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遊園地、の、入り口前でわざわざ待ち合わせをした。アスフェルが三十分先に家を出て、乗り放題付きのチケットを買っておいてくれた。僕は時間差の三十分でおにぎりと玉子焼きとプチトマトだけの弁当を作って持ってった。
「――手作り弁当……!?」
「何を今さら」
「しゃ、写真、撮っておいていい?」
「だから何を今さらって」
「初デートにまさかのサプライズ手作り弁当だぞ!」
「あんたいつも僕の作った料理がつがつ食べてるじゃない」
「それとこれとを同一視するなど言語道断ッッ! ルックはそういう部分が世間ずれしているというか、そこがかわいいと言ってしまえばそれまでだけれど、俺のロマンや夢やときめきをもう少し解してくれても罰は当たらないと思う!!」
「……はいはい」
アスフェルはほんのり涙目だった。僕はさすがにうんざりしつつ、多少こそばゆい気持ちにもなる。お弁当、作ってよかった。
僕たちは決して今日が初遊園地というわけではない。むしろ、世間一般の父親像に適うことをしたがっていたアスフェルは、小学生の僕をよく遊園地に連れてってくれた。けど家族にも友人にもなりきれない二人はどこかしら雰囲気が浮いていたのだ。僕はもともと晴天の戸外が好きではないし、妙にぎくしゃくしたその雰囲気のせいもあって、遊園地といえば気まずい、めんどくさいという負の印象しか残っていない。
でも今日は別だった。恋人としてはじめてのデートをしよう、とアスフェルが言ってくれたから。時折園内を吹きすさぶ寒風もけたたましく鳴るアトラクションの稼動音も音楽も、僕たちの初デートへふさわしいものに感じられる。真冬の休日にこんな場所へ来る知り合いはいやしないという安心感も相乗している。
僕たちは精力的に遊び回った。メリーゴーランドに乗って、ローラーコースターに乗って、昼は芝生に小さなレジャーシートを広げた。アスフェルの買い足してくれたポップコーンやフライドポテトを僕はぺろりと食べてしまった。それからアシカショーを見たりバンジージャンプに挑戦したりウォータースライダーでこの寒い中頭に水しぶきを被ったりして、体力の続く限り僕たちは園内を歩き回った。
そして夕方。僕たちは大観覧車に乗っている。
「……ありがとうな。ルック」
観覧車は遊園地の全景のみならず向こうに副都心まで一望できる。夕陽が目に眩しいけれど、ゴンドラ内は程良く暖房が効いていて気持ちよく、疲れた身体を癒してくれているみたいだ。夕陽のきつい時間帯が穴場だとアスフェルの言った通り両隣のゴンドラはどっちも無人で、僕たちは誰にも見られる心配をせず、片方の座席へぴったり並んで腰掛けていた。
「ううん。僕こそ」
「もっと嫌がられると思っていたんだ。父親役の次は恋人役を演出か、ってね」
僕たちは手を繋いでいる。アスフェルの親指に少しだけ力が込められる。
「恋人ならかくあるべき、と思ってここを選んだことも否定できない」
アスフェルは良くも悪くも肩書きに拘る男だった。場面に応じて自分を使い分ける節がある。
けれどどんな時もアスフェルらしく見えるのは、こうありたいと彼自身の望んだ行動をしているからだ。まったくの虚像を演じるのとは訳が違う。
そしてアスフェルがこうも肩書きに執着する最大の理由は、僕のため、に他ならなかった。
「でもこれがあんたの言うロマンなんでしょ」
「……見透かされてるか」
今もきっとそうだった。世間から僕を切り離さずに、誰もが経験しそうなことを僕にも経験させるため。同時にアスフェルの世俗的な願望を満たすためでもあるだろうけど、夕陽に照らされるアスフェルの苦笑が彼の心情を表している。
「別に、そういう細かいこと、いちいち気にしなくていいのに」
「あのなルック。しない男は最低だよ。好きな子の笑顔を見たい一心で寒中水泳もやってのけるのが真の男だ」
「僕ムリ」
「俺もルックが泳ぎ出したら周囲に熱湯を注いで回る」
アスフェルはしばらく僕を見つめた。かわいいとか愛しいとか大切だとか、痒くなるほど甘ったるい視線は僕の居心地を悪くさせる。僕は戸惑い、夕陽に目を移し、続いて繋いだ手に目を落とした。アスフェルがとんとんと指の腹で僕の手の甲を数回叩く。
小さい頃は手なんてしょっちゅう繋いでいたけど、その時は先導されるような、支えられるような、大人と子供の繋ぎ方だった。今は逆で、互いの皮膚を接触させたい気持ちが手を磁石みたいに引っ付けている。観覧車を降りても離したくないと思う僕は羞恥をどこに置き忘れてきたんだろう。
日増しに図々しくなる僕を、僕は改めて実感していた。飢えた獣が脇目も振らずに極上の餌を食らうよう。僕は命に価値を見出せただけでもアスフェルへ感謝すべきなのに、もっと近くへ、もっと奥へとアスフェルを貪欲に求めている。アスフェルがまたそれらを簡単に叶えてしまうひとだから僕の欲求は一気にエスカレートするばかり。このままじゃアスフェルをすり減らし、仕舞いにはアスフェルを空っぽにしてしまうかもしれない。
「もし……あんたが本当に泳いだら。僕は、あんたから離れると思う」
「ルック?」
「だって、僕のせいであんたがそんなことやらかすんでしょ」
「……例え話だよ」
「現実にそんな状況があったらあんたは躊躇わないってことでしょ。ありがとうって思うけど、僕はあんたの負担になりたいわけじゃない。あんたが苦労して僕が笑っても、きっとその後、僕は自分が嫌になる。僕は」
ゴンドラはどんどん上昇していた。真下にあるはずのメリーゴーランドはもう見えなくなっていた。
「僕は、あんたを」
思い出すのは、あの時。僕の体がみるみる崩れ、消失する僕を抱き止めるアスフェルが怒りと悲しみにめった打ちされていた、あの川べり。それはアスフェルに繰り返し聞かされた記憶なのか僕自らが潜在意識に持つ記憶なのか、今はごっちゃになっている。
けどこれだけははっきりしていた。僕はアスフェルにあの時みたいな顔を二度とさせたくない。いつも自分のことばかり考えてアスフェルを悲しませては後から思い切り後悔してるんだ。僕はアスフェルと離れたくない。だから苦労をかけたくないし、あんたの喜ぶことがしたい。
「冗談のつもりなんだよ、ルック」
「……ごめん」
「俺こそ例えが悪かった」
めんどくさい子供だと思われただろうか。扱いにくいと思われたかも。
だけど発言を撤回する気には到底なれず、俯いて謝ってはみても単に場の雰囲気を暗くしたことへ対する謝罪にすぎない。せっかくのデートが嫌な思い出になったらどうしよう。がっかりさせたいわけじゃないのに。
不安になって、ちらりと顔を上げてみる。
そしたら何とアスフェルは、言葉と裏腹ににやにやしていた。
「かわいいなあ」
「……どうしてそうなるの」
「何でもない一言がきっかけで急に素直になるルック。遠まわしな愛情表現ここに極まれリ、だな。クールでひねくれた普段との落差がまた、俺を何度でも恋の坩堝に落とす最高の魔力だ」
「……あんたのそのくだらなさが僕はたまにめんどくさい」
「面倒でも好きだという褒め言葉に受け取るよ。ああ、ついでにもう一つ、くだらない話を聞いてくれるか?」
「耳栓はしないでおいてあげるけど」
僕はふいっと余所を向く。怒ってなくて本当によかった、と安堵する顔を見られたくない。
だけど安堵した瞬間、アスフェルの指が縋るように僕の手の甲へ食い込んだ。
「――高所恐怖症なんだ。晴れた日の夕方、地上三十メートル余り限定」
それはあの時。
なりふり構わず振り返った。まさかという気持ちで間近にアスフェルを凝視する。アスフェルの顔は存外近くに迫っていて、額がくっ付きそうになる。
アスフェルは笑顔に失敗していた。
「もしこのゴンドラが、付け根が腐食していたり、あるいは螺子が緩んでいたら、このゴンドラが地面に落ちたら、観覧車が根元から倒壊したら」
アスフェルの手は震えている。
「ルックはまた……俺を救って、消えるんじゃないか……」
聞いたことのない声だった。弱々しい、か細い、不安と恐怖にすっかり侵された声だった。おそらく僕に最も晒したくない秘部だろう。僕だって、いつも力強く輝いているアスフェルの中にこんなものが存在するはずないと思っていた。
僕のせいだ。
僕はアスフェルを傷つけるのが得意なんだ。だからいなくなった方がいいと思って、でもできなくて、僕だけこんなにも毎日幸せにしてもらって、アスフェルがずっと過去のトラウマに縛られてきたのもちょっと考えれば分かることなのに今まで欠片も思い付かなくて。僕は最低だ。僕は害虫だ。僕はアスフェルの足手まといだ。
自分への罵倒は後から後から湧いてきた。震えるアスフェルのぎゅっと瞑られた瞼を見ながら、僕はあと少しでここから飛び降りるところだった。
ゴンドラは今こそ頂点にあった。上昇が下降に変わる寸前の、落下に似た浮遊感が足元へふわふわ漂っていた。まるでアスフェルの寄る辺なさを代弁しているかのように。
そして僕は、自分の果たすべき役目を知った。
「……消えないよ」
アスフェルの頬を両手で包む。片方はアスフェルの手が繋がったまま。青ざめて冷たく感じる頬を、僕はしっかり受け止める。
「寒中水泳でも何でもするよ。あんたを悲しませないですむなら」
「……ル、ッ」
「さっきはムリって言ったけど、あんたが泣くなら話は別。僕だってあんたを失くしたくなくて必死なんだ」
アスフェルが遊園地を初デートに選んだ本当の理由。知った今、いつだって自分を誤魔化さないアスフェルらしさが僕まで強くしてくれる。
僕はアスフェルに顔を寄せた。目の端にゴンドラの位置を確認したアスフェルは、ぞっと鳥肌を立てながら、痛みに堪えるよう眉を顰めて僕を見る。僕の手の甲にぴりっと爪の立てられる感触。あのビルの屋上、落ちた浮遊感、その後失った僕のことまで、アスフェルは鮮明に思い出しては苦しんでるんだ。僕が良かれと思ってやったことで。代償がいかに甚大なものか、喉元に辛苦の刃を突き付けられるようだ。
「アスフェル……。僕はもう、死神じゃないよ……」
死神は誰にでもなれるわけじゃない。生へ絶望し、孤独へしか拠り所を持てなかった魂の無念が死神になる。
互いの手だけに働いていた吸着力が、もっと繊細な感覚神経へ及ぶのを僕は阻害しなかった。アスフェルの下唇にしっとり僕のを触れ合わせると、僕は怯えるアスフェルの頭を包み込むように抱き締めていた。僕は座席に膝を突き、アスフェルが僕の腰を支えて、ゴンドラが下降するきりきりした震動を重なった唇越しに感じていた。
僕はもう独りじゃない。僕はもう、自分を投げ出したりしない。だから死神には戻れない。
アスフェルは身動きしなかった。僕の与える拙い愛撫を余さず拾おうとしているようだった。
五時を告げる低いサイレンがゴンドラをそっと通り過ぎる。園内に灯り始めた照明はきらきらと、あの日飛び込んだ川面みたいにゴンドラのガラスへ反射する。
僕はアスフェルの十七年前をほんの少しだけ譲り受けた。
「……あんた、結局弁当の写真一枚っきりしか撮ってないじゃない」
「俺の網膜に映るルックが一番かわいかったからね」
「だからってこれだけ現像するの、逆に恥ずかしかったんだけど」
「俺ももう少し撮れば良かったかと後悔し始めてはいる。このカメラな、待ち合わせ前にわざわざ電気屋で買ったんだよ」
「何で」
「メリーゴーランドか花時計の前で記念撮影して! ルックには内緒で財布に忍ばせてみたかったんだ!」
「……あんたって……つくづくロマンチストだよね……」