緯睦び





アスフェルが寝ていて驚いた。
というのも、アスフェルがルックを残して眠る状況などめったに発生しないからである。出かけたっきりだったアスフェルが帰ってきていることは気配で何となく察していたため、驚いたのは彼が熟睡していたことひとつに尽きる。
あいつは変に生真面目なところがある。好きな子の前では眠りたくないというのもそうだ。勿体ないだの格好悪いだのといろいろ理由をつけてはいたが、要するにただの阿呆なだけだとルックは冷淡に分析している。
そのアスフェルが寝ていたものだから、ルックは思わず一酸化炭素中毒かと部屋に入るなり暖炉を覗きこんだりもした。真なる紋章を宿しているといっても死なないわけでは決してない。不老であるというだけだ。つまり、老衰やそれに伴う病気にはならないということであって、いくら殺しても死ななさそうに思われる図太いアスフェルといえど、致命傷を負えば間違いなく死に至るのである。
「アスフェル? 寝てるの?」
暖炉を見るついでに、暖炉の前の二人掛けソファへ窮屈そうに横たわるアスフェルへ声をかけてみる。腹の上に両手を組んだきり毛布一枚も被っておらず、足は遠慮なくソファからはみ出ていて、いくら立春前でもルックならそのすうすうする感触に耐えかねるところだ。しかしアスフェルは平気なのか、隙間なく目を閉ざし唇をきりと引き結んで、いつも通りのきちんとした表情でぐっすり眠りこけている。姿勢は足を除けばいつも通りにまっすぐだ。ソファから飛び出した足の、膝で曲がって床すれすれまで垂れているのがそこだけ不似合いな様だった。服は昨夜着ていったのと同じ黒。……喪の色である。
耳朶のダイヤに暖炉の明かりがちろちろと忙しなく照り返されるのを、ルックはしばらくぼうっと見つめた。
容態の安定しなかった患者が、昨夜ついに危篤状態へ陥った。こうなるともう為す術がない。アスフェルは死に際を看取りにいったようなものだった。こんな真っ昼間に宿屋へ帰ってきたのは夕方からお通夜をするためだろう。正装に着替えてまた出かけるのか、生きている患者にとってしか意味を成さない医者はお払い箱になったのか。アスフェルがこうして寝ているのだからおそらく後者に違いない。
「……また、喰った?」
先の呼びかけにも反応がなかったくらいだからよほど熟睡しているのだろう。此度も返答がないと分かっていつつ、いや、分かっているからこそ。ルックはそっとアスフェルへ問う。
旅を続けるにあたり、医者を兼ねようと言い出したのはアスフェルだ。そうすれば路銀も稼げるし、……わざわざ戦場へ出向かずとも、魂を喰らうことができるから、と。本当は二人とも戦場をこそ探さねばならぬ身だから、それがたわごとであるくらい互いにちゃんと分かってはいた。けれど、喰い続けねばならないのがアスフェルへ宿る闇の主であり、一時にどっと補給してあとは何年も喰いっぱぐれというわけにはいかないのである。さもないと、制御不能の一端ともなる。
ルックは暖炉を背に立った。アスフェルの表情が途端に暗む。今までただ端整に見えていた彼の寝顔は暖炉の火に彩られていただけであって、こうしてルックが遮れば、疲れきった目元を容易に窺うことができる。
つらかったろう。
眠るアスフェルを見下ろして、ルックはそっと溜息を吐いた。
「また、泣いたの……?」
アスフェルは、これだけ人の死に身近でも、未だに人が死ねば泣くのだ。馬鹿だ。本当に馬鹿だ。
死んだ魂はどうせ二度と元の肉体に戻らないのだから、アスフェルが喰おうと何の罪悪感も覚えることはない。アスフェルが喰えば次の命として生まれ変わることができなくなるのかもしれないが、それこそアスフェルの気に病む問題ではない。巷間で死後の魂を輪廻転生するものだろうと夢想しているだけで、それが真実かどうかは決してひとに分からないのだ。そんなことで懊悩するのは時間の無駄だ。答えなんて出ないのだ。
ルックはアスフェルの睫毛をなぞる。指の腹にさらさらと細かく睫毛が当たり、やはり、濡れ羽色のように思われた。濡れていたのだろう……つい先ほどまで。
アスフェルが泣くのはもっと純粋な理由であるともルックは薄々理解している。ただ誰かの喪われることが悲しいのだ。生きとし生けるものの必ず死ぬことが悲しいのだ。それは理屈ではない。幼少の頃に母親を亡くした体験や、あのあたたかく健やかだった家族に教わった感情だろう。
悲しいから泣く。泣いて、死者を悼む。
そうやって気持ちのままに泣くことのできる彼を――羨ましいと、心底眩しく憧れている。
もちろん泣くだけではない。感情のひとつひとつをアスフェルは綾錦よりも鮮やかに体現せしめる。楽しい時に笑い、怒る時に憤す。柔らかに微笑む。子供のようにはしゃぐ。老成した労わりを見せ、無我夢中でルックを抱く。彼の示す伸びやかな喜怒哀楽はルックにとって到底真似のできない玉樹に類する。
だが、そうやって彼がきらびやかに笑うたび、眼差しを逸らしたくなるのもまた本心なのだ。だって僕は相応しくない。僕は涙なんて出てこない。僕はきっと涙腺もないに違いない。
アスフェルは昏々と眠り続ける。窓の外では白い朔風が冷たく吹いて、白日のもと、ひゅうとルックを罵って聞こえた。ルックはその場へ膝立ちになる。起こさないよう細心の注意を払いつつ、アスフェルの胸へ己が耳を近づける。
もっと純粋に彼だけを愛したら、こんな思いはしないのだろうか。安らかに眠る彼を見守りながら、さも幸せそうに微笑めたらいいのだろうか。
(――苦しいよ。アスフェル)
いつぞや読んだおとぎ話を思い出す。眠り続ける姫の話だ。ここはもしかしたら世界という名の荊の城で、目には見えないたくさんの荊がアスフェルを取り巻いているやもしれぬ。だからちくちく痛むのだ。
呪いを解くにはね、ルック。姫の唇をあたためるんだって。
アスフェルの声音が耳元へよぎる。馬鹿馬鹿しいと呆れたルックへ、アスフェルは確か目を細めていた。そこがルックらしいなどと笑って、でも俺なら……どうすると、話していたっけ。
(……僕なら、)
そこから先はあまり考えていなかった。言葉として考えていなかった、というのが正しい。もはや言語として知覚できる範囲を逸脱していたのだ。
あふれる感情のまま、迸出する何かに身を任せ、そっとアスフェルへ頬を寄せる。瞼は閉じなかった。見ていたかった。荊がいよいよルックを強く押し返し、断ち切るために一言彼の名を呼んだ。
――と、初めて返る、まさかの反応。
「ん……、あれ、ルック……?」
「……おはよ」
「俺、もしかして今寝てた?」
「知らない」
「ルック、どうかした? 何かあったのか? ……何か、怒ってないか?」
「別に」
ふうと荊の花開く、不可解な感触のみが口許へぬるく名残を留める。ルックはアスフェルに背を向けながら慌てて両の頬を擦る。
アスフェルが目覚めたのは、ルックが唇を彼にあわせる寸前だった。