フリックは、あの顔が生理的に気に食わない。
アスフェル=マクドールの、あの哀れむような蔑むような面構えである。
父親の威厳と母親の可憐さを受け継いで、アスフェルはひどく整った容姿をしている。
成長途中の身体は、少年特有のしなやかさと青年期に差し掛かる強靭さを併せ持つ。
どこまでも真っ直ぐな漆黒は、圧倒されるほどの潔さを醸し出す。
強く、儚く、穏やかで、猛々しい。
正反対の要素がきちんと収まりあう、一言で表すならば魅力的な外見だ。
まさに、どんな嗜好にも合致する理想の具現であろう。
しかしフリックは、あの顔が生理的にむかつくのだ。
「やってられないな……」
一路キーロフへと向かう船上、地階の船室にむさ苦しく男五人で篭って、フリックは、肩へ落ちかかるバンダナの裾をうっとうしげに払った。
生理的にというのはいささか語弊がある。
理由はちゃんと分かっているからだ。
分かっていても納得できない感情、むしゃくしゃする遣る瀬無さを、フリックはアスフェルへ転化していた。
もちろんそれが八つ当たりだと承知している。
オデッサの死を看取った男。
オデッサに未来を託された男。
オデッサの悲願を達成し得るとオデッサが信じた男。
だが、はいそうですかと無邪気に己の悪感情を蔑ろにすることは、不器用なフリックに到底できない芸当だ。
結果、生理的と体内組織のせいにしてしまっているのである。
「フリック、何が?」
分かっていて聞いてくる向かい側の元凶、アスフェル=マクドールへ、フリックは憮然とした目付きで返した。
「見ればわかるだろ、ちんちろりんだよ! 負けどころじゃないんだ、すでに」
「……もしかして、全戦全敗?」
「うるせ」
傍観しに来たと腕を組んで壁の隅へ凭れているアスフェルは、際どく口角を持ち上げた。
糞ッ、やっぱり整っていやがる。
フリックはすっからかんになった財布をアスフェルへ投げつけた。
そう、フリックがタイ・ホー、ビクトールとちんちろりんを始めて数時間。
キーロフへ着くまでの暇潰しが手ひどく負けて、フリックは窮地に立たされているのである。
あとから参加したシーナも順調に勝っているようで、負けているのはフリックただ一人。
自分の運もここまで尽きたかと思うような惨敗であった。
フリックは、腹立ち紛れにビクトールの焼酎を瓶ごと一息で呷った。
じんと喉に痺れが通る。
胃がかっと熱く燃える。
俺は、何が何でも、勝ってやる。
いくらアスフェルが相手でも、あのオデッサがフリックの顔だけに惚れたわけではあるまい。
男は内面だ、中身が成熟してなんぼなのだ。
「っしゃあ、全財産賭けて、最後のひと勝負だ!」
フリックは目をぎらつかせて立ち上がった。
世界が、フリックを中心に回った気がした。
――ねぇ、全然目覚まさないんだけど。
誰かの声がする。
――癒しの風で良かったの?
――他に手があるか?
――酔ったことないから、知らない。
幼い澄んだ声と、穏やかな陽だまりの声。
夢現のフリックの耳へ、たゆたうように溶ける。
――無理、させてるんだろうな、俺が。
――いい年した大人なんだから、そこまで青くないよ。
――俺なら、きついかも知れない。最愛のひとが、もうこの世界のどこにもいないんだよ。
――エゴだね。
――どこが?
――愛する相手がずっと傍にいて欲しいって、結局は、自分の心を充足させるために願うんでしょ。愛って言葉がなきゃ自己を正当化できないんだ。
とろけるような旋律は、しかしひどく胸に刺さる内容だ。
愛?
それは自己満足か?
オデッサの、寂しそうな笑顔。
ぼんやり霞んだ思考で、そればかりがぐるぐる巡る。
続いて断ずる穏やかな声は、オデッサと重なった。
――暴論だね。
オデッサ、君はどう思う?
俺の想いは、俺の独り善がりだったのか?
――僕は、愛が何なのか分かんないから。
清涼な音が空虚を孕んだ。
毒舌は不安の裏返しだと、誰が言ったろう。
オデッサではなかった、もっと最近、フリックを宥めるように……。
――僕の知る愛は、自分にとって大切なもののために倫理をすべてかなぐり捨てる姿だ。僕は、嫌いだ。愛なんてエゴだ。
つらい過去は、心に堅固な殻を築く。
素直になれない、その理由は?
己の理論が届く範囲でしか物事を捉えようとしないのは、俺が、オデッサにばかり拘泥していたのは。
最初から諦めれば、もう傷付かない。
最初から好きになんてならなければ、信じなければ。
――愛を、……生き甲斐、と言い換えるのは?
――グレミオはそうだったって?
――ただ生存するだけなら獣と変わらない。何のために生きるか、何を愛し何を信念と呼ぶか、それが生きるってことじゃないかな。
難しすぎて分からないよ、オデッサ。
俺はお前の理想を同じように夢見た。
お前の前進し続ける背を愛した。
俺は、お前がいなくなったら、どうすればいい。
こんな風に信じていたお前の名残へ縋って、せめて仇を討って、それから、忘れないようにずっと心の真ん中に置いて。
他には誰も入れないように、したかったんだ。
――じゃあ、あんたは、何のために、生きてるの?
――俺は、
「何のためだ?」
大声に覚醒させられた。
それが自分の声だと認識するのに、少し間がかかる。
フリックは、飛び起きた拍子にずり落ちた毛布を手繰り寄せた。
視線を伸ばしたその先に、二人の少年の姿。
酔い冷ましに魔法をかけてくれたのであろうルックと、フリックを心配そうに覗き込むアスフェルを認める。
解放軍新リーダー、アスフェル。
「!」
咄嗟に顔を背けてしまった。
子供じみた行為を恥じるも、やってしまったことは、起こってしまった悲劇は、もう巻き戻せない。
「大丈夫か? 魘されたみたいだな」
気付かないふりのアスフェルが、フリックの額にタオルを当てた。
ひんやりした感触は心地よくフリックを落ち着かせる。
「悪い」
謝罪が口をついて出た。
気にするな、とアスフェルの眼差しが語る。
王者たる威厳と聖母たる慈愛を兼ね備えた瞳は、相反するバランスで、フリックを縫いとめた。
隣の部屋は騒々しく、まだちんちろりんが続いていることを窺わせる。
ひときわ太い声はビクトールだろう。
シーナの負けたらしい怒声も聞こえてくる。
もとは寝室用に作られたがらんどうの船室へ、ぽつんと一つだけ敷かれた布団に、フリックは寝かされていた。
側にはたらいに湛えられた水が、船のかすかな揺れに伴って波紋を作る。
アスフェルがそこにタオルをぽんと放り込んだ。
かなり迷惑をかけてしまったらしい己の失態を、アスフェルは寧ろ喜ぶような楽しげな顔である。
「大丈夫みたいだ。良かったね、ルック」
ほんわかした声音で、アスフェルは邪気のない笑顔をルックに向けた。
いつになくにこにこしたアスフェルに、フリックは眉をしかめた。
馬鹿にしてんのか、こいつ?
「生理的」に、むかっとくる。
ルックがひょいとフリックの眉間を触った。
「皺寄せるくらいだから、状況は分かってるみたいだね。急性アルコール中毒。一応体内のアルコールは全部抜いたつもりだから、もう平気でしょ」
多少は我慢するんだね、と言い捨ててルックは隣の部屋へ行ってしまった。
ちんちろりんに混ざるのではなく、隣から梯子で一階へ登るのだろう。
風で器用なことができるもんだなあ、とひとしきり感心して、フリックは自分の宿す雷の紋章を見つめてみた。
さすがに雷では無理か。
と、思考を見抜いたようなタイミングでアスフェルが呟く。
「風の紋章って本当に便利だな」
「悪いな、これから遠征って時に……」
「ん? ああ、気にするな」
アスフェルは軍主の顔でそつなく笑んだ。
後ろに置いていたらしい水差しへ手を伸ばして、フリックの横へ無造作に置く。
飲め、ということらしい。
急に態度が変わったな、とフリックは狐につままれたような面持ちで水を飲んだ。
冷たさに頭がすっきりしてきた。
「あと一時間ほどでキーロフへ着く。もう夜だから、着いたらすぐ宿屋へ厄介になるつもりだ。明朝キーロフの街を回って、工場へ出発するのは明日の昼以降。街中へは俺とビクトールとシーナで行くから、フリックはそれまで休むといい」
事務的な口調でアスフェルは説明した。
フリックはサンキュとだけ答えて違和感の解明に没頭する。
やはりさっきと何かが違う。
さっきは、ルックがいた時は、もっと気配が丸かった気が……。
ルック?
フリックはぱちぱちとまばたきした。
そういえば、さっき夢の中で聞いた声はルックとこいつじゃなかったか?
隙のない今とは違って、もっとくだけた、穏やかな。
フリックの心臓が早鐘を打った。
ルックを同行させるのは魔法のためだとばかり思っていたが、何かおかしい。
それなら水の紋章を宿す人選が妥当なはずだ。
さらにフリックと同じ雷の紋章を宿しているシーナを連れてきたのは、もっと不自然である。
シーナにしかできない特性といえば、「かばう」に関して定評があることくらいか?
普段女性しかかばわないシーナでも、パーティー内に著しく防御力のお粗末な魔法使いがいれば仕方なくかばいもするだろう。
もしかして、アスフェルは。
「……結構、単純なのか」
「はあ? 何言ってるんだ、フリック」
思わず声になっていたらしい。
アスフェルに奇異な目を向けられて、フリックは慌てて口を噤んだ。
だが声に出すと、謎が解けたような気がする。
転がり落ちてきた新事実に、フリックの心臓は激しく波打った。
「そうか……お前、結構いいヤツだな」
「酒、まだ抜けてないのか?」
「ははははは、アスフェル、お前ならやれるさ」
「何がだ、いきなり」
「こっちの話。頑張ろうぜ、リーダー」
「? だから、何なんだ?」
いつもならこちらの語感から気持ち悪いくらい的確に内容を汲むアスフェルであるが、今はびっくりするほど鈍い。
心底分からないといった顔で憮然とフリックを睨むアスフェルは、ようやく見せた年相応の表情だ。
フリックは急にこの若者がかわいく思えてきた。
心からアスフェルの力になってやろうと思う。
(協力してやらなきゃ、どうしようもなさそうだからな)
シーナと二人揃ってアスフェルの本領へ引きずり込まれたのだとは、まだ、フリックに気付けるはずもなかった。
これこそがアスフェルの、天性の魔力である。
反感をすべて共感に変えて、アスフェルたち一行は秘密工場を目指したのであった。