桔梗印、見参





アスフェルがひどく汚い顔をしていた。
もともとが丁寧に彫られた彫刻のような外面だから、汚いといってもその歪められた顔付きでさえ美しく見える。
初めて出会った時から変わらない綺麗な相貌は、神様の最高傑作だとキキョウは思っていた。
「…アス、何で苦虫噛み潰した顔してる? せっかくの男前が猿みたい。ルーと喧嘩した?」
夕暮れ時、せっせと取り込んだ洗濯物を畳んでいたキキョウは、窓辺で優雅に玉露を啜るアスフェルへ話しかけた。
キキョウとアスフェルは、ひょんなことから知り合って今では密に連絡を取る仲だ。
密と言っても半年に一回ほどで、それも定期的にではない。
互いに拠点とする宿屋を決めており、何かあったらその宿屋へ手紙を預けておくというものである。
だから運が悪ければ、預けて数ヶ月は相手に渡らない。
そしてたまに連れ立って旅をして、たまに互いの抱えているものへ協力し合う。
そんな関係が続いていた。
キキョウは、燃えるような落日の中いっそ神聖なまでの容貌を晒すアスフェルに、構ってほしくて話しかけた。
けれど出てくるのは中傷のような言葉ばかり。
それでも昔よりは遥かに語彙が増えたのだが、どうもアスフェルの次に慕う人のおかげで特定の分野ばかり多くなったように思われる。
アスフェルは溜息とともに返答を吐き出した。
「君がここ一週間ひょこひょこついてくるせいだよ」
意味がわからない。
キキョウにとって、語の本来の意味を超えた用法や、遠回しに他の内容を示唆するような言い方は理解できないのである。
体を触れ合わせればてっとり早く分かることでも、言葉は普段相手と目を合わせようとしないキキョウに奥の意味まで伝わらない。
とりあえず普通に考えればキキョウを嫌っているような発言であるが、アスフェルは絶対に好いてくれていると信頼しているので、きっとこれが八つ当たりというやつなのだろう。
「…アスは責任転嫁するから言い返しなってルーが言ってた」
「じゃあ俺にルックとふたりきりの時間をくれ」
果たして、アスフェルはさらにげんなりした表情を示した。
アスフェルが恋人の名に弱いのも習ったし、恋人と毎日でもセックスしたいというのも学んでいる。
どちらもキキョウには馴染みのない感覚だ。
そんなキキョウが今ここまで察しただけでも驚嘆すべきことで、いつものキキョウならここまで把握できていれば邪魔にならぬよう気を使うところでもある。
しかしキキョウは、ここへ確かに己の居場所を作ってくれていると、何度も教えられて理解していた。
だから思ったことはすぐ言っていい。
感じたことはありのままに受け止めればいい。
繰り返し繰り返し、アスフェルが教えてくれたことである。
「…性欲は良くないって言ったの、アス」
「これに関しては誤解だ」
「…顔も仕草も格好いいのに、何で性格だけ格好悪いんだろうって」
「ルックが言ったのか」
「…ルーに聞いたら怒られた」
「えっ? ……そうか、一応、愛されてるのかな……」
「…違うと思う」
「ちょっとこっちにおいで、キキョウ」
アスフェルは完璧に微笑んでキキョウを手招いた。
ああ、この顔は、あの時と同じ。
初めて会った時も、アスフェルはこんな表情をしたのだ。
キキョウはそこからすべてが変わった過去へ思いを馳せた。





定住することは叶わないので、ただふらふらと放浪していた。
カナカン行きの定期船に乗ったのも、たまたまそこに船があったから。
まさか自分と同じ真なる紋章に巡り合うなんて、思ってもいなかったのだ。
キキョウは目の前の気配を的確に捉えていた。
テッドと同じ、生と死を司る紋章。
テッドのような深みはまだないから、せいぜい宿して十年といったところか。
紋章の我侭を危うく押しとどめているような魔力は、潜在能力の高さが窺える。
漆黒の瞳、漆黒の髪、若草の薫るバンダナが風にはためいて、鮮やかな緋色の胴着を纏うは非の打ち所のないバランスで構成されている四肢。
自分とそう変わらない体格なのに、威風堂々とした大きい輝きが、そこだけ太陽の中心であるかのように熱く眩い。
海風が前髪をさらりと煽った。
まるで漆黒を引き立てるためだけに調合されたような肌色の額。
黒曜の瞳には柔らかな紅と微睡むような藍が溶け合っている。
びっくりするくらい綺麗な顔立ちである。
目が合った瞬間、キキョウは息が止まるかと思った。
完全に魅了されて、感情を総動員しても収まらない動悸がキキョウを揺らした。
「…あの、それって、その紋章、生と死を司る紋章……?」
たまらずキキョウは話しかけた。
相手の警戒したような雰囲気が若干緩められる。
しかし相手は、美しさにばかり目を取られて蚊帳の外になっていた事実――テッドの死を突き付けた。
揺さぶられる鼓動、外に出たがる激情。
体の内ではどうしようもなく抑えられなかった。
キキョウは百五十年ぶりに、大泣きしたのであった。

完璧な、隙間なく整った笑顔を見たのは、この時である。
完璧に綺麗なので文句のつけようもなかったが、どこか偽作めいて見えたのも、同じであった。


そのひとは名をアスフェルといった。
促されるまま、キキョウは今までのことを語った。
こんなに長く口を開くのは初めてだ。
相手が聞き上手なおかげで、キキョウはどんどん話した。
楽しい。
会話がこんなにも楽しいものだなんて、キキョウは今まで知らなかった。
アスフェルはいきなり変な忠告をしてくれたりもしたが、それでさえアスフェルが望むのならそうしようと思ってしまう。
アスフェルは、他人の心を汲むのがうまいのだ。
だからアスフェルの言葉は、ひとつずつ自分のためだけに言ってくれたものとして重みがある。
キキョウをキキョウとして見てくれる。
それがとてつもない喜びだった。
キキョウは今まで、他人の心を会話の中から読み取ろうとはしなかった。
どうせ大抵の相手とはすぐ性交するんだし、その時勝手に本音を言い出すのだから、わざわざ会話を弾ませる必要もない。
自分はただ従順にさえしておけば良かったのだ。
キキョウは顔を上げた。
「…アス、恋してる?」
アスフェルは鳩が豆鉄砲を食らったような表情をした。
そんな顔をしたいのはキキョウの方だ。
「…あの、これだけ長く話してて、そういうコトにならなかった人ってほとんどいないんだけど……」
長年の経験からして当然の帰結である。
今まで他人の言葉など咀嚼したこともなかったが、アスフェルの話や態度から考えればすぐにこれくらい悟ってしかるべきだろう。
伊達に百五十年以上も生きてはいない。
キキョウは今まで考えもしなかったから気づいた例もなかっただけである。
そう、ちゃんと相手のことをよく見れば、セックスせずとも分かることがあったのだ。
相手をよく見ようと思うから会話を大切にできるし、そうしたら会話そのものが楽しくて、しかも相手の気持ちが分かってくる。
分かれば相手を尊重できるし、対等な関係を築くこともできるのではないか。
どうして今まで努力してこなかったんだろう。
アスフェルは凄い、とキキョウはすっかり惚れ込んでしまった。
インプリンティングされた雛のようなものである。
初めてキキョウに世界を魅せてくれた。
キキョウにとって、それは人生をひっくり返すほどの衝撃であった。
「一緒に旅しないか?」
アスフェルが言ってくれなくても、キキョウは自分から頼み込むつもりだったのだ。
初めて自分から、これが欲しいと。
望みを持った、瞬間だった。





「キキョウ?」
気遣わしげな声で現実に戻る。
皮肉げな、完璧な笑みを浮かべていたアスフェルは、慈愛のこもった瞳でキキョウを見てくれていた。
他人の顔から表情を見出すことができるようになったのも、アスフェルのおかげである。
キキョウは思いつくまま口を開いた。
「…初めて会った時、もっと優しかった」
「今は冷たいか?」
「…ルー優先だし」
「それは当然言うまでもなく真理として当たり前だな」
アスフェルは唇をほころばせた。
雛としては、親鳥が構ってくれなくなるとものすごく寂しい。
しかし、親鳥が自立を促してくれているのは分かるのだ。
いつか期待に応えたい。
一生懸命キキョウの引きこもった心を温め、キキョウらしさを認めてくれたアスフェルに、キキョウは信頼を以って甘えてみた。
「…ルーとどっちが大事?」
アスフェルはキキョウを抱き寄せた。
ぽんぽんと頭を撫でてくれる。
本人は気付いていないようだが、これはアスフェルの癖だ。
励ましや慰めや慈しみがすべて詰まった、アスフェルの大事に思う者へしか向けられない癖。
「俺はルックのためなら何でもできるけれど、キキョウのためには手伝ってやるくらいしかできないからね」
「…手伝ってくれるんだ」
キキョウは笑った。
そろそろまた一人旅に出ようと思った。
次の望みは、人見知りを克服することだ。
そしてアスフェルに褒められたいと、その時を夢想してみる。
(さすがキキョウだね。偉い)
(あんたにしては頑張ったんじゃない?)
何故だか自然に、ふたり分想像できた。
ひどくやり甲斐のある挑戦になった。







キキョウも坊様の被害者だったという説。
フェロモンを垂れ流しているのはむしろ坊様だと思われます。
ちなみにキキョウは長く話したくないので何でも縮める傾向があるようです。
エレノアすらもエリィかエルだったと私は信じています!
そしてリノの名はリノしか覚えてないんだよ、アホだから!
スノウはスー、チープーはチー、シグルドはシー!
やばいかわいい!!
ということでルックはルーです…。
(うわあ馬鹿丸出しだよキキョウ、多分この子自分の名前も危ういんだよ…)

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20051121