儀式の地を後にしたアスフェル=マクドールは、脇に抱えた二人、すなわちルックとセラの意識が丸三日経っても戻らないのでそろそろ焦り始めていた。
一刻も早く医者に診せるべきであろう。
しかし、破壊者二人を抱えた大移動はさすがに無理があった。
どんなモンスターが出ようと大抵の場所は自力で何とかなるものの、連れが危篤状態ではそう連日野宿をするわけにもいかない。
やむなく翌朝こっそり出立するつもりで大空洞に一泊したが、当然動かない二人を訝しまれ族長のもとへ連行された。
間の悪いことに族長のデュパはビュッデヒュッケ城に集った宿星のひとりで、一応服装は変えておいたものの死んだように眠り続ける二人を破壊者と見抜かれてしまった。
前の族長を破壊者に暗殺されたというリザードマンの恨みはごもっともである。
憎しみも露に殴り飛ばされ(二人の代わりを買って大人しく拳を受けてやったのだが)問答無用で牢に放り込まれた。
実はここまではアスフェルの想定内であり、ここからがアスフェルの力の見せ所になるはずであった。
さてどうやって逃げ出そうと傍らのルックを撫ぜながら思案していたところ、不運の代名詞たるアスフェルに似つかわしく、さらなる不運に恵まれてとりあえず牢からは難なく脱出できてしまったのである。
リザードクランと懇意にしているカラヤクランの少年の口利きによって、大空洞からのお咎めはなしで済んだ。
少年は、三日前にも会った真なる火の紋章の継承者。
名をヒューゴと言った。
「ありがとう、石の寝床は痛くて参ってたんだ。助かったよ」
「いや……」
相変わらず物腰の丁寧なアスフェルに完璧な造作で微笑まれ、ヒューゴは顔を赤くした。
想定していた中で最悪の事態かも知れない。
アスフェルは、この少年が炎の英雄の名を継いだことを知っていた。
そして、大空洞が何の報復もしなかったのは、正式に炎の英雄の名のもとで処罰するためであることも理解している。
それも想定内といえば聞こえは良いが、アスフェルにとって最も面倒くさいコースになったことには違いあるまい。
「何ていうか、言いにくいんだけどさ……」
案の定、ヒューゴが眠る二人を指し示した。
「そいつらがグラスランドに生きる多くの命を奪ったんだ。わかるだろ? オレはそのハルモニアの元神官将をやっつけなけりゃいけない」
この奔放な少年もアスフェルの威圧的な貫禄には遠慮せざるを得ないらしく、躊躇いがちに鼻の頭を掻いた。
「アップルさんがあんなだったからさ、シーザーが、シーザーってアップルさんの弟子なんだけど、あんたが破壊者を連れて逃げるだろうから探して来いって。オレさすがにまさかあの中で無理だろとか思ってたのに、あんた凄いや」
尊敬の眼差しを向けたヒューゴに、「愛の成せる業だよ」と口笛を吹くように軽く嘯いてアスフェルは相好を崩した。
アスフェルの子供っぽい表情と、対照的な大人びた単語に、ヒューゴが文字通り目を真ん丸にして恥ずかしげにしどろもどろする。
この子は戦いに向かない、とアスフェルはヒューゴを憐れんだ。
戦闘では俊敏そうな身のこなしとしっかり鍛えられた腕力でその才を発揮できるだろうが、こういった後始末や采配には不向きな気性である。
トップに立つものは、感情だけで善悪を決めてはならない。
自身が軍の頂点であるという自覚も薄いのかも知れないが、過去の英雄の威光を借りているようではとても今後のグラスランドを守っていけるように見えなかった。
裏返せば、これはアスフェルに有利かも知れない。
こうなることも予測して事前に根回しを済ませていたアスフェルは、気のいいお兄さんを装ってヒューゴの耳元へ近付いた。
「あのね、ヒューゴくん。俺も手伝うから、二人をビュッデヒュッケ城に連れて行こうか」
「そりゃ悪いよ、あんたこの男の知り合いなんだろ」
「そうだけど、アップルと久しぶりにゆっくり話したいし。彼女はまだ城にいるだろう? それから、俺はシーザーくんのお祖父さんと仲が良かったんだ。孫の顔を一度でいいから見てみたいなあ」
人懐こい笑みで目を覗き込んでやると、ヒューゴはあっさり陥落した。
「ああ、そうなのか? じゃあいいよ」
「ありがとう」
優雅に礼を述べ、アスフェルは獰猛な虎のようにすっと目を細めた。
どんなことをしてでも、ルックを救い出してみせる。
でも世界を敵に回したりはしない。
すべてのものを味方につけて、堂々と彼を救うのだ。
苦難には慣れているし、反逆にも慣れている。
あとはマッシュに教わった六韜三略、神算鬼謀でだれよりも上を行くだけだ。
運命など、俺が変えてみせる。
見えぬ糸に向かって、アスフェルは不適に笑んでみせた。
ビュッデヒュッケ城には、思わぬ幸運が待っていた。
城主である天魁星が、グラスランドを揺るがせた一連の戦いに疑問を持ち続けていたのである。
妾腹の子であり、世間知らずな面もあれど多少は人間の裏側というものを見て育ったトーマスは、現在のグラスランドの団結は破壊者という共通の敵を持ったが故の一時的なものに過ぎないと考えていた。
そして炎の英雄の名は、今が単なる一時凌ぎであることをオブラートに包み隠す良い素材である。
今は皆が戦争に飽いており友好やら和平やらといった奇麗事がいくらでも真実に聞こえるが、いずれそれぞれの思想の違いからずれが生じて以前のような領土争いに戻ってしまうであろう。
トーマスは、本当に平和な状態が続くにはどうすべきかを模索していた。
運ばれてきた瀕死の破壊者を見るなり有無を言わさず医務室に直行させ延命措置を施させたのは、トーマスが口先だけの平和論者でないことを感じさせる英断であろう。
星に選ばれた天魁星は、かつてデュナン統一戦争を勝ち抜いた都市同盟軍の盟主といい、情勢に流されない眼力を備えているようだ。
戦いの悲惨さや血生臭さに潰されず、責任を果たし意志を貫き通すことがトップに立つ者として必要な力である。
一見非力に思われるトーマスも内に強固な信念を秘めているのを見て取り、アスフェルは彼が名ばかりの城主ではないことを確かめたのであった。
「英雄って、何だと思う?」
とりあえず重体の二人をトウタとミオに任せたもののこれからどうすれば良いのか考えあぐねている小柄な背中へ問いかければ、トーマスは子兎のようにぴんと反応した。
掴みはオッケー、とアスフェルはほくそ笑む。
「あなたが指しているのは炎の英雄のことではないんですよね。一般的に、英雄とは、とても賢い人とかとても強い人で、ええと……」
指を顎に当てたままトーマスは作戦室の前の通路で立ち止まってしまい、アスフェルが苦笑しながら肩を叩くとはっと姿勢を正した。
尚も長考するトーマスに無言で執務室へ案内され、ソファを勧められてアスフェルは遠慮なく腰を下ろす。
トーマスは執務机の前を行ったり来たりして思索に耽っていたが、ややしてぱっと顔を上げた。
「誰にもできなさそうなことをやり遂げたひと、でしょうか?」
「そうだな、俺もそう思う。才知や武勇に秀でているだけでは英雄と呼ばれないだろう」
「どれだけ力があるかではなく、誰もがしなかったことをきちんとやったひとが英雄ってことですか」
「そんな気がしない?」
なるほど、と呟きながらトーマスはまたもや深く考え込んでしまった。
此度の天魁星は温室育ちではあるが、聡明である。
トーマスをそう評して、アスフェルは子を見守る親のような微笑ましい心地になりトーマスに好意を持った。
同じ宿星の誼みか惚れた天間星の影響か、アスフェルは毎回天魁星に甘い。
かつての己のように気を抜けば運命に翻弄される宿命だからこそ、打ち勝ってほしいと励まさずにいられないのだ。
まだうんうん唸っているトーマスへ歩み寄ってその頭をぽんと一撫でしてから、アスフェルは本題に入ることにした。
「グラスランドの紛争を、この城で牽制しないか?」
目を見開いたトーマスが餌に食らいついたのは言うまでもない。
かくてふたりの天魁星は、グラスランドに再び革命をもたらすべく奮起した。
片や愛する居場所のために、片や愛する者のために。
新たなる戦いの、始まりであった。