桔梗印





たまたま飛び乗ったカナカン行きの船で、互いに最初は身を強張らせた。
どうしてこんなところに真なる紋章の所有者がいる。
正面に呆然と立つ、どこにでもいそうな平々凡々とした少年を、アスフェルは尖らせた双眸で睥睨した。
首筋まで覆う、癖のないアッシュカラーの髪。
腰によく鍛えられた双剣を帯びて、すらりと外気に晒され伸びる足はばねのよう。
飛び抜けて大きい水色の瞳がやたら丸い。
際立つ瞳以外は特に目を引く造作でもなく、そこそこ腕に覚えがある風の、至って普通の少年である。
しかし一瞥して知れる相手の強大な魔力は、現在のところかなり低く抑えられていた。
つまり、自在に調節できるほど紋章の扱いに長けているということだ。
こんな場所で、こんな実力の持ち主と同船に乗り合わせるとは。
帆を張った定期船の甲板、昼下がりの柔らかな日差しを受けて、アスフェルは悟られぬよう身構えた。
ところが相手はそれよりも、アスフェルの紋章そのものに度肝を抜かれたらしい。
よたよたとアスフェルへ寄ってきて、あからさまに何か言いたげな眼差しでアスフェルを見つめてきた。
悪意は、感じられない。
「…あの、それって、その紋章、生と死を司る紋章……?」
もそもそと断片的に、少年は問うてきた。
どうやらハルモニアあたりの刺客ではないようだ、とアスフェルはこっそり胸を撫で下ろす。
下手な係わり合いは無益だ。
おどおどしつつも好奇心に勝てないといった風情で話しかけてきた少年を、アスフェルは得意の愛想笑いであしらうことにした。
「勘違いじゃないかな。失礼、良い船旅を」
少年はぽかんとしている。
アスフェルは会釈とともに脇を通り過ぎようとした。
が、相手が放った次の一言で、アスフェルは駐留を余儀なくされることになったのだ。
「…あの、でも、それって、テッドのだよね……?」

元天魁星同士は、こうして面識ができたのであった。


「お前、誰だ?」
水色の目玉は、きょとんと瞬きした後はにかんだように歯列を見せた。
次いで、屈託なく笑う。
「…キキョウ。ええと、昔、テッドの友達」
よろしく、とためらいがちに出されたのは左手だ。
なるほど右手の呪いに気を使ってくれているらしい。
さりげなく振舞っていたつもりだろうが、それでもアスフェルに勘付けるほど右へ触れられることを厭うていた親友の姿が思い出された。
相手は確かにテッドの知り合いであろう。
アスフェルは一転して冷たい目線を返した。
「ご明察ついでに。今俺が持っているということは、テッドはどうなったかわかっているんだろう」
「…え?」
暫し、間があった。
まるで考えてもいなかった様子である。
水月のような瞳が虚空をさまよった。
ややしてびくりと身を引きつらせ、みるみる瞳に涙を溢れさせた。
「…う、う、うわあああぁぁぁぁぁあん」
キキョウは突然甲板にへたり込んで泣き出した。
周囲の視線が一斉に向く。
やだ、あんな子供を泣かしてっ。
喧嘩かしら?
いえいえ、片方は高貴な顔立ちをしているから、きっと従者に無理難題を言ったのよ。
船上をまたたく間に憶測が飛び交った。
目立ちたくなかったのにと、アスフェルは頭を抱えたい気分である。
とりあえず老若男女問わず好評の笑顔で周囲を黙らせることにしよう。
「キキョウ、ごめんね。俺たちもうふたりっきりなんだから、仲良くしなきゃ天国であいつに笑われちゃうよ。ね、泣き止んでくれないかな?」
麗しい兄弟愛を演じて、アスフェルはキキョウを床から引っぺがした。
まったく泣き止む気配のないキキョウを、船べりまで引きずった。





アスフェルは少年の予想外の経歴に感嘆した。
キキョウの言うことが本当なら、いやキキョウはどう見ても嘘なぞ吐けるような質ではないから、キキョウはこの軟弱さで百五十年以上前に天魁星を務め、群島諸国連合をまとめ上げたのだ。
所持しているのは罰の紋章。
一〇八星を集めたその奇跡として、宿主の命を削るはずの紋章が無制限で力を発揮できるようになった。
ただし他の人間に宿るとまた呪いが復活してしまうため、キキョウは永遠に罰の紋章を持ち続けるつもりだということである。
「…テッドは、その時、天間星だったんだ。ええと、あんまりみんなと仲良くするような人じゃなかったけど。その紋章すごく強いから、たくさん助けてもらった」
キキョウは要領を得ない口調で何とか話を締めた。
アスフェルは思わず苦笑を漏らす。
「あいつにも、そんな初々しい時代があったんだなあ」
紋章の呪いに怯える様など、あのふてぶてしく逞しい親友に似つかわしくない。
ひとり笑いを噛み殺すアスフェルへ、キキョウが恐る恐る尋ねてきた。
「…あの、テッドは、どう……」
アスフェルは右手をかざす。
「この中だ。俺が、喰ったよ。テッドの……親友の、頼みだった。俺は無力だった」
右手がちくりと痛んだ気がする。
馬鹿言ってんなてめぇ、俺は今、充分幸せなんだぜ!
テッドの声が届いた気がした。
――願望の錯覚だろう。
頭上の空と同じ色をした瞳でアスフェルの右手をじっと見ていたキキョウは、再び両目に涙を浮かべた。
アスフェルは青深い海を見据えて続けた。
「テッドの一生のお願いだから。俺は、この紋章とこの世界を守る。あいつはきっとここで見てくれているよ」
「…そっか」
キキョウは俯いた。
涙を腕で一生懸命擦っている。
百五十年以上も生きたのに、キキョウは口下手で純粋で、他人を疑うことを知らない。
こんなやつに出会えたのならテッドの三百年も辛いことばかりではなかったのかもしれないと、アスフェルは、もう会えない親友を切なく思った。
キキョウはずいぶん落ち込んで、欄干へ腕を凭せて海に涙と鼻水を落としている。
何というか、風になぶられる後れ毛から見え隠れする項のあたりや、むき出しの膝小僧やらが、やけに乳臭い。
例えるならまるで娼館のような匂いだ。
「キキョウさ」
「…何?」
「フェロの紋章とか、付けてないか?」
「…付けてる。一人旅には便利だって、リノに」
あっそう、とアスフェルは鼻をつまんだ。
リノとは誰か知らないが、キキョウの性質を知り尽くした男だろう。
自分には心に決めた大事なひとがいるのだ、そうそうこんな淫靡な少年の誘惑にかかったりはしない。
しかし純粋な裏側に潜む性の匂いが、普通なら我慢できないんだろうなあ、と客観的にも納得させられる背徳感。
アスフェルは一応テッドのよしみで忠告しておいた。
「キキョウ、あんまりいろんな人とヤらない方がいいんじゃないか?」
「…えっ、何で」
「分かるよ、臭いから。寝なきゃ相手の気持ちが分からないなんて、情けないだろう」
「…何で」
「だから分かるって。キキョウ、口で自己表現するの下手だろう。だから誘われたらとりあえず断れなくて、ヤるだけヤって、相手がほだされてくれるから味方が増える、と。良くないよ、そういうの」
「…気をつける」
「よし」
聞き分けの良い子供みたいな頷き方をするキキョウへ、アスフェルはにこりと微笑んだ。
どういう因果で初対面の相手、それも一応百五十歳ほど年上にこんな突っ込んだ話をしているのかも分からない。
ただアスフェルは何となく感じていたのだ。
キキョウとは長い付き合いになる。
天魁星のつながりだけでなく、もっと深い、紋章による永い生がもたらす関係。
これから互いに協力することも出てくるだろう。
アスフェルは漠然とそう悟っていた。
キキョウががばっと顔を上げた。
「…あの、アス……何だっけ」
「アスフェル」
「…アス、恋してる?」
「だからアスフェルだって、って、はあ?どこから出てきたんだその推論は」
「…あの、これだけ長く話してて、そういうコトにならなかった人ってほとんどいないんだけど……」
キキョウは心底不思議そうな目でアスフェルを見上げてきた。
身長差はそうないはずなのだが、姿勢が悪いのか、キキョウはアスフェルを上目で見る。
「…アス?」
キキョウがぱちくりと目をしばたいた。
「キキョウ……確かにキキョウの言う通りなんだけれど……。だから、もっと自分を大事にしろって、今俺が忠告してやったばかりだろうが……」
「…あ……ごめん」
「いや、いいよ、俺もいきなり言い過ぎた」
キキョウを相手にすると、アスフェルはテッドのような口調になってしまう。
こういうのをお兄さん面と言うのだろうか。
テッドもこの淫乱と稚気が共存する少年へ、何か確かなものを伝えてやりたいと思ったりしたのだろうか。
アスフェルが目下のところ傍目も振らず片思い中の翡翠へ向ける気持ちとは異なり、キキョウへはただ慈しんであげよう、導いてあげようと思う。
キキョウの心のうちに深く根付く謙遜、生後間もない頃から召使いとして卑下され続けてきた過去を、アスフェルは敏感に嗅ぎ取ったのかも知れなかった。
「仕方がないな。俺が常識っていうものを教えてあげよう」
「…それって」
「しばらく一緒に旅しないか? 俺の目的に付き合ってもらえるなら」
「…いいの?」
「キキョウこそ」
「…うん!」
キキョウはぱあっと目を輝かせた。
きっと今まで、生きるためだけに当てもなく旅をしていたのだろう。
さっきまでの湿っぽい空気は途端に消し飛び、キキョウは踊り出しそうに喜んでいる。
感情を現出するのが不得手だからか、極端に喜怒哀楽が単純化されて強調され、それが余計感情に振り回されている印象を受けた。
ぺろりと出された舌がいやに紅い。
アスフェルは苦い顔でキキョウの鼻頭をぺしんと弾いた。
だからそういう乳臭い顔をするな、と早速叱りつける。
キキョウは、嬉しそうに首を竦めた。





偶然の出会いから一年余り、アスフェルはキキョウとともに旅をした。
そして今でも、キキョウとの擬似父子関係は続いている。
尤も、今はキキョウにとって母親代わりもできたようなものだから、擬似親子関係か。
意外と面倒見のよい母親役のおかげで、キキョウはすっかり一人前になった、のかも知れない。

「…アス、何で苦虫噛み潰した顔してる? せっかくの男前が猿みたい。ルーと喧嘩した?」
毒舌が移ったのだけは、確かである。







ついにキキョウです!
楽しかったー!
私の幻水キャラはどいつもこいつもアホばっかりだ!

しかもおまけがあります。
「桔梗印、見参」へ→

20051121