光陰流水 1





ことりと凭れてきた金茶の柔らかさに、気づけば息を飲んでいた。


腕の中の宝玉。
幾筋も傷のはしる頬は以前にもまして色素乏しく、か細く開かれた薄い唇は真冬の三日月のごとく白む。
「寝ちゃった……?」
というより、意識が保たなかったのだろう。
アスフェルの腕へ抱かれるルックは、どこかあどけない表情をさらしたまま再び夢路を辿っていた。
外は薄明。
あと四半刻もすれば城中が目覚めの息吹に満ちる頃合いだ。
そろそろ見慣れてきた、曙色からきつい夏空へと移る爽やかな空色をカーテン越しに捉えて、アスフェルは知らず苦笑した。
ルックをビュッデヒュッケ城へ運び込んでからというもの、アスフェルが眠るのはこうして東空の明らむ時分になってからで、それも日が高く昇る前には寝台を後にしている。
昨夜――もう今朝になるが、今もアスフェルが眠ったのはやはりほんの二時間程度だ。
連日の睡眠不足による判断力低下でも心配すべきだろうか。
だが睡魔はついにアスフェルを侵し飽きたらしい。
すべきこととしたいこと、そして昨夜――いや今朝の思い出に、頭はすっかり冴えてしまっている。
ならば裏工作は迅速に。
瞬きひとつでギアを入れて、なるべく傍らの傷ついた魂を起こさぬよう、アスフェルはそっとルックの下から腕を引き抜こうとした。

そして、息を飲む。


猫毛の柔らかさに、時の戻る心地がしたのだった。





十五年の歳月はアスフェルにとってあまりに長かった。
変わらぬのは己だけで、友もそして国すらも、形あるものはみな、時とともに様相を異にする。
それはアスフェルのように真の紋章を宿すルックも同様で、昔の孤独なまでの気高さと胸の痛くなるような潔さは、長かった別離の間にどこかへ抜け落ちてしまったように感じられた。
神に抗う。
世界を救う。
そのため紋章を破壊する。
……アスフェルにはどれもこれもが空しく響く。
他人を介して伝え聞くルックの風評は、ルックの真実、とアスフェルが信じてきたもの、から極めてかけ離れていた。
あの優しかったルックが、どうして。
アスフェルが傍にいれば、あるいは。
十五年の変化はひどく残酷にアスフェルの遅延を責めたてた。
心のどこかでふたりだけは変わらないと思い込んでいたのだろうか、アスフェルは、己の後手に回ったことを懺悔する以外にルックの変容を受け入れる術をもたなかったのである。
するだけ無駄な後悔がぬらぬらと意識の淵へこびりついた。
一方、もし責任をアスフェルへ言及しないとすれば、アスフェルにはルックが悪いという方向へだけは思考を進めることができず、ならば紋章の虚言のせいだと判ずるしかない。
するとアスフェルにおけるルックの位置づけは大いなる力に幻惑された末に他者を巻き込んだ自死へ向かわされた、つまり運命に束縛された被害者になるのだ。
アスフェルにはそんなルックがひたすら哀れでならなかった。
もちろん、めそめそ嘆く暇などはなく、できることといえばルックを守るためありとあらゆる手を尽くすことのみである。
(けれど、本当は怖かったんだ)
十五年間で変化したルックは、アスフェルの愛したルックではなくなっているかもしれない。
(俺は臆病だった)
閉ざされたきりの翡翠は何も語らず、あるのはただ灯し火の消えかかった身体。
(好きな気持ちは変わらないのに)
この十五年で最も変わったのは、当然あるべき変化を恐れるようになった己自身なのだろう。
ルックを追いルックのためだけに生きてきた十五年が、他ならぬルックの変化によって否定されたくなかったのだ。
だからルックのためだけに無我夢中で行動して、こんなにもルックだけにすべてを捧げていると証明したがって。
ルックを救うことができればかつてのルックらしさも取り戻せると、己をだましだまし鼓舞していたに過ぎないのだ。
情けない。
どこを愛しているのかはっきりさせないと不安だったなんて。
愛の理由を筋道立てて説明しなければ、アスフェルは論拠なく立つことすらままならない。
「本当に、情けない……」
昨夜までのアスフェルは、十五年もの間ルックを独りにした己への憤りで、焼き切れそうな思いに苛まれていた。
ルックへの不安を自己への戒めにすり替えて、惨めに縋っただけだったのだ。
深夜、目隠しは驚くほど簡単に拭い去られ。
早朝、ただひとつの真実に行き着くまでは。





アスフェルは金茶の絡む腕をそっと引き抜いた。
多くのしがらみによる束縛はルックの内面にも少なからず変化をもたらしていたが、それでもほとんど変わっていないとアスフェルには感じられた。
往時のルックを形成していた芯の強さや優しさ、素直とはいいがたい態度。
初めて見た嬌態すらも、昔のルックらしさが滲み出ているような気がして目頭が熱くなった。
ひとの善いところはそう簡単に変わるものではないのだろう。
いくら上乗せされた知識や苦痛で鈍ろうとも、きっと心の奥底で礎として有り続けるものなのだ。
(ルックを信じていて、良かった)
アスフェルは、そんな葛藤など片鱗も現出させなかったのだが、臆病な悩みが杞憂に終わったと知って安らいだ。
ルックの髪は十五年前より短くなったものの、以前と変わらず柔らかだ。
調達しておいたカラヤクランの普段着に袖を通し、ルックにも衣類を着せて、アスフェルは最後にそっと手を伸ばす。
さらり、滑り落ちる感触。
アスフェルは目を眇めてひとりごちる。
「ずいぶん短くしたんだね……」
長い金茶の揺れるのが好きだった。
風と戯れ、風になびくのがうつくしかった。
昔の半分もない毛先はアスフェルの手の平にどこか物足りない感触を残す。
昨夜までは確かに焦燥と捉えていた手触りを、今朝は心地よく受け止めすらできて、アスフェルは幾度も幾度も指先を通した。
髪はいずれ伸びるし、事物は悉く変遷し続ける。
風の紋章と融合しているというルックとて例外ではない。
それでもなお自分を追い詰めるだろうルックへ、願わくばアスフェルの変わらぬ想いが彼を救いますようにと、夢のような夢を描く。
「ルック、髪、ちゃんと洗ってた? 誰かに手伝わせてたら……ちょっと悔しいな」
アスフェルは空白の十五年を埋めるようにルックをいとおしむ。
窓辺で小鳥がさえずる。
新しい世界の到来を告げる。
すべては、これから。
炎の運び手による宿星戦争はこれから最終局面を迎えるのだ。


アスフェルは屈み込んだ。
ルックの耳元へ囁きを贈る。

昏々と眠るルックは、答えの代わりに僅か睫毛を震わせた。