キキョウに連れられてやってきたのは、のどかでこころよい島だった。
戸惑うアスフェルを先導し、キキョウはひたすら急な坂道を登ってゆく。高台に建った宿屋の前で立ち止まる。待って、と言ったきりアスフェルを残して一人で宿に入ってしまう。
アスフェルは仕方なく道端の花壇に腰を下ろした。
たまたま乗った船がこの島へ寄航すると知ってから、キキョウはほとんど言葉らしい言葉を発さなかった。寄り道していい、と尋ねられただけである。その顔があまりにも真剣だったので、アスフェルも深く追及することなく承諾したのだ。ところがこの島へ降りていよいよキキョウの表情が固い。悲痛すぎるほど。嫌な思い出でもある土地なのか、ならばどうしてわざわざ足を向けるのか。
程なくキキョウは宿を出てきた。なぜか花束を持っている。
「その花は?」
「…ローズマリー」
そう返されるとそれ以上聞きようがない。なぜ花束を持っているか、を知りたいのだが、キキョウには質問が通じないことが多いのだ。質問の意図を、用いた単語本来の意味でしか取ってくれないからである。
アスフェルは花束を覗き込んだ。懐かしい香りが鼻をくすぐる。ローズマリー、昔はよく食卓に出たものだった。肉と一緒にオーブンで焼くと香りが良いし、肉の臭み消しにもなるのだ。グレミオがこんがり焼けた肉を大皿に乗せて運んでくる。テッドとパーンが目の色を変える。テオが笑い、クレオが皆の皿に切り分けて……何とも懐かしい、今は失われた家族の団欒。仕舞われた思い出を喚起する匂いだ。
キキョウはまたも坂道を登った。この島はどこもかしこも坂道である。と思っていたらふいに景色が開け、見渡す限りのだだっ広い丘が広がっていた。道はなだらかになり、やがてなくなって、芝生の上をさくさく歩く。
「ここは……」
「…お墓」
丘の一角が静かな墓地になっていた。木々がさざめき鳥がさえずる、実に心地の良い場所だ。無数に立つ墓碑も土饅頭も、太陽の光を気持ち良さそうに浴びている。
迷いない足取りで墓碑の間を縫うように歩き、キキョウはある墓に花を一輪だけ手向けた。キキョウは墓参りがしたかったのか? だがその墓は本来の目的ではないらしい。さらに奥へ歩き出す。
今の墓は、と聞こうとしたら、キキョウがすいと古びた墓碑を指差した。
「…トロイさんのお墓」
トロイ。初めて耳にする名だ。
キキョウはだんだん重たい足取りになっていった。最後は亀より遅いくらいでやっと指差した墓の前に着き、割れ物を踏むような、ぎこちない動きで恐る恐るしゃがみ込んだ。アスフェルも隣に片膝を突く。
キキョウはゆっくり花束を供えた。手先が震えているようだ。ようやく花束を墓碑に立てかけると、力が抜けたようにぺたりとその場へ尻を下ろす。ぽつりぽつりと話し出す。
「…トロイさんは、港で死んだ。かばってくれた。笑って死んだ。ここに埋めて、さよならが言えなくて、今日も、言おうと思って来たけど」
言いたくない。キキョウは俯く。
「トロイ、とは?」
「…クールークの将。海神の申し子。わたしの、愛したひと」
キキョウは周りに生えている雑草を手慰みに抜いている。もう手入れする者もいない無縁墓なのだ。
「…アスのきもちが……わかるって言ったら、怒る?」
「怒らないよ」
「…アスがルーをさがしてるみたいに、トロイさんとそっくりなひとをさがした。でもいなかった。トロイさんはトロイさんだけ。死んだから二度と会えない。会いたい。愛していたら会える? まだ会えない」
「……キキョウ……」
「…ルーが、はやく見つかるといいね。死ぬ前に」
キキョウは本気でそう言っているようだった。何の前触れもなくべったり墓にうつ伏せて、まるで墓がトロイそのものだと言わんばかり、土の表面に柔らかく接吻した。そのまま微動だにしなくなる。きっと心で墓に語りかけ、彼の追憶に耽っている。
アスフェルはキキョウにとことん付き合うつもりで膝を崩して胡坐をかいた。日はまだ高いし、夜になってもそう寒くはならないだろう。邪魔しないから好きなだけ死者を悼むといい。棍と荷をまとめて横へ置く。
空が何にも遮られないこの丘は、ここが墓であるということを除けば日なたぼっこにちょうど良かった。ルックを探し続けて疲弊していた心身が多少癒されるようだった。
(死ぬ前に、か……)
キキョウも残酷なことを言う。努めて考えないようにしてきた可能性を、おかげで想像せざるを得ない。
真なる紋章は所持者を不老にするが決して不死にはしないのだ。あのルックが簡単に死ぬとも思えないが、もし……死んでしまったら。アスフェルは冷静に事実を受け止められるだろうか。
(――無理だ。絶対)
死の原因すべてに復讐するだろう。それでも嘆きは収まらぬだろう。どう足掻いても何に復讐しても所詮ルックのいない世界だ。いっそすべてを呪おうか。ルック以外の最後の一人になるまで魂を喰らい続けようか。それともルックを偲び偲んで永劫祈り続けようか。
ああ、その前に、さっさと死んでいるだろう。復讐はおそらく間に合わなかった自分へも向く。もっとも苦しむやり方で死んで、死んだ後もまだ苦しみに苛まれるだろう。あるいは極力善行を積んで死に、転生する来世に一縷の望みを託す方が、自身への復讐としてふさわしいかもしれない。転生などという概念をちっとも信じていないのだから。
ふと気が付けば、キキョウの口が動いていた。
「…あのね、トロイさん……紹介します。いっしょに旅をしている、アス」
アスフェルは何となく背筋を正す。墓に軽く目礼する。
「…ひとりじゃなくなったよ。アスも紋章をもっているから」
キキョウとアスフェルはこれからずっと一緒に行動するわけではない。たまたま現在同じ場所にいるだけだ。キキョウがしつこく付いてくるなら追い払うつもりはないけれど、多分キキョウはそのうち自分から離れるだろう。じゃあまた、と別れ、再び出会ったらしばらく一緒に旅をして、また別れ、を繰り返すんじゃないかと思う。今キキョウが言っているのも、単に真なる紋章を宿す仲間、境遇を同じくする者という程度である。
だからキキョウは、額を墓に擦りつけて囁いた。
「…ひとりじゃないけど……でも……たまに、寂しいよ……」
トロイの代わりはいないのだ。
ローズマリーが風に吹かれた。結わえが甘かったのだろう、リボンが解け、花束が風に荒らされた。墓の周囲に散乱する。キキョウにも一輪降りかかる。けれどキキョウはただ茫洋と地面を見ている。
散らばった花弁がすべて紫色なのを何気なく目に留めたアスフェルは、その意味にはっと息を飲んだ。
「紫――桔梗のつもりなのか」
「…うん」
「今日が、彼の命日?」
「…うん」
「……寂しいな……」
「…うん……」
キキョウは目許を手の甲で拭った。もう声を上げて号泣できるほど最近の出来事ではないけれど、今でも泣けるほど深く刻まれた出来事なのだ。愛する者の死は永遠にキキョウを穿つ楔となっている。
ローズマリーの花束を供えるのも儀式なんかじゃないのだろう。心を、ここに置いているのだ。体ごと置いてしまえないから。紋章を手放して死ぬわけにはいかないからだ。キキョウはそうまでして紋章を宿し続けたい。
だから、トロイは死んだのだ、とアスフェルは思った。キキョウはトロイと同じ寿命を歩むために紋章を外したりしなかった。キキョウが覚悟を決めていたからだ。紋章が他人に渡ればまた罰を与え始める、また戦争の火種になる。自分が所持し続けている限りそれらを防ぐことができる。
逆に言えば、キキョウは覚悟が足りなさすぎたのかもしれなかった。紋章を所持し続けることで他の大切なものを喪うという覚悟ができていなかったのだ。現にそのせいでトロイは死んだ。キキョウを庇わずとも、遅かれ早かれ、トロイは先に死ぬことになる。キキョウの心に傷を負わせて。キキョウにはトロイを切り捨てる覚悟も、トロイ以外の世界を見限る覚悟も足りなかった。
アスフェルは我が身を振り返る。
(俺は……選ぶな。間違いなく)
ルックを。
思い浮かべるのは翡翠。風にそよぐ金の髪。見下した目付き、生意気な言葉、なのに優しい眼差しと仲間を思う潔さ。どうしてもあれが欲しい。手に入れたい。手に入れられなくても側にいたい。せめて間近で見つめるだけでも許されたい。
「ルックに会ったらな、キキョウ。チビやひ弱という類は禁句だよ。キキョウの半分も食べないんだからね。けれど手料理はああ見えてうまい。実に素朴で古典的な味だ」
「…食べたい」
「すぐに叶うさ」
「…うん」
キキョウがゆっくり立ち上がった。服に付いた土を払い落とし、散らばっているローズマリーで丁寧に花束を作り直した。墓碑に並べる。リボンが風に煽られてなびく。
「…トロイさんとご飯食べたら、トロイさん、たくさん噛むから、時間がかかって、それで、お肉を半分くれる。待たせてすまないって」
「楽しい思い出だな」
「…うん。見るの、好きだった。かっこいい」
追憶は悲しいだけじゃないのだ。思い出す瞬間、当時の楽しさを追体験することにもなる。トロイがキキョウに残したものは、今のキキョウを支えるひとつの力になっている。
宿に戻ってたくさん思い出話を聞こう。アスフェルが言うと、キキョウは久しぶりにぱあっと満面の笑顔を浮かべた。