キキョウがずらりとおもちゃを並べた。
「…ボール。つみき。がらがら。くるま。ビニール」
「うぉい、おもちゃじゃねぇもんが混じってんぞー」
一つずつ指し示しながら名称を教えているらしい弟の声を背中で聞きつつにこやかにバイトの給料をカウントしていたテッドであったが、最後の一つへ思わず牛乳を吹きかけた。ぱんと手のひらで口と鼻を押さえたものの、咽喉の変なところに牛乳の味が染み渡る。マズい。
「…ビニール」
「だからソレおもちゃじゃねって」
「…ビニール」
キキョウはビニール袋を親指人差し指だけで摘み上げる。がさがさビニール音がする。それをぱさんと真下へ落としてはまた摘み上げ、また落とす。キキョウは飽きず繰り返している。
「――ってキキョウお前ソレどこに落としてんだ!」
「…アスの顔」
「チッソクしたらどーーーすんだこのボケ! アホ! あかちゃんはてーーーねーーーに扱えって一日何っべん言わすんだノータリン!」
つまり、キキョウはこう見えて、あと数日で生後五ヶ月を迎える赤子をあやしていたのであった。だがいささか方法が誤っている、かもしれない。かもと推量系なのはテッドもあやし方がいまいちわからないからだ。赤子というものはこんなにも小さくてぐねぐねで寝るか泣くかミルクを飲むかしかしないものか。しかも寝たら寝たで生きてるか死んでるかわかりゃしない、起きていたらそれはそれでいつ泣くかと怯えながらつついてみたり撫でてみたり抱き上げてみたりするしかない。まったく、扱い方がわからない。
「…アス、笑う」
テッドの叱責を不満そうに、あのキキョウが不満そうに! 不満そうに、だってアスフェルが楽しそうに笑ってるんだからいいじゃないかというような反論をわずか二単語に込めてきた。これは大した成長だ。あのキキョウが、家へ引き取られてきた直後ははいとうんしか言えなかった壮絶にヤバい生い立ちのガキが、十歳も年下の赤子に影響されて感情豊かになってきたのだ。テッドはほろりとしてしまう。誤魔化すように牛乳を飲む。
「だからって顔に落とすこたないだろ。貸してみ、こーやってな、」
テッドはアスフェルの寝転がるカーペットへキキョウと同じように正座した。無意識に正座してしまったのは、やはり慣れない子守へ緊張しているからだ。正座して、量販店のロゴが入ったビニール袋を取り上げて、適当に丸め、赤子の顔の正面から斜め上五センチくらいのところまでゆっくり移動させてやる。往復させつつたまに手のひらで押しつぶす。がさがさぐしゃっと音がする。
「うー」
アスフェルは精一杯首を仰のけてビニール袋の動きを目で追った。手も挙げる。だが手は床と平行にしか動かせないし、仮にまっすぐ挙げられたとしても自分の頭頂へ届かないほど短いのだ。テッドのビニール袋を掴むにはまだ距離がある。
腕のみならず足も伸ばしてビニール袋を掴もうとするアスフェルを、テッドは何とも不思議な面持ちで見守った。右手右足だけぴんとした姿勢がまったくみどり児らしくない。赤ちゃんというものはもっと姿勢正しく丸まっているものだとばかり思っていたから。
いや、違う。体を伸ばせるようになったのだ。変なところでテッドは感慨を抱いてしまった。日進月歩という言葉がぴったりだ。そういえば首を仰のけている、ということは、首を動かせるようになったということである。すなわち首が据わっているのだ。新生児の頃は、後ろに仰け反るだけならまだしも、前方にも首を支えられず敬虔な信仰者より深く頭を垂れていた。瞬きさえも覚束ないで。それがたった五ヶ月前の様子だなんてこの子を見た誰が信じられよう。
「うー」
「…アス、うーってゆった! 二回!」
キキョウがはしゃぐ。その声につられてアスフェルが笑う。大口を開けて笑うのではなく、ちょうど上弦の月のようにきれいな半円で微笑んでいる。
(……うわ、)
テッドは鼻の下を手で覆った。じゃないとゆるむ口元や頬を止められない。
未来はこういうものではないか。ふと思う。今はできないあらゆることを、時間と経験をかけてみるみる可能にする力。未来を掴む力。それは未来そのものであり、テッドもかつてはいつか備わると夢見ていたもので、そして今、眼前に具現する無限の未来。すでに起こってしまったことはいくら自らの力不足でも意志不介入でも決して覆ることはない。だがどこからでも、いつからでも、未来でやり直せるし選び直せる。なぜなら人は日々成長するからだ。端的に示す、赤子のように。
自分にもこんな時代があったことをテッドはぼんやり想像した。では、テッドも、未来そのものだったのだろうか。ならば今も。歩み出せば、広大な未来が拓けるのではなかろうか。
ビニール袋を揺らす手のことをテッドは忘れ去っていて、アスフェルからだいぶ遠いところをふらふらしていた。アスフェルが必死で手を伸ばす。横向きになり、エビのように背を反らす。
「…アスー!!」
キキョウが叫んだ。同時にアスフェルの泣き声がした。テッドはびくっと我に返る。そして下を見て……さらにびくっと目を見開いた。
アスフェルがうつ伏せになっているのだ。首を持ち上げ、テッドのビニールを中指に引っ掛けて。泣いている。涙が閉め損ねた蛇口のようにぼとぼと落ちて顎からカーペットに染みる。
ビニール袋を掴もうとテッドの手を追ううちにまず胸部が床に着いたようだ。不思議なもので、その体勢になると今度は仰向けに戻れないらしい。ねじれた下半身をうつ伏せの上体に合わせることしかできないのである。
キキョウがテッドの肘を握った。目が光っている。あまりの興奮に声が出ないのかしばらく口をぱくぱくした後、一気に甲高く大声を出した。
「…ねがえり! テドに! できた! アス!」
「――お、俺、見逃した」
「…ころん、よいしょ!」
「いやその説明じゃ俺あんまわかんねーけど、それより初じゃね!? 初めてだよな!? ちょ、パーンさーん! こいつ、見て、早く!!」
二人の喧騒に圧倒されたかアスフェルは泣き止んでいた。両手を鳥のようにばたつかせるキキョウをじっと見ていて、うつ伏せの口から飲めないよだれが垂れている。よだれかけ買ってやろ、とテッドは親戚の叔父さんのような気分に浸った。アスフェルは床に必死で突いている手の丸っこく小さな指先で不器用にカーペットを引っ掻き始める。
這いつくばるアスフェルとテッドの目線がかち合った。するとアスフェルが、ぱあっと満面の笑顔を見せた。テッドはぎょっとし、だがじわじわ迫る熱い塊へ抗えず、唇を噛み締めながら笑い返す。
アスフェルの笑顔が目に沁みる。テッドを見つめるアスフェルの顔はぼやけて見えにくくなっていった。
キキョウは手先が割と器用だ。テッドほどじゃないけれど、例えば簡単なおもちゃ程度ならささっと手作りできるくらい。袋状にした布へ綿を詰めて胴体、腕、足、顔をそれぞれ作り、顔には長い耳を二つ取り付けて、目鼻や口はカラフルな糸で刺繍する。尻尾は太めの紐で代用、胴体には綿とともに柔らかい音の鳴る鈴を一つ入れておいた。最後に全部を繋ぎ合わせれば、黄色や黄緑やピンクの水玉柄のうさぎ人形が完成である。
「…アー、スー」
背筋をすっと伸ばした姿勢で上手に座るアスフェルの横へ、キキョウはうつ伏せに寝転んだ。ごろん、転がって仰向けになる。
広いリビングは冷房がやんわりかけられている。床に敷かれたカーペットが少しぬくくてちょうどいい。隣接するキッチンからシチューの匂いが漂ってきて、とんとん、ことこと、包丁や何かの音がする。本当は炒め物のざあざあいう海鳴りに似た音がいちばん好きだけど、それは同時に悲しくなる時があるから今の雰囲気にふさわしくない。――ふさわしいって? 何に?
キキョウは思わず自問した。
「…今日、日直、した」
言うと、寝転ぶキキョウを見下ろしているアスフェルが積み木を置いて笑いかけてくる。消しゴムより小さい手を伸ばし、キキョウの鼻を触ろうとする。いや、目だろうか。どちらにせよ実際は口に指を引っ掛けられて、歯をなぞるように触られた。キキョウは鉛筆よりずっと細いそれを前歯で甘噛みし返してやる。アスフェルがくすぐったそうな笑声を上げる。
「日直ですか。キキョウくんはえらいですね」
「…あ、うん」
アスフェルがきゃっきゃ言うのに混ざってキッチンから遅れた返答が来た。アスフェルに報告したつもりだったのに。あと、えらいって何で? 何が? 日直で黒板消して給食のいただきますして日誌書いて担任の先生に提出したら先生は理科室の準備室にいて、それで、……思い出したくない。
けれどキキョウはキッチンへとりあえずうんと頷いた。えらくないことをしたわけじゃないから消去法的にイエスでいいんじゃないか、そんな感じの判断だ。テッドがいたらまた罵倒されたんだろうけど、キッチンでじゃがいもたっぷりの具だくさんシチューを作るグレミオは、えらいですよ、ともう一度キキョウに言ってくれた。
同じ面積だけれど床より広々として見える天井へ控えめながらも豪華に花咲くシャンデリアの電球を寝転んだままぼうっと見ながら、キキョウは手の甲で瞼を擦った。
「うー」
り、りん。鈴が鳴る。
「うぅー、う、あー」
おでこにぼてんと軽い衝撃。見れば黄色の水玉模様。それが払い落とす前に自らゆらゆら遠ざかった。と思ったらアスフェルが手首へ尻尾を巻きつけるようにして持っている。うさぎ人形だ。鈴の音が不規則に耳を打つ。
アスフェルはキキョウが作ったまま床に放っておいた人形を自力で拾い上げたらしい。座る位置が先と少々ずれている。手にぶら下がる人形を食い入るように見つめ、他方の手で胴をわし掴みにする。引っ張ったり振ったりする。そしてぱくんと、長めの耳を口に入れた。
「…うさぎ」
「キキョウくん、どうかしましたー?」
「…うさぎ」
急に頭が苦しくなった。違う、嬉しい。多分。あまり覚えのない状態だけど何かが溢れそうで叫びたくなって飛び上がりたくなって、準備室で強制的に与えられた横暴な快感じゃなくて静かに心を満たしてゆくふわふわのもどかしい息苦しい、ありがとうありがとうと天に百万回も伝えたくなるような。
アスフェルがおもちゃを使ってくれたよ。鈴を上手に鳴らしてくれたよ。
「…好き」
そう言いたかったはずが、まったく関係のないことを口走っていた。ずっとここにこうしていたい、こうして誰かに少しでも反応を返してほしい、自分が生きていることを許されるみたいな気持ちになって嬉しい、親に捨てられ周囲に疎まれる汚らわしい自分でも何か宝物をちゃんと手にしているんじゃないかと思える、どれもしっくりこなかったがおそらくこの辺りを引っ括った結果好きの一言でうまくまとまったような気がした、多分。キキョウは普段からごく単純な好き嫌いの二元論しか識別できない。
「うー、ん、うえ、あー」
突然アスフェルが泣き出した。キキョウはぴょんと飛び起きる。何で泣くのかもどうしたらいいのかも皆目分からない。どうしよう。キッチンへ助けを求めるという順当な対処法さえ焦るあまり失念していて、どうしようどうしようと繰り返し唱えた次の瞬間になぜかキキョウは自然な動作でアスフェルを抱き上げていた。わ、重い。おとついの一日前にこうやってからわずか三日でまた体重が増えたのだろうか。
「坊っちゃん? どうしました? ――おや、泣き止みましたね。キキョウくんにだっこしてほしかったんですね」
「…そうなの?」
「そうですよ。ほら、坊っちゃんのお顔」
おたまを握ってグレミオがキッチンから走ってきた。けれど肩へ抱き上げているからキキョウからは見えないアスフェルの顔をおたまで指してふふっと笑う。キキョウは見ようと身を捩ったが、アスフェルが手足をばたつかせるので危なっかしくて余計にぎゅっと力を入れた。余計に顔が見えなくなる。ミルクの匂いが鼻を撫でる。
ちりんと腰で音がした。
「それ、うさぎですか。キキョウくんが作ったんですか」
「…うん」
「坊っちゃん、よっぽど気に入ったんですね」
「…え」
今度は小刻みに鈴が鳴る。アスフェルの声が耳の裏から直に聞こえる。手足がいよいよ盛んに動くのでキキョウは両腕でしっかり乳児の体を支え、庭へ繋がるガラス扉を鏡代わりにして自分とアスフェルの全身を映した。
手作り人形の胴体を、アスフェルはまだ大切そうに握ってくれているのが分かった。
テッドは祈るような思いでソファの端に腰掛けていた。古くから親交のあるマクドール家に念願の長男が誕生するのだ。テッドの隣にはテッドの祖父、その隣にマクドール家使用人のグレミオ、向かいのソファにはマクドール家居候であるクレオとパーンが、固唾を呑んで分娩室の扉をひたすら睨みつけている。気まずいを通り越し、皆じっと息を潜めて待っている。
奥方は先に破水して緊急入院となった。その後病室から陣痛室、陣痛室から分娩室へ移ったという報せを受け、テッドは祖父とともに昨日の夜からずっとここで待っている。もう……日が昇ったのだろうか。昇ったのなら初日の出である。新しい年が明けたのだ。
一家の当主であるテオ・マクドールは奥方の出産へ立ち会うために分娩室へ入っていった。中には奥方が破水した時たまたま傍にいたキキョウもずっと付き添っている。家族でもないのに、席を外したら、と咎めはしたが、テオがそれを引き留めたのだ。実子のようにかわいがってきたのだからなんてテオの台詞にテッドは不覚にも感極まって目が潤んだ。それが三時間ほど前か。
分娩監視装置の電子音がかすかに中から聞こえてくる。早まったりゆるやかになったりする音をまんじりともせず聞き続け、耳が音に慣れすぎて聞こえなくなり、また意識すると聞こえ、それを何十回も繰り返した。
奥方は体が弱い。出産に耐えられないとホームドクターに言われている。けれどどうしても産むと言い張り、今、まさに命をかけて分娩へ臨んでいるのだ。テッドには自分の命より大切なものがあるなんて想像もつかなかった。だから奥方の無事を祈りつつ今でも実感はあやふやで、時間ごと自分が浮遊したような気分をずっと味わっていた。たまにソファを触ることで自分が浮いていないと確かめる。
「……ひか、り?」
ふっと目元に何かが横切り、テッドは声を出してしまった。まばゆい太陽の欠片が降ってきたような、それが眼前を横切ったような、不思議な光が見えたのだ。
皆がじろりとテッドを睨んだ。分娩室を睨んでいた目でテッドを見たから目つきが険しいままだったのだろうけれど、祖父の沈痛な視線やクレオの切羽詰まった眼差しがテッドを容赦なく突き刺して、テッドはすんませんと肩を縮めて頭を下げる。ついでに見回せば付近に窓はひとつもなかった。廊下の照明も昨晩からずっと点いたままだし、分娩室の扉の上で分娩中と灯る赤いライトもずっと点いたままである。何が光ったのか、何か反射したのか、テッドは変な既視感を覚え必死になって辺りを探す。
その時だった。扉の奥から歓声がした。テッドはソファから弾かれたように立ち上がった。扉を見る。耳を澄ませる。ちら、とやはり何かが光って目の錯覚かと数回瞬く。
最後に瞼を開く寸前、おぎゃあと産声がした。
産まれた! グレミオが立ち上がる。クレオも、パーンも。祖父は目頭に親指を突き立てている。産声は徐々に大きくなり、滑らかになって、廊下を舐めるように響き渡った。クレオがすとんと座り込む。パーンが両手を握り締める。
だがほっとする間もなかった。幼い泣き声が重なったためだ。キキョウである。胎児は無事、では母親は――皆が同時にほぼ同じことを考えた。グレミオがごくりと唾を飲み込む音がする。
テッドは我知らず先頭切って、分娩室の扉をがんがんと二回叩いた。
「はい、どうぞ」
だが三度目に振り上げた拳があっさり空を切る。あまりにもあっけなく扉が開かれ、テッドは助産師によって分娩室内に導かれた。枕元に佇むテオ。ベッドへ頬を乗せるようにして床へしゃがみ込むキキョウ。処置を続ける医者、そして首を抱え上げられて泣いているのが、たった今産まれたばかりのマクドール家長男、赤ん坊だった。臍の緒がまだ繋がっている。
衛生のためこの服をとか何とか横から言われたような気がしたが、まったく聞こえていなかった。
「産まれた」
テオがこちらに笑顔を向けた。キキョウが奥方の手を握り締めながら安堵のあまり泣いていた。泣き声はこれだったのだ。紛らわしい。テッドはテオの背中からベッドをそうっと覗き込む。奥方は、首を捻るようにしてテッドを見ると、穏やかな表情でにっこり笑った。
産まれたわ。
奥方の口元がそう動いた。臍の緒を切られた赤ん坊が奥方の胸に乗せられる。血と黄緑がかった白い粘膜が至るところこびりついている。全身の皮膚が赤黒い。髪は羊水に濡れてべっとり頭へ貼り付いていて、目は閉じたまま。瞼が眼球の形に盛り上がっている。口は力強く呼吸するようにしっかり大きく開かれていて、小さい体のどこからと思うほど大きな泣き声が上がっていた。
奥方が恐る恐る点滴の刺さった手を挙げた。人差し指の先だけで子供の頭にちょんと触れた。そこで初めて子供の頭は奥方の手のひらで覆えるくらいに小さいと知る。生きているのが不思議なほど小さい。
赤ん坊の指がぎゅっと動いて奥方の接触に応えた。それで、テッドは、奥方の重い決意をやっと理解した。
命より大切なものは、命だ。
「頑張ったな」
テオがそっと囁いた。この人らしい労わり方だ。キキョウがぼろぼろ泣き喚き、テッドはおかげでみっともなく泣き出さずに済んだ。だがあと少しで泣きそうだ。誕生は、ただそれだけで、尊厳と祝福、そして生命を強烈なまでに体現している。
分娩室は運動会で全力疾走した直後の達成感と疲労の匂いが充満していた。それを吹き飛ばす産声が、キキョウのうるさい泣き声をもゆっくり宥めていくようだ。テッドはテオを見る。奥方を見る。そしてもう一度、奥方の胸にしがみ付く新生児へ目を向ける。
ちかっと何かが明るく光った。