ふたりの天魁星 1





瞼を上げると、白い天井が見えた。


眩さに目を眇めて、ようやく首を横に倒す。
全身が石になったような重たさで、たったこれだけの仕草でもどっと汗をかいた。
こじんまりとした医務室の窓辺ではカーテンが風を孕み、大海を突き進む白帆のように勢い良く膨らんでいる。
開け放たれた窓から見渡せるのは、青い空と新緑の広がり。
若葉の匂いを吸い込んで、肺に染みる爽涼に噎せた。


生きている。


何故か涙が溢れた。
零れる前に目を閉じて、そっと胸へ仕舞い込んだ。


ここからが戦いの第二幕だと、理解していた。





何とか体を起こそうとするも、全く力が入らない。
爪先から喉あたりまで痺れに似た虚脱が支配しており、特に下半身は自分の体ではないように脳内伝達がふつりと遮られて素通りする感覚だった。
末梢神経は悉く断絶された如き魯鈍さで、感覚が指先から伝わらず手を上げることさえできない。
眼球だけを動かして、腕に点滴の針が刺さっているのに気付いた。
口を開閉するのもやっとのことで、周りの筋肉がびりびりと痛む。
ひどく消耗して強張る全身から力を抜こうとして、どうすれば力が抜けるのかも分からなくなって重い頭を枕に預けた。





ルックは直前の記憶に思いを馳せた。


紋章は、世界は、どうなったろう。
未来とはやはり大いなる紋章たちの意思であり、その神たる力の片鱗を前に人は成す術もないのであろうか。
ましてや一介の作り物には覆せるはずもない、秩序もしくは混沌の結末。
ルックは、結局は生を賭けた戦いでさえも、この世界にとって愚かな道化師でしかなかったのだろうか。


悲しくも悔しくもなかった。


少し情けなかった。


遣り切れなかった。





たんたんと軽快な足音が聞こえる。
おそらくここはビュッデヒュッケ城だ。
周囲の状況から当たりを付けていたルックは、自身の置かれた立場を充分認識していた。
助かったとしてもそれはこの数日生き永らえたというだけであり、いずれふさわしい刑罰が待っているであろう。
グラスランドに許されるとも、許されたいとも思っていなかった。
そもそも今のルックにとって許しとは、寧ろ一刻も早く紋章ごと破壊してもらうことである。
五行の紋章を集めても失敗した破壊が彼らにできるかどうかはともかくとして、もうじき訪れるであろう制裁と己の願望が一致しているのは好ましい。
ただ、どうせならあの地でさっさと死んでいれば良かった。
よくよく不運なところがあの男に似てきたと、とうに封印したはずの面影をぼんやり浮かべようとして鮮烈な紅を描いた時にドアが開き、懐かしい輪郭はくっきりしないまま霧散した。





ビュッデヒュッケ城の城主――つまり此度の天魁星と、シルバーバーグの血を引く軍師、炎の英雄の名を継いだ真なる火の紋章を宿す少年、そして真なる水の紋章の宿主、真なる雷の紋章の宿主がルックの病室を訪れた。
皆一様に険しい表情である。
誰がここまで運んできたか知らないが、彼らにすれば折角仕留めたはずのボスが生きているのだから厄介であろう。
早く、殺せ。
先に言おうとして、肺が動いてくれず声に出なかった。
そのまま肺機能が停止したかのように息苦しくなり、ルックは外野に意識を割く余裕もなく呼吸に専念した。


真なる火の紋章の継承者が早期処刑を主張した。
真なる水の紋章の宿主も同意見のようで、言葉こそ荒げないものの身動きする度に鎧がきしきし鳴っている。
真なる雷の紋章の持ち主は、ルックのように長く続く生と紋章の見せる未来に倦んだ眼差しでルックに多少同情した折衷案を出した。
軍師はルックの処遇をハルモニアに対する牽制として使えないかと算段を練っているようだ。
城主はただ皆の話を聞いている。
結局結論がまとまらず、全員押し黙ってしまった。


ここにきて初めて、気詰まりな沈黙に風穴を開けて城主が発言した。
それも身内ではなく、ルックに対してである。
「言いたいこととか、ないんですか」
おどおどした性質の少年に見えたが、意外にしゃんとした声だった。
城主は透明な、他人を疑ったことなどないような瞳でルックの真意を見通そうとする。
他の今まで避けられていた視線が、城主につられてぎこちなくこちらを向いた。
「ぼくは、あなたにこのまま死んでほしくないんです」
うまく呼吸ができず金魚のように口を開閉して疲れ切っていたルックは、それでもどうにか首を横に振った。
今さら言い訳も命乞いもない。
破壊してくれればいい。
そのまま横になった首を戻す力もなくて、視野に入った窓を見た。
蝶か何かがひらりと舞うのが見えた。
そういえば、誰が崩壊した儀式の地からルックを救出したのだろう。
セラはどうなったのか。
城内にある、やたらと肌になじむ懐かしい紋章の気配を辿ろうとするも細い絹糸を手繰っている覚束なさで、ルックは同様に覚束ない過去の記憶を回顧するように空の向こうを見た。
「あなたは、今生きていることがすばらしいとは思わないんですか」
城主がベッドの裾を握って畳み掛ける。
まだ声帯すら思い通りに動かせないルックは、無言を通すしかなかった。
「こいつにそんな気持ちがあるもんか! 百万の命を犠牲にしてもいいって奴なんだぞ!」
「やっとゼクセンの、いやグラスランドすべての平和が掴めそうなんだ。ここで情けをかけるわけにはいかない」
「トーマス、残念ながら、世の中には永遠に分かり合えない相手もいるんだ」
火の紋章の継承者が低いトーンで吐き捨て、水の紋章の宿主が武人らしい割り切りを示し、軍師は城主を宥めるように目を伏せた。
どうやら、ルックをここで、周囲の反対を押し切ってまで看病させたのはこの城主であるらしい。
憤った悲しげな声で城主は訴えた。
「だからって、多数のためには、はみ出るものは排除してもいいっていうんですか? それじゃあ結局このひとがやったことと一緒じゃないんですか!?」
雷の紋章の宿主がびくりと肩を震わせた。
「ぼくは、大きなものも小さなものも、平等に守られる城を作りたいんです。誰かのために誰かがしわ寄せを受けるのは仕方ないことなのかも知れないけど! でもこの城だけでも、ぼくが城主の間だけでも、ぼくはひとを身分や出身や考え方で差別したくないんだ! みんな平等に、いい方へ変われるようにしなきゃ、争いはいつまでたってもなくならない!」
城主はどんどん涙声になっていき、ついには喉の奥から搾り出すように呟いた。
「あなたたちだって、そうじゃないですか……自分と同じものだけが良ければそれでいいと思ってる……」


やはり天魁星だ。


ひとが背負う業、運命、繰り返し、そんなものを一笑に付して、そんなもの変えてみせると無限の可能性を見せてくれる。
ひとは変わることができるのだと信じている。
理想を理想で終わらせずに、実現すべく走り続ける無尽蔵の推進力を持っている。


天魁星のように強くありたいと願い続け、運命を変えてやろうと意気込んだ自分はこんな結末でしかなかったが。
天魁星ならば、もっと別の方法を見出せるのだろうか。
そしてどんなに困難でも、最良の方法をやり遂げて見せるのだろうか。


ならばやはり、星に選ばれた僅かな天魁星以外は、運命に翻弄され、天魁星の恩恵にあやかろうと縋るしかないのだろうか……。





思考が曖昧になり、意識が遠のいて、誰の声も聞こえなくなった。
さっきから琴線に引っかかる気配は生と死を司る紋章のものだと思い付いて、降りてくる闇に身を任せる気になった。
意識が落ちる寸前、やっと彼の顔が鮮やかに描けた。