さよなら





 ローズマリーだけでこんな花束こさえるなんて、酔狂だとでも思っとるかね。
 そりゃあ地味だし見栄えもひどく悪かろう。

 けれどこれだきゃ、この宿を継ぐ者たちに必ず果たしてもらいたい。

 この花束は百五十年も前の言い伝え。遠い記憶の「思い出」なのさ。


 ――彼の名は、キキョウという。










 ほんの一昔前、島にはしょっちゅう海賊が上がりこんでいたという。
 金品は略奪され女は犯され、海賊が非道の限りを尽くす様は目も当てられなかったらしい。ハナエの宿も例外ではなく、襲撃のたびに身内だけでも隠し階段から地下壕へ避難し、どうか見つかりませんようにと祈り続けていたそうだ。階上で行われる破壊と狂乱の爆音に耳を塞ぎながら。
 それが、今の島長が代替わりしてすぐに港を狭く造り直したところ、治安は見る間に向上した。海賊船が大型あるいは複数でなければ、島の自警団で撃退することができたのだ。ちょうどラズリルにある海上騎士団の哨戒活動が島の近海にまで及ぶようになったことも幸いした。現にハナエがこの島へ嫁いで十年、海賊は一度も来ていない。
 けれど海賊の恐怖は今も繰り返し語られている。ハナエより一つ上の世代にとっては、島の歴史と紐閉じるにはまだ生々しすぎるのだ。ハナエもしょっちゅう体験談を聞かされている。事あるごとに港を気にする癖が付くほど。
 ある日の早朝、ハナエは宿の屋根に上がっていた。宿と同じ二階建ての建物は島内に少なく、また宿が高台に建っているため、屋根に上がると遮蔽物なく港の様子を一望できる。
 ハナエはこの日も上って最初に港を眺めた。晴れた大空と石造りの港、間に青海、二本の線でくっきり三分割された世界の真ん中を船が一艘横切ってゆく。今は漁船が出払って閑散としているが、もう少しすれば商船が入港し、荷役で活気付くだろう。
 いつも通りだ。ほっと安心する。
 ハナエは小太りの胴体を煙突に縄で括り付けると、煙突を掃除した。夏の間はここに蜘蛛やら野鳥やらが巣を張るのだ。その駆除である。煙突に箒を突っ込んでは埃に噎せ、背を伸ばすたびにちらりと港を眺めていた。
 だから、ハナエは港の異変に一早く気付くことができたのだ。
 見慣れない大型船は明らかに違法なものだった。係留されている小舟を次々なぎ倒し、強引に港へ碇を下ろすと、遠目に見てもガラの悪そうな男どもが降りてきた。
 ハナエはざっと血の気が引いた。足に血がたまる重みを感じた。海賊だ。隠れなければ。地下壕の鍵、鍵はどこにあったろう。思い出せない。体が強張って動けない。箒がからんと屋根から落ちる。
 と、そこへ旅人の姿が現れた。
 港から島の裏までぐるりと迂回する崖道があって、旅人はそこから港へ出てきたようなのだ。ようだ、というのは、道は屋根から死角にあるため、ハナエの目には旅人が降って湧いたように見えたからである。
 旅人は先日宿に泊めた二人連れで、島裏の集落に行くと言っていた者たちだった。どう見ても十代の若者と、不惑に手が届いたろうという壮年の男性だ。若者は双剣を、男性は大剣を備えている。
 やおら斬り結び合いが始まった。
 ハナエは逃げるのも忘れていた。呆気に取られて戦闘を見ていた。まるで上等の演舞でも鑑賞しているようなのだ。圧倒的に旅人が優勢である。見る間に海賊の集団は減り、刹那背を合わす旅人二人、姿勢や動きに疲れた様子はほんの微塵も窺えなかった。二人とも滅法強いのだ。
 地下壕に避難する意識はとうに抜けていた。ただ旅人が勝つのを待っていれば良かった。四方を眺め回す余裕も生まれ、ハナエは息詰めて贅沢な演舞を見守っていた。
 が、その時だった。目端に光るものが過ぎったのは。
 出所は海賊船の上、甲板の端から何やら火のような灯りがぽっと見えたのである。ここからは遠すぎて分からない。何だろう、とハナエは前のめって凝視する。縄が腰でぎちぎち言う。
 直後に聞いた嫌な音を、ハナエは忘れられそうにない。
 馬の断末魔の嘶き。というのが一番近いかもしれない。今までに聞いたことのない音だ。それでいてすこぶる嫌な音。
 火、火薬――という言葉をハナエは知らなかったが――の勢いよく爆ぜる音が正体だった。つまりそれは銃声だった。
 ガンが某大国のごく一部だけに扱えるものであることをハナエは当然知らなかった。推し量れば海賊はそう見せかけた傭兵、あるいは暗殺集団だったのかもしれないが、ハナエには知る由もない。それが旅人を襲う理由も。
 甲板に硝煙が一筋立った。
 慌てて港へ目を戻し、ハナエは銃がもたらした効果を理解する。ハナエを酔わせていた美しい演舞が唐突に終わりを告げたためだ。
 凶弾は、若者の足を撃ち抜こうとしたらしかった。若者を殺さず動きを止めるためである。そこにはハナエの与り知らぬ理由があって、ガンナーは若者の――真なる紋章所持者の命を、奪うわけにいかなかったのだ。奪えば紋章は次の宿り手を求めるのみ。意味がない。彼らはその前に生きたまま所持者を拘束するか、あるいは所持者から腕を切り落とす必要があった。紋章ごと切断した腕に封印の術を施して本国へ持ち帰るのだ。
 しかし、銃弾は若者に中らなかった。鮮血はわずか隣から噴いた。壮年の男性が若者の代わりに被弾している。男性は若者を庇ったのである。
 形勢は一気に逆転した。
 男性がその場にくずおれた。庇われた若者が駆け寄った。双剣は男性を抱き上げるために投げ捨てられた。海賊はここぞと若者に群がり、羽交い絞めにし、苦悶する男性を足蹴にした。若者は四肢を押さえつけられた。
 一際大きな斧を持つ海賊が、暴れる若者の左腕目掛け、容赦なく武器を振りかぶる。
 天は痛いほど晴れていた。陽光を遮る薄雲ひとつないほどだった。それが若者に味方したのか、あるいは若者を孤独に突き落とすきっかけか。ぎらり、と何かが強く光った。斧の刃先が陽を受けたのだ。反射光をまともに見てしまったハナエは目を射抜かれる。目が眩む。海賊どももほんの一瞬目を背け、あるいは光に目を閉じる。
 生じるはわずか一瞬の隙。
 それでも斧は惰性で真下に振り下ろされて――だが若者は、傷付かなかった。覆い被さる背があったのだ。若者を包んでまだ余りある広さの背。
 ハナエは目を瞑る暇もなかった。どうにか視点を逸らしても噴出する血が視界に入った。皮膚がささくれ立つ悪寒を感じ、体が勝手に震え始める。
 振るわれた斧は、体ごと投げ出すようにして飛び込んできた、男性を。
 ハナエは屋根に尻餅を突いた。縄がなければずり落ちていた。慌てて屋根瓦に指を引っ掛ける。だが縄の裂けそうな音。思わず縄へ目を落とす。落とした目から雫がぱたりと転がっていく。
 そしてハナエは、空気が変じたのを肌で知った。
 顔を上げた。
 渦だ。若者の腕からどす黒い渦が起こっている。黒い雲、黒い炎、黒い大蛇。どれとも形容しがたい歪なものが黒々ととぐろを巻いている。上昇する。空が日食のように薄暗く翳る。空さえ隠せるとぐろは徐々に大きくなり、広がりきればふっと縮んで、凝縮される中心に小さい光球が生まれる。
 何と禍々しい色か。ハナエは鼻がひん曲がる心地に顔を歪める。黒蛇の舌なめずり、唾液を思わせる、おぞましく粘付いた光である。
 若者が、吠えた。
 どっと光球が一気に膨れ上がって辺り一帯を飲み尽くした。光に触れた物体すべて灰になる。炭化して文字通り蒸発する。海賊どもは阿鼻叫喚の叫びを上げ、その悲鳴ごと灰になる。服も肉も斧までもすべてがざらり黒炭と化す。
 すべてを呪うような灰。
 後に残るは、若者と男性だけだった。





 ハナエが呆然としていたのはほんの数十秒ほどだろう。すぐに屋根を下り、宿の男連中から宿泊客まで引っぺがし、向かう道すがら片っ端から人手を掻き集めて十分後には港に駆けつけていた。
 黒々と積もる灰をハナエは怖々踏みつける。足の裏に片栗粉でも踏んだような感触が残る。拳を握り、足元を見ないで、今は若者の下へ急ぐ。
 若者は座り込んでいた。
 腕に、亡骸を抱いていた。
 ――亡骸だった。
 ハナエは言葉が継げなかった。掛けてやる言葉が見つからなかった。若者を庇ったせいで旅の相棒が永遠に喪われてしまったのだ。嫌でもうっすら想像が付く。想像できないほど辛いだろうという想像が。
 若者は黒く煤けていた。深く俯いている。膝を突いて覗き込むと、頬にも赤茶けた灰が点々とこびり付いている。先の光球で乾いてしまった血しぶきか。虚ろに開いた目の中へ細かい灰が入っているのに若者は瞬きひとつしない。
 若者の左腕には炭化した皮手袋がくっ付いていた。一部露出する手の甲へ浮かぶのは実に奇妙な文様だ。火や水、おくすりの封印球など、紋章屋で取り扱う封印球のどの文様とも異なっている。見たことのない紋章である。当然だ、港の半分を消し炭にしてみせたのだから。こんな恐ろしい威力の紋章、ハナエも島の他の誰も知るわけがない。
 ハナエの連れてきた男衆がようやく追いついてざわめき始めた。何があったんだ! この灰は、血痕は、死人は! この若者が何をしたのか!
 筆頭に立つ島長の孫が若者の肩を揺さぶった。若者は今すぐ弁明しなければならなかった。この状況は、若者が島にとって有害であると判断されるに充分なのだ。ハナエは声を上げかける。
 けれど、当の若者がまったく反応しないではないか。代わりに体が大きく傾ぐ。糸の切れた操り人形みたいにくたんと力なく倒れ込む。髪から細かい灰が零れる。
 ハナエは口許を両手で覆った。死んだ、ように見えたのだ。
 だが若者は突っ伏す寸前、肘で体を支えていた。亡骸を労わるように。気付いてハナエはほっとする。まだ若者は生きている。しかしもう身を起こせないほど憔悴しているようである。
 その時一人の島民が、あっと海賊船を指差した。
 皆がつられて振り向いた。島民は驚愕の表情を全身に貼り付けている。海賊船に何があるのか。気付いた者から次々に悲鳴が発される。
 ハナエも船を仰ぎ見て、ようやく、先の事実を思い出した。
 ――この亡骸は船から狙撃されたのだ!
 船の甲板に、逆光の人影がすっくと立った。手に棒状の武具らしきものを持っている。マントで体型は窺えず、よって性別も不明瞭。髪がこの島に珍しい金色であることも分からない。
 島民が叫ぶ。港は騒然とする。
「そいつを寄越せぇっ!」
 海賊――と見せかけたガンナーが、裏返った声を出した。銃の先端を人の輪に沿って脅すように動かした。島民らが若者から距離を取る。若者の周りにドーナツ状の空白ができる。
 膝を突いていたハナエは一人逃げ遅れ、ドーナツの中心、若者の隣へ取り残される形となった。左右を見回すももう遅い。誰も手を差し伸べてくれる余裕がない。
 銃口は明らかにハナエへ向いた。引き渡せ、と言うように、くいっと銃身が上下した。
 ハナエは竦んだ。混乱のあまり頭が動いてくれなかった。だがこのままではハナエが撃たれる。あの武器の脅威は実際に目撃したハナエが一番よく知っている。でもどうすればいい? 若者を引き渡す? まず逃げる? 弓矢より強力な飛び道具から逃げ切れるのか、逃げても海賊を追い払えるアテがどこにあるのか?
 若者がゆるりと顔を上げるのを、ハナエは気配で感じ取った。縋るように若者を見た。
 若者は虚ろな目をしたまま海賊船へ視線をずらし、逆光の人影を認めると、場違いなほど緩慢な瞬きをして焦点を合わす。誰、と唇が動いたようだ。次いで、敵、とも。
 海賊がタラップを降りてくる。島民が蜘蛛の子を散らすように後退る。ハナエは海賊と若者へ交互に頭を振るしかない。何もできない。天に身を任せるしかない。海賊は若者へ銃を突き出す。撃ち殺すのか、撃たずに捕らえるつもりなのか、海賊の怯えを孕んだ目付きからはまったく見定めようがない。
 港には均衡とも言える緊張が漂った。誰か、何かが、少しでも動けば、大きく崩れる静寂だった。
 それが急激に破られる。海賊の足に抜き身の大剣が滑り込む。過たず海賊の踵を斬り付け、海賊は叫んで後方へよろめく。銃口が斜め後ろへと逸れる。
 若者は呼応して嘘のように俊敏に動いた。あの、奇妙な紋章の宿った左手が、甲を海賊へ向けて高々と掲げられた。黒い霧が立ち上る。海賊の全身をざらりと覆う。若者が素早く詠唱を紡ぐ。
「…死を呼ぶ声」
 海賊が咽喉を掻きむしった。口から蟹のように泡を吹いた。痙攣し、激しく悶絶する。昏倒する。
 大剣は港の積荷に突き刺さっていたものだった。それが突然抜け落ちて、弾みで大きく回転しながら海賊の足を斬ったのである。もちろん単なる偶然だ。
 しかしハナエは大剣の意志をそこへ幻視せずにいられない。剣は亡骸の所持品であり、ハナエには確かに、剣そのものが斬りかかって見えたのだ。若者を守らん、まるで剣へ亡骸の一念が留まってでもいるように。
 倒れた海賊は白目を剥いて、見るからにもう絶命していた。ハナエは死体から顔を背ける。島民も同様の反応を示し、皆の不安を受けた島長の孫が、恐る恐る海賊に近付いて死んでいるのを確かめた。それでも念のため爪先で銃を蹴り飛ばす。島民がわっと銃を避ける。
 ハナエは若者へ目を遣った。若者は呆然と抱えた亡骸を見下ろしていた。
 今、重ねて庇われたのだ。若者に分からないはずがない。
 若者はぎこちなく腕を伸ばし、大剣の柄を手繰り寄せる。切っ先が引き摺られてがりがり削れる音が響く。柄はまだ温かいだろうか。ちょっと前まで握られていた体温がかすかにでも残っていないだろうか。
 剣を見つめる若者の瞳に、初めて大粒の涙が浮かんだ。
 後から後から涙は止め処なく溢れ落ちた。若者の瞳を薄めたような水色、あるいは透明の涙が、零れるたびに亡骸を穿ってその胸に穴を開けるよう。涙が重たい。ハナエは何か声を掛けようとして結局何もできないでいる。
 若者は亡骸に突っ伏した。剣を握る指先が真っ白になっていた。若者は声もなくぼろぼろ泣き、泣きながら……いつしか、意識を手放していた。





 島は表と裏に分かれる。北側にある島表は、近隣の島々を周遊する定期船が寄港する港を中心として、商店、交易所、漁業施設が立ち並んでいる。ハナエの宿は港から伸びるメインストリートを奥まで上った高台にある。
 港から海沿いに島を半周するか、島中央の丘を経由して山林を横切った先にあるのが島裏だ。裏は主に農村である。南端に小舟を数隻舫う程度の船着場があって、小舟は専ら島表との行き来に用いられている。
 島はお猪口を引っくり返したような半球状で、中央へ向かうほど急勾配になっていた。島の表裏を移動するのに徒歩でなく舟を使うことが多いのは、島内が坂道ばかりだからである。人によっては船の方が所要時間も短くて済む。おかげで、どの坂道でも登りきって着くところ、本来ならば交通の要所になっていてもおかしくなかった島中央の丘は、島の開拓初期段階から人々に敬遠され続けた。
 その、中央の丘には地名がない。単に「丘」としか呼ばない。芝生で均された見晴らしの良い丘は、建物も道も、何もない。そこだけぽっかり空いている。
 だが近付けば、整然と棒の建ち並ぶのが見えるだろう。棒は墓標、丘は墓場になっているのだ。土葬が主流であるこの島では土饅頭の傍らに木の棒を刺して墓碑としている。最近やっと木でなく石の柱になり、細長い板状に切り出した石へ贈り名を刻むようになった。丘には木と石、二種類の墓碑が入り混じって立っている。
 港で灰にならなかった唯一の亡骸は、この丘へ葬られることになった。
 ハナエが丘へ着いた時には男衆が穴を掘っていた。葬儀を取り仕切る島長と一族数名、手の空いている島民らが、神妙な顔でひっそり亡骸を囲んでいる。亡骸は担架代わりの薄板に乗せられている。
 ハナエも亡骸を間近に見た。一見、側に近寄り難そうな、冷たく凛々しい顔立ちだ。だが島特有の文様が入った死装束をまとい、汚れや血液がきれいに拭き取られていると、単に美しく眠っているだけのようだった。もとは実に貴公子然とした美男なのだ。それが惜しいことに失血のせいかすでに死体であるせいか、亡骸の表情は青ざめている。顎に見える小さな古傷が特に白みがかっている。
 日は西へ沈み始め、日光は彩度を落としていた。不思議なものだ。日が傾いただけで丘はこんなにも寒々とする。ハナエは無意識に自分の両腕を擦っている。
 男衆が穴を掘り終えた。島では遺体を棺に納める慣習がなく、男衆は遺体を薄板ごと穴の底へ安置する。見届けて、島長が生花を亡骸に撒いた。参列者も順に花を手向けた。花の種類に決まりはない。その日調達できる限りの量である。
 亡骸の周りを花で包むと次に島長が読経を行う。島には複数の宗教が入り交ざってできた独自の経文が存在するのだ。だがそれは島民に信仰されているものでなく、いわば儀式のために存在を許されているはったりである。経文は島の誰も意味を知らない古語だという。読めるのは島長だけだ。
 読経が終わると、男衆はいよいよ穴を埋め戻しにかかった。土を亡骸へ掛けてゆく。参列者は穴が埋まるまで穴のほとりで待つことになる。
 ハナエはさりげなく耳を塞いだ。土が落ちるばさっという音を聞いていられなくなったのだ。ハナエは名代のつもりでいる。心情まで代理を務められるかは自信がないが、もしハナエが当事者だったならこの音を聞きたくないだろう。
 ハナエの背中に触れられたのは、その時だった。
「――ひッ!」
 思わず変な声が出た。振り返る。そこに立つ者を理解するまでにしばらくかかる。
 あの、若者だった。
「あっ……あ、あんた……」
 若者は、ハナエの宿で介抱されているはずだった。まだ起きられる状態にないはず。医者の見立ては紋章の負荷が身体に掛かりすぎたのではということで、しばらく目覚めないだろうとも言われていたから、ハナエは若者の看病を後回しにして葬儀に参列しているのである。
 ハナエに寄りかかる若者の顔は見るからに土気色だった。脂汗をかいている。ここまで走ってきたのだろうか。宿で何を聞いてきたのか、あるいは抜け出してきたのか。腰を折り、肩で荒く息をしながら、若者はハナエの背中越しに墓へ目を凝らしている。どうやら疲れで霞んで見えるようである。
「あんた、だいじょ」
「…トロイ……さん……」
 若者がふらりと囁いた。覚束ない足取りで島長の元へ歩み寄った。いや、その足元の墓穴だ。穴の縁へ辿り着いたら崩れるように座り込む。驚く様子の島長を余所に、若者は穴底へ体を乗り出す。
「…トロイさん……っ」
 落ちる。降りる動作もできなかったか。転がり落ちて、生花をぐしゃりと押し潰す。亡骸の両脇に腕を突くと危うげに体勢を立て直す。
「…トロイさん……トロ、イさん……」
 亡骸は、腹全体と首から顎までが埋まっていた。若者は土を手で押し除ける。亡骸の頚部を抱き起こす。顎についた土を拭いながら、亡骸に小さく話しかける。
「…起きて……トロイさん、土……」
 それきり若者はしばらく声を発さなかった。ハナエも島長も参列者の皆も、突然の事態に身動きひとつ起こせなかった。ただ若者の挙動を見ている。
 丘はいよいよ静まり返った。時折そよぐ風の音さえも大きく聞こえるほどだった。なのに視界に映されるものはおよそ静けさから程遠い。若者の背が、表情が、拙い言葉を垂れ流している。
 起きて。目を開けて。埋められちゃうよ。早く起きないと。ねぇ、目を覚まして。目を覚ましてよ。疲れたの。休みたいの。ここで眠ると体が、体が……冷たいよ。冷たいよ。トロイさん。
 体温が、ない。
 若者の目が回想するように揺れ動く。気を失う直前の惨事を思い出してでもいるのだろうか。それともとっくに思い出しているそれを夢の中の惨事だと思い込みたいのだろうか。だが亡骸に触れているなら、抱き上げた首がぎちぎちに固まっていることへ気が付くだろう。死後硬直だ。彼の眼窩はぴくりとも動かず、その鼻孔からは呼吸がない。脈拍も途絶え、装束の下には死斑ができているかもしれない。
 トロイさん、どうして。嫌だ。起きて。起きてよ。油断していた、もう大丈夫だって、いつもみたいに笑って言って。目を開けて。わたしを見て。お願い、トロイさん、こんな、嫌、動いて、まるで……でしまったみたいな、まるで……。
 ハナエは見た。若者の瞳が限界まで開かれる。強張る。乾く。咽喉仏が軋むように上下する。
「…死……っ……」
 悲鳴、を上げて泣くと思った。絶叫し、暴れ、錯乱してもおかしくなかった。
 若者は今再び死亡を認識する。その悲痛な瞬間をハナエは見守るしかないと思った。ハナエは目を逸らさないつもりで腹にぐっと力を溜めた。
 なのに、若者はそうしなかった。
「…トロイさん……」
 すっと肩から力を抜いた。亡骸の顎に添えていた手がぱたりと地面にずり落ちた。そこから動いて、左胸の上に当てられる。次いで耳の下を探る。いやに手際よく、鼓動のないことを確認しているのだ。確認したら、また手はだらんと土の上に滑り落ちる。若者は完全に虚脱する。
 つまり、諦めた、のだった。
 ハナエは見ていられなかった。無意識に首を振っていた。
 現実を認めないならまだましだろう。喪失の悲しみに泣くならまだ慰めようもあろう。だが若者は、諦めたのだ。復活の奇跡を信じることはおろか、死に理不尽を感じることも、未練を持ち、死を後悔することも。もしもあの時こうしていたらを考えることさえ諦めている。
 諦めて、若者は現実に流されるのだ。
 こんな無力感は初めてだった。看病しながら、意識が戻ったらどう対応しようかと悩んでいたのがひどく遠い日のように思えた。ハナエにとって若者のそれは最も共感できない精神状態である。自分なら、誰か親しい人の死を前にして、若者のような心境に至るとは到底思えない。
「…トロイさん」
 若者はごく普通の声で亡骸に呼びかけた。返事を待つような沈黙の後、いきなり手首までを生花の塊に突っ込んだ。無作為に散らかし、何かを探し当てた顔で、ようやく一輪摘まみ上げる。小さな紫色の花弁だ。おそらくローズマリーだろう。
「…桔梗の、代わりに」
 若者はローズマリーを亡骸の胸の上に置いた。
 島内に咲いていないため、生花の中に桔梗はない。だから若者は桔梗に似た色のローズマリーで代用したのか。桔梗の――キキョウの、わたしの、代わりに。
 すなわちキキョウが若者の名であるとハナエは悟る。
 キキョウは亡骸に頬をすり寄せた。そっと墓穴へ頭を戻した。一度払った土を掬い、少しだけ眉を顰めると、亡骸の固く閉ざされた瞼の上に乗せる。自ら埋めるつもりなのだ。
「…トロイさん。……今まで、ありがとう」
 笑みすら漂う声である。
 お休み、と声なく囁いて、キキョウはトロイへ、深く、長く、口付けた。





 ハナエは客室の窓を開けた。
 キキョウのために用意している部屋である。が、ベッドは空だ。キキョウはまだ戻ってこない。
 窓を開けると夜風が生温く吹き込んできた。ほのかな月明かりが眠る町並みと丘の稜線を照らしている。丘の一角にある墓場はちょうど木々や他の建物に遮られて見えず、客商売としては良いことなのだがハナエは今だけ溜息を吐いた。これではキキョウの様子も見えない。
 葬儀が終わってもキキョウはずっと墓にいる。土饅頭ごとトロイを抱きしめるようにうつ伏せて、空に虚ろな瞳を向けて。きっと今も同じ姿勢でいるのだろう。心中何を考えているか、ハナエにももはや想像できない。
 悪いのはキキョウだ。とハナエは思った。二人が永遠に引き離されたのはキキョウのせいだ。もちろんハナエはキキョウの紋章にまつわる事情やトロイとの関係をほとんど知らないままである。けれど、あんなにあっさりトロイの死を諦められる人に、死の原因が少しもなかったとは言わせない。何か回避策が、解決策が存在していたと思うのだ。模索を諦めなかったならば、キキョウはトロイを喪うことなく、どこか居心地の良い土地に二人で定住し、幸せな人生を歩むことができたろう。
 ――幸せ、とは?
 ふと顔を上げ、ハナエは率直に自問した。幸せとは何だろう。ハナエのように、海賊の脅威が昔語りとなってゆく安全な島で親の決めた男に嫁ぎ、平凡ながら安定した仕事を持って、いずれ子を産み育てることか。毎日を穏やかに過ごすことか。もしかしたらハナエにも開けていたかもしれない別の未来、冒険心や好奇心が満たされる危険と隣り合わせの未来を、ハナエは捨ててここにいるのだ。
 ハナエは少々妥協してでも選んだ今の人生が幸せだ。だがそれは、あの二人にも当てはまるのか?
「二人は、あれで……最も幸せだったのかもしれないねぇ……」
 不意に結論が脳裏へ湧いた。
 ハナエだっていずれ夫と死別する。ハナエはきっとその時を、この宿で看取るか、あるいは看取られるかするだろう。それが明日でも数十年後でもトロイのように残虐、唐突な死ではなさそうだろうと思っている。だから自分が先に死んでも夫はそれなりにやっていくだろうし、夫が先ならハナエはしばらく悲しんでから宿屋の仕事へ没頭し、嫌いではないがそう情熱的に愛してもいなかった亡夫への思慕はだんだん忘れ、子供がいればその子と、いなければ親戚、友人、あるいは宿の客と、会話や食事を楽しみながら毎日の生活をつつがなく消化するだろう。ハナエにとって幸せな余生とはそういうものだ。
 けれどキキョウは違うと思った。現実に流されてゆく生き方の中で、短くとも確固たるトロイの存在を感じ取れたなら、それは時間という大河に刺さる一本の太い杭であろう。どこまで下流に流されようと振り返れば杭が見える。それはそこに在った証明だ。トロイと、自身こそ曖昧だろう「キキョウ」が。
 刹那の鮮烈な幸福、か。
 ほぼ弧だけの月を見上げてハナエはそっと窓を閉めた。月が滲んだ。窓枠もぼやけた。ハナエは涙を止められなかった。
 人は誰しも何かを失って引き替えに何かを得ているとして、なのにハナエには……キキョウの手に入れた幸福が、ただ哀れでしょうがなかった。





 翌朝早く、キキョウは宿へ戻ってきた。寝ずに待っていたハナエが思わず抱きすくめると、痛い、と言ってくすくす笑った。笑えるのだ、もう。それが心からではないにしろ。
「…トロイさんは、いつか先に死んでいたから」
 ハナエの心配が顔に表れていたものか。すっと笑いを収めたキキョウは、墓の方角を見遣りながらぽつりと呟く。だから、いつかこんな日が来ると知っていた。キキョウは静かに目許を拭う。
 等しく死の訪れるのが生命、トロイが先に逝く確証などこの世にあったはずはないのに。――あったのだろうか?
 キキョウはハナエの用意した朝食をものの数分で平らげると、また墓場へと戻っていった。定期船が入港する日までずっとああしているつもりなのだ。今までのキキョウを知っている者なら考えられない執着ぶりだが、ハナエには奇異としか映らない。葬儀ではそこまで執着を見せなかったのが、何で今さら、と不可解な疑問が募るばかりだ。
 そしてキキョウは、定期船が来るとあっさり島を去って行った。どうして、ああも奇怪だった墓への執着を今度はあっさり捨てられるのだろう。ハナエにはますます分からない。
 けれど、ハナエは見つけてしまった。
 島裏からの帰り道、わざと陸路で丘を経由した。真新しい墓へ手を合わせ、迷った挙句、道端で摘んできたローズマリーを墓碑に供えた。
 ト、ロ、イ。
 墓碑の根元には歪な文字が刻まれていた。見回せば近くに先端の尖った石ころがあって、それで苦労して墓碑を削ったようだった。キキョウは終日、墓場でこんなことをしていたのだ。やはり奇妙な人物である。
 そしてトロイのもっと下。土すれすれの境目に、小さく。
「……キキョウ……」
 ハナエは声に出して読み上げた。
 どんな気持ちで自分の名をも刻み込んだのか。考える間でもないことだった。桔梗の代わりに、と言った彼の言葉の真実が、やっとストレートに飛び込んできただけのことだった。
 ハナエは泣いた。共感、感情移入、しすぎてたまらなく苦しかった。
 幸せに終われない最愛の形がこの世には確かにあると思った。





 土饅頭に覆い被さるキキョウの姿は、その後数年、同じ日に見ることができた。けれどだんだん二年おき、三年おきと間隔が空いていって、ついには十年来なかった。キキョウは遠い国々へ独りで旅を続けていたのだ。国境、戦争に足止めを食らい、あるいは単純に距離の問題で、島への往復が一年では果たせなくなっていた。
 ハナエが息を引き取ったのは、その十年目の初夏だった。
 ハナエは不妊に悩んだものの一男一女の養子を取って、亭主の死後も快活に宿を切り盛りしていた。死因は老衰、珍しく疲れたといつもより早く自室に下がり、そのまま息を引き取った。枕元にはその朝摘んだローズマリーが散らばっていた。ハナエが死んだのは奇しくもその日だったのだ。ハナエはぎりぎりまで来訪を待って死んだのである。
 ハナエの後は隣島から婿を取った養女が継いだ。その次は養女の長女が継いだ。宿は女性が後を継ぐと決まっていたわけではなかったが、その後四代、女が続いた。宿は改築を重ねたものの、今も百五十年前と同じ場所に建っている。










「…キキョウ」

 旅装に身を包んだ若者は、口伝通りの名を名乗る。ローズマリーの花束を渡すと無邪気に喜び、慣れた様子でさっそく丘への坂道を登る。
 そこは、鎮魂の丘という。
 若者はまずハナエと刻まれた古い墓の前で膝を折る。花束から一輪を抜いて供える。黙祷する。若者はずいぶん長いこと手を合わせている。
 それから墓場の端まで歩く。立ち止まるのは、ハナエのものよりさらに古い無縁墓。
 若者はおもむろに墓の上へ座り込む。つうと墓碑を優しく撫でる。頭を垂れて、ひどく愛おしげに、土饅頭へ口付ける。花束ごと墓を抱きしめる。

 墓碑の字は、風雨に消えかかっている。







ずっと書きたかった、トロよんの最期、でした。
執筆がモロに体調の良くない時期でして、だからこそ重い話を書こうと踏ん切りがつけられたのかもしれないですが、肉体的にはとても大変な作業でした。
しかも何度書き直しても全然納得行かなくて、自分の力量に落ち込みまくった4ヶ月。
何とか完成らしき地点までこぎつけることができてとりあえず安堵しています。
ご感想などお聞かせいただけましたらとても嬉しいです。

あ、舞台となった島。
ネイとナナルを混ぜたような感じで私が勝手に作りました。
場所はオベルの南東あるいは北東のつもりです。
この島に宿星の誰かが移り住んでたらいいなぁと想像しつつ、具体的に思いつきませんでした。
チープーとか行商で寄ってそうですね。

そうそう、ローズマリーの開花時期は、秋から春あるいは春から秋、らしいです。
それ通年じゃねぇのかよっつう感じですが、気候やその他諸条件で開花期が変わるようですね。
ネイやナナルの気候だとどう咲くのか見当も付かず、今回はよんちゃんが一晩中外にいても風邪引かなさそうな初夏に咲かせることにしました。
あと花言葉もいろいろありますが、今回は「思い出、記憶」を使っています。
西洋では冠婚葬祭、葬儀にも用いるお花だそうです。

さてこの話、これだけだとあまりにもアレなので、蛇足がほんのちょこっとあります。
しかし読んでもさらにさらにアレです。
「キキョウ」→

20100309