「これでいいんでしょうか」
不安げな声。
問いの主はビュッデヒュッケ城城主にして此度の天魁星、トーマスである。
トーマスは昨夜の事態を事前に知らされていた。
否、正しくは、数日中に必ず起こるという予測を聞かされていたのである。
「ああ、よくやった」
応えるは短いねぎらい。
だがそれだけでトーマスはほっと顔をほころばせた。
窓際へ悠然と佇む、今や最も尊敬すべき先達となったトラン解放軍の英雄を睡眠不足の腫れぼったい目で見つめる。
視線に振り向いたアスフェルはやんわりと表情を緩めた。
「トーマスも少し眠るといい。おかげで充分時間は稼げたからね」
「はい」
「とはいえ、トーマスにはこれからが本題だ。君の商才に期待しているよ」
「はい!」
アスフェルは人を動かすのが本当にうまい。
アスフェルのためならどんなに辛いことでも張り切ってやってしまいたくなる。
トーマスが目指すのはそんな城主だ。
民の方向性をひとつにまとめることができるリーダー、それは炎の英雄などという過去の肩書きに依るのではなく、誰もが納得しうる指針を示し率いる大器でなければならない。
トーマスはアスフェルへ羨望の眼差しを注いだ。
ビュッデヒュッケ城は蜂の巣をつついたような騒々しい朝を迎えた。
守備隊長セシルはいつもどおり正門前に立ち、いつもどおり槍を構えていつもと異なる朝を見つめる。
「おはようござ……あ……」
今もまたひとり、若い兵士がセシルを振り向きもせず城外へ出て行った。
セシルはその背をぼんやり見送ると、宙に浮いた声をしまいこんで、また城内の喧騒へ目を戻す。
手持ち無沙汰である。
セシルはお揃いの鎧を着用する傍らの子供へ話しかけた。
「今日は何だかにぎやかだね! お祭りかなぁ?」
内海を背後に敷くという立地上、来訪者は常にセシルの眼前を過ぎる。
だから四日前の未明、当城を本拠に据えた炎の運び手にとっての敵、通称破壊者の二人がヒューゴに連れられてひっそりと門をくぐったのもセシルは知っていたし、その破壊者たちに随行する青年がいたのも知っていた。
どちらも軍師シーザーによって緘口令が布かれているから守備隊長でなければ知り得ぬ事実である。
しかしセシルは昨夜の騒動が破壊者に関わるものだと気づいてもいなかった。
セシルにとって、ある一点を除けば、どんな情報もさほど重みをもたないからである。
これはひとえにビュッデヒュッケ城と城主を守ることのみに主眼を置いた亡父の教育の賜物だ。
父の形見である大きな鎧は、セシルに異常なまでの忠義心を養ったのみでなく、思考力の停滞をも引き起こした。
つまり、城の安全に関わりのないことは思考するに値しないのである。
そして城を脅かすものは外から来るとのみ認識している――これもまた父の教えであったが、このため、内部で発生した騒動に関しては、己が職務に何ら影響を及ぼすものでないと見做していた。
幼いころからの刷り込みはそう簡単に変えられぬものだ。
いくら城内がざわつこうともセシルが破壊者暗殺未遂の報に耳もくれなかったのは仕方のないことである。
さらに、先ほどルビークの虫がいずこかへ飛び去ったのをセシルはもちろん目撃していたが、出立者が城主に危害を加えられるはずがないと識別しているため、これを守備隊長として城主に報告すべき事項であると捉えてはいない。
セシルは子供へ顔を向けた。
「……」
「そっか、声出ないんだったね、ゴメン」
子供はただ俯いている。
ぶかぶかの兜が子供の顔を隠し、ほとんど同じ身長のセシルからも表情は覗えない。
だがさして気にした風もなくセシルは笑った。
子供が無反応なことを訝しみはしても、理由が今朝の騒動にあるとは思い至らないからだ。
セシルは戦災孤児の取りまとめを任されている。
たいていが目の前で親を殺されていたり自身も刀傷を負ったりしていて、精神的に健常な子供はまずいない。
セシルは城主に命じられた任務の一つとして実に面倒見良く食事を取り分け部屋を割り振り、それぞれに簡単な仕事を与えては城になじませるよう取り計らっていた。
隣の子供は今日セシルとともに見張りをする役目である。
ほんの数日前に城へ来たこの孤児は、ビュッデヒュッケ城自慢の船温泉から見る景色と良く似た子供だ。
具体的に何がどう似ているかというとセシルがそこまで思考を深めるはずもなく、ただ感じの良い子供とだけ認識している。
セシルの視野は極端に狭いのである。
「あ、アスフェルさん!」
朝日を受けて白い水しぶきを輝かす噴水の辺りへ、散らばる水滴よりもなお眩しい賓客の姿を認め、セシルは槍を振り回した。
セシルは破壊者とともに入城したこの青年がトーマスと懇意にしていることを知っている。
ゆえに、例によって無害な男とのみ認識している。
セシルは丁寧に朝の挨拶を述べた。
「気持ちの良い朝だね」
アスフェルはセシルへ気安い笑みを寄越す。
「はい! 今週は晴れるって、ピッコロさんが占ってくれました!」
「それは朗報だ」
「とっても当たるんですよー!」
アスフェルは、城以外に興味のないセシルから見ても十分魅力がある。
尊敬すべきゼクセン騎士団長クリスにも似た風格があり、敬愛する城主トーマスにも似た穏やかさがある。
そしてどこか亡父に似た健気さがあるのだ。
今日のアスフェルはカラヤ族の衣装を身にまとい、しなやかな四肢と端整な顔立ちが一層際立っていた。
セシルはゼクセンの教えを受けて育っているから蛮族の装いは本能的に虫が好かない。
だがアスフェルが着るとそこまで嫌悪感は湧かないのだ。
ヒューゴたちに慣れてきたからなのか、アスフェルの精巧な造作ゆえなのか、セシルには判然としかねる。
「似合うかな?」
戸惑いを見通したように問われ、セシルは面食らった。
隣で子供が何度も頷く。
戦災孤児らは皆アスフェルになついているのである。
セシルも倣って首をぶんぶん縦に振った。
「ありがとう」
アスフェルは丁寧に微笑む。
セシルの前へ立つと、セシルではなく子供に右手を伸ばした。
兜の上から額のあたりを一撫でする。
そのまま手をひらひらとあげて、商店街の方へ歩いていってしまった。
「ねぇねぇスイちゃん、アスフェルさんがもう三十歳以上だって本当なのかなぁ?」
「……」
「ゲドさんも実は何歳なのかよくわかんないよね!」
「……」
やはり子供は何も話さない。
アスフェルの去った方をいつまでも見つめたきり、ほとんど反応も示さない。
戦争でよほどひどい目にあったのだろう。
いちいち気にしていても仕方がない。
慣れたもので、セシルは構わず、午前中いっぱいはひとりでしゃべり続けたのであった。