ベッドにぼふんと勢いよく倒れこむアスフェルを、まるで天変地異の兆しのようにぎょっと見たのはルックであった。
この、生まれた時から英才教育だけを受け、貴族として純粋培養されて育った、常に埃ひとつの乱れすらも持たないような、どこもかしこも整然としているアスフェルが。靴も脱がずにだらしなくベッドへ沈下しているのである。これを驚かずして何に度肝を抜かれよというのか。ルックは不意を付かれてしばしその背を凝視する。
「……だから、無理して食べなきゃよかったんじゃない……」
呆れた言葉を投げてやるのはあくまでも珍しいものを見たからであって、うつ伏せるアスフェルが苦渋と哀愁に満ちており、かつ多少はルックにも咎のあることを認識しているから、では決してない。身をベッドへ横たえたまま足先だけでよじよじと器用に靴を脱ぎ捨てるアスフェルを、ルックは帰りがけにもらってきた輪切りレモンを水差しへ無理に押し込みながら目で追った。顔面が青白い。まるで溝鼠の体毛を削ぎでもしたような不気味さだ。
「あんた、本気で顔色やばいよ。医者に見せる? ってかあんたが内科医なんだけど」
「……診断結果は自明だろう……」
アスフェルは肘から先だけをちょっと持ち上げてルックをふらふらと手招いた。ナメゾンビみたい、とは言えばまた拗ねるから心中へ秘そう。水差しを揺すってレモン汁を散らし、ルックは水差しごとアスフェルの横へ移動するとベッドの端へ腰掛けた。そっと額にかかる髪を梳きあげてやる。冷や汗をびっしり掻いている。
「で、処方箋はレモン水でいいんでしょ? 飲みなよ」
「……レモンどころか、千振でも効かない……。ルックじゃなきゃ嫌だ……」
「はぁ? 何言ってんの」
「千振は前に見せたろう……。俺の薬籠に入ってる……ものすごく苦い、胃腸薬……」
「また分かってて逸らすし」
「き、気持ち悪……」
アスフェルがうっぷと口元を押さえる。ゆっくりその背をさすってやると、余計気持ち悪くなるのかアスフェルは弱く眉を顰めた。慌てて左手を退ける。その拍子に右手へ持った水差しの中身がちゃぷんと危ない音を立てて回り、逡巡の末、ルックは水差しを足元の床へ置いてしまった。
ことの起こりは、またしてもいつも通りの痴話喧嘩にある。
その時たまたまルックの患者だったのがとうに隠居した元料理人で、仲違いさせたお詫びと治療のお礼に自宅で晩餐をと申し出てきた。断る道理はままあるまい。傷の経過も見たいしなどとつまらぬ言い訳で誤魔化して、ありがたく好意を受け取ったのが小春日和の今朝方だ。そしてついでにふたりの好みを尋ねられたのも同じく雲影ひとつない今朝方。起き抜けの診療であり、厚ぼったい眠たさとまだ苛立ちを引きずっていた腹いせでしかないのだが、――つまり、アスフェルの苦手なチーズ料理を挙げたのがこの紅葉深まる今朝方である。
アスフェルはチーズが大の苦手だ。ピザやパスタのように他の味と混ぜればおいしく食べられるのに、ナチュラルチーズになると無理らしい。特に柔らかい種類が駄目で、先ほどメインディッシュに饗されたようなチーズフォンデュはいくらワインが混ざっていたって見た目がぐにゃぐにゃと柔らかいチーズの塊である。何をどうしても受けつけない。
だがふたりの仲直りという大切な儀式の晩餐であり、ルックたっての希望によりフォンデュ以外もチーズだらけの食卓である。逃げ道はない。食べずばふたりの関係もクソもこれまでだ、とはアスフェルでなくともすぐに察することであろう。
アスフェルは終始笑顔を絶やさずに完食しきったのであった。
自らも靴を脱ぎ、二人分をベッドの脇へきちんと揃えつつぼんやり成り行きを思い返していれば、水差しを持っていたためわずか冷たい右の手に、アスフェルが鼻をすり寄せてきた。誠に衰弱著しい。窮屈そうな帯をほどいて上着を脱がすと中に着ているシャツの衿を寛げてやって、ルックはアスフェルが布団へ潜り込むのを手伝った。
――と、なしくずしに腕を引かれる。あまりにも弱々しい握力は拒めるくらい力なく、ルックは却って抗えなくなりアスフェルの腕に囲われた。
アスフェルの指先は冷たい。なのに額と胸元は熱い。鬱陶しくルックを抱きしめてきて、すん、とわざとらしく鼻をすする。こんな状態でも演技がうまいとは呆れたものだ。……演技でないなら空前絶後の珍事だが。
首筋の匂いを嗅がれたルックがそろそろ手綱を引こうとすると、アスフェルはそれを阻む絶妙のタイミングで口を開いた。いよいよもって確信犯に違いない。
「……俺が、……あれ……、何で苦手か。知ってたっけ……?」
「知らないけど興味もないからいい加減腕離してよ」
「三歳とか四歳……だったはず……。グレミオが、……あれ……は牛乳を腐らせて作るって……。俺にわかりやすく……発酵を説明したんだろうけれど……」
「だから興味ないって。――で、どうせやってみたんでしょ」
要するにアスフェルはあの味自体を苦手としているのではなく、幼少の精神的外傷、つまりトラウマが、似たような形状のものを前にすることでフラッシュバックするわけだ。なるほど、粉チーズは平気で食べられる理由がよく分かる。
「……ちゃんと、腐らせたんだよ……? ……あれは……石鹸を食べても、ああはならな……う」
「ちょっと、吐くなら洗面所行って」
アスフェルが喉をえずかせた。その目に涙が浮かんでいるのをルックは変に穏やかな心もちで注視する。多分、まだそうでない可能性も捨てきれないがおそらく、今のアスフェルに余力はない。だから、さっきから見せる奇態はすべて彼の珍しい一面なのだ。
稀なアスフェルを今ルックが独占している。足先の疼く出来事だ。
アスフェルはルックの肩へしがみついてきた。それで嘔吐感が収まるわけでもないだろうに。アスフェルの額がルックのこめかみへ熱く触れ、あまりの高温に思わず右手を当ててやる。ふ、と力を通せば冷たい風がアスフェルの額を吹き抜けた。
「……寒……」
「でもあんた、熱出てるよ」
「……だから寒気がするんだろう……。ルック、相変わらず、紋章で治せないものは……覚える気……ない、ね……」
「アスフェル?」
「ごめ……、も……」
声が急激に萎む。アスフェルは朦朧と不快を滲ませ、しゃべる気力も尽きたらしくルックをきゅっと抱いてきた。風邪ではないから移る心配はないのだろう。もう一度よく顔色を見、茹でた海老のようにきつく丸めた体勢を鑑みて、ルックはアスフェルのどこが最も苦しいのかを考えた。腹だろうか。それとも胃なのか。
(口、だよね普通)
ベッドの下へ置いてしまったレモン水は今さら取れない。アスフェルの薬籠から千振を取ってくることも。この力ない腕を振り解くことが、今のルックにはとてもじゃないができそうにないからだ。アスフェルがこんなにも必死でルックへ縋るなぞ今後しばらくお目にかかれないだろう。そもそもこの男がここまで弱ることからして普段ならあり得ないのだ。
ちなみに、普段、というのは彼自身の判断で行動できている時ということである。アスフェルの場合はそうでないことが極端に少ない。つまり、普段でない状態というのは彼の意に反して他者の言動が介入せざるを得ない状況であり、やむなく介入させてしまう他者というのはアスフェルにとっておそらく唯一。
ルックはちょっと目を閉じる。これ以上アスフェルを見ていられない。
絶対言ってやらないが、気づかせてもやらないが。
――アスフェルを守り癒してやりたい、と強く願う。
ルックはもう一度ぐったりしているアスフェルの額へ手を当てた。それが眉の辺りまで滑ったふりをして彼の黒い瞳を覆う。息を止める。瞼を下ろす。唇を舌でぺろりと拭う。どくんと心臓が高く鳴る。
意識しすぎなければいい。きっと自分を留められないから。
「……」
「……ル、ック……?」
アスフェルが間の抜けた声を出す。
「えっ、……ん」
「……」
もう一度。事実を口頭で突きつけられる前にそそくさとそこを塞いでしまう。何か言いかけたアスフェルはくぐもった音しか発せずに、先より少し長い時間をただ大人しく受けてくれる。
「……」
「……ルック……」
「……もっかいしたげるから……黙ってなよ」
「……うん……」
うん、なんてそんな返事、そんな子供っぽい、はにかんだみたいな声音で、とびきり嬉しそうな、――そんなの、初めて聞いた。だから意識したくなかったのにアスフェルの馬鹿。やっぱり止まらないじゃない。
愛しさはじわりとルックを満たし、訳なく瞼が熱くなる。ごめんね、とも、好きだよ、とも、言葉ではどうしても出てこないものを、ルックは何度も仕草で伝えた。そのうち本当に視界が歪む。気づかれないよう息を潜めてなお口づける。
お返しにアスフェルが目元を唇で吸ってくれて、やっぱり気づかれていたかとまたも愛しさがこみあげた。
アスフェルが眠るまで、ルックはずっと、飽きなく同じことをしていた。