界へ入ることは、許されないのだろうか。
アスフェルは項垂れて目を伏せた。
そっと落とした目線が、ガラスに押し付けられた、小さな紅葉形を見つけた。
ルックの手は指に力を込めすぎていて、先が白くなっている。
震えているようにも見えるそこへ、引き寄せられるようにしてアスフェルは自らの右手を合わせてみた。
ルックより一回り大きい無骨な右手は、ルックの華奢な左手くらい簡単に覆ってしまえる。
ふたつの手のひらは触れそうで触れ合えず、ふたりの接触を隔てる透明なガラスは、想像するしかない彼の左手と同じように冷えていた。
ガラス越しにでも、体温は届くだろうか。
数多の魂を喰らった紋章の熱でも、誰かを温めることができるだろうか。
贖罪に似た祈りを捧げるようにして、アスフェルはルックの手を包み、ルックの揺れる瞳を受け止めた。
金緑の光源は、この瞳だったのか。
潤んで煌く、彼の瞳。
夕陽にも染まらず翡翠の輝きを放つ一対の宝玉へ、アスフェルは、どうしようもなく焦がれる己を持て余した。
蛾よりも明確に急速に吸い寄せられた哀れな軍主に、心の答えは出せようはずもなかった。