夕照の黒い影 2





「やめて下さい」
荒れ狂う体の内からでも、理性的な言葉はすんなりと出た。
促すものはない。
封じるものもない。
誰もが無音の広場、トーマスはただ一言を通らせる。
「……もう、やめて下さい」
雑踏に掻き消されそうな声量で、されどビュッデヒュッケ城のいたるところトーマスの肉声は届く。
トーマスは皆を見つめた。
皆がトーマスを見つめ返した。
掌を占めるは大罪の証。
トーマスは己が体ごと胴体から切り離された首を抱きしめる。

再びやめてと動いた口は、もう音声を伴わなかった。


トーマスの全身は赤く濡れそぼり、見るものの視線をひどく釘づけにする。
手だけでなく、腕も服もどす黒い赤。
夕陽よりも冴やかに赤き血の色だ。
見回せば誰ひとりとして血に染まらぬものはなく、されど誰ひとりとしてトーマスより赤いものはない。
夏の夕暮れ、陽は落ちる。
朱色は次第に夜色と混じる。

沈静。

「武器を、離して下さい」

神秘的なまでの静けさが、暗い広場を押し包んだ。



トーマスは抱きしめていた生首を天へ掲げる。
……ごめんね。
囁く唇がみっともなく戦慄く。
応える声など見出せない。
幼児の瞳は虚ろな乖離。
まさしく死の淵、絶望の渓谷。
何に怒る?
何に悲しむ?
誰が悪い?
どうすれば、止められる?
「この地ではいかなる戦いも認めません。民族も善悪も関係なく、戦に手を染めるものはすべて当城を出てもらいます」
誰も動かない。
トーマスの腹から出るのは悲鳴。
そして紛うことなきトーマスの決意だ。
気弱な少年はついに殻を脱ぐ。
城主は、今こそ城主となったトーマスは、すべてのものへ力強く宣言した。
「今からここは僕の城です。グラスランドにもゼクセンにも属さない、新たな国として独立します!!」
全土へ達す震撼。
僕の城、とことさら謳う。
僕が守る城の心意。
それは国を守る決心であり、命を守るこころざしである。
新国主は神にでなく稚き首にこそ誓う。
「ビュッデヒュッケは永世中立国です! 武器を離して下さい!!」
トーマスの声はずしりと腑に響いた。
重力が顕現する。
威圧が得物へ圧し掛かる。



広場は、凶器の落ちる音で静寂を破られた。



皆が次々に狂気を手放す。
聴覚を金属音が支配する。
血を吸う剣が地へ刺さる。
大地が血を吸い無に還す。
一斉に鐘を鳴らしたようなさざめきが鼓膜に乱反射した。
それは埋葬の暮鐘のようでもあり、なぜか祝福の暁鐘にも似通う。

ひとたび糸が弛めば、あとは砂時計のように絶え間なく、剣を地へ棄つる音がどこまでも。

からん、最後の一粒まで砂落ちきれば。
広場はようやく狂気が去って、傷の痛みと困惑だけが残留した。





気づけばトーマスの横にはアスフェルがいる。
トーマスが未だ掲げ持ったままの幼き首へ右手を差し伸べ、恐怖に瞠られた小さな目を閉じさせようとする。
強張った瞼は頑なに世界を見据えようとした。
死してなお何らかの意志を持つのか。
アスフェルはふと憫笑を刷く。
あまりに哀しい。
まるで泣哭しているようだ。
いや、泣いているのだ、きっと心で。
トーマスは思わず首を差し出す。
アスフェルはまだ鮮血の滴る切り口へ自身の頬が汚れるのも構わず唇を当てると、消えた命に慈しみの祈りを捧げた。
右手に溢れる闇は白い。
崇高な儀式を受ける心地がする。
光。
小さな、消え入りそうな。
ふらふらと漂う小さな蛍が闇中へ飲まれた。
燐光は儚い魂なのだと、ソウルイーターを知らぬトーマスにも理解できた。
闇はすうと右手へ鎮まる。
夜の帳へ浚われる。
アスフェルは穏やかな声音を四方へ向けた。
「両軍ともに死者はない。……その子だけだ」
広場はおびただしい量の血で赤く染められている。
なのに致命傷を負った者はひとりもいないという。
奇跡だ、と広場から声がした。
(奇跡?)
トーマスは肯んじず手元へ目を落とす。
奇跡……これを奇跡というならそうかもしれない。
武器を取ったものはひとりも死なず、まだ三歳にも満たない子が死んだ。
即死したのはこの子だけ。
多くの命が救われたことよりも、今は初めて目の当たりにした無意味な死がひたすら心に重く苦しい。
トーマスは唯一の犠牲者をかき抱いた。
まだぬくもりがある。
温かい血が胸元へ滲みる。
この熱。
ひとが生きようとする熱。
――命は、平等だ。
トーマスは城内へ凛と命じた。
「怪我人は、どの兵であっても等しく助けます! 動ける者は担架を!」
血に濡れた手を高く振り上げる。
トーマスは産声を上げたばかりの国へ唯一の指針を打ち出す。
「ビュッデヒュッケ国はどの勢力にも組せず、どの勢力も見捨てません!!」
アスフェルがかすかに頷いた。
トーマスはずっと真に中立たることを願っていたのだ。
ゼクセンでもグラスランドでもハルモニアでもない、命をひとつずつ同じ命として見なす中立さ。
今まで感じていた戦争の空しさはこれだったのかもしれない。
トーマスはようやく理解した。
されど振りかざした生首が、もう手遅れだと嘆くよう。
(今から、頑張るから)
皆の意識が変革するまで、そう、ひとはどんな状態からでも生まれ変わる力があるはずだから。
生きる命さえあれば、どこからだってより良い方向にやり直せるのだ。
(ねぇ、僕が、やり遂げるから)
そう伝えたくて首の瞳を覗き込む。
幼児の死眸は先ほどよりも和らいで見えた。