死神候補を見つけることも死神の大事な役割だ。
死神候補は、死期が近付くと嫌な臭いを発し始める。腐った卵、硫黄臭、化石燃料の燃える臭いにも近いだろうか。
死神にだけ嗅ぎ分けられるその臭いは必ず鼻で嗅ぐとは限らず、目眩や頭痛、あるいは涙の形を取って、僕たち死神に訴えてくる。もうすぐ死ぬよ、心に闇を抱えて死ぬよと魂が孤独に泣き喚くのだ。
だから死神は、死期が近づいた魂の臭いを点検している。
僕が初めて死神候補、キキョウを見つけたのは、薄暗い病室のベッドでだった。
「なにこの臭い、……ッ!」
キキョウはベッドに寝かされていた。顔はその下半分を人工呼吸器と固定テープに覆われており、上半分のまっ白い包帯やバリカンで刈られた青白い頭皮と相まって、造作はおろか性別さえも曖昧だった。陰影の濃く沈む瞼は開くことなく、肉の削ぎ落ちて尖った頬骨、痩せこけた腕に刺さる点滴、ベッドから伸びる幾本ものチューブがキキョウの病状を物語っている。
キキョウの足元には着替えのパジャマが封も切らずに放置されていて、奇しくもそれはキキョウが大人用ベッドの縦半分しか占めない身長であることを僕に伝えていた。
「く、臭……ッおえ」
臭いは僕の嗅覚を通らず、僕の胃に直接飛び込みでもしたようだった。我慢できない悪臭だ。僕は呆気なくサイドボードの洗面器へ嘔吐する。といっても死神は水分しか摂取しないため出るのは黄ばんだ胃液ばかりだ。それも常人には見えない。
「あんた……もしあんたが望むなら、間もなく死神になれるよ……。その前に死ななきゃいけないんだけど……」
口元を手の甲で拭った僕はたまらずキキョウに話しかけた。話すことでどうにか嘔吐の不快を忘れようとした。けれどできない。初めて見つけた死神候補へ変に気負っているのだろう。無意識に飲み込んだ生唾が苦い。
僕は音もなくキキョウの隣へ腰を下ろした。力なく投げ出された小さな手のひらへそっと人差し指を重ねる。
見つけたからには僕が責任を持って面倒を見よう。
「僕はL1。よろしく」
この病室に全身黒衣の僕はひどく似合って不吉だった。
僕はキキョウのクロニクルを見た。クロニクルとは霊魂の年譜だ。管理するのも死神の大事な役割である。
キキョウは六歳三ヶ月だった。しかしキキョウは身長わずか九十センチ、体重に至っては十五キロを下回る。いつから十分な食事を与えられていなかったのか想像するだに恐ろしい。常に空腹だったのだろう。
クロニクルにはずらりと凄惨な記述が並ぶ。
キキョウの母親は妊娠当時独身だった。父親は準強姦罪で服役中の二人のうちのどちらかだ。母親は望まぬ妊娠の際に重度のアルコール依存症となり、キキョウは胎児性アルコール症候群による行動障害を持って生まれた。
母親は出産直前まで中絶を望んでいたものの、強姦被害に遭ったことを隠したい一心から病院へ行けなかったという。その代わり冷水を長時間浴びたり腹部を強く圧迫したりと無茶な堕胎を何度も試みた。アルコールに煙草、いかがわしい薬剤も一度試してみたらしい。
しかし甲斐なく妊娠三十五週四日にキキョウは自宅のトイレで産まれる。
キキョウの母親の家族に強姦被害が露見したのはまさにその瞬間だった。母親は家族全員に糾弾され、罵られ、産後わずか五日で家を飛び出した。
その際キキョウも連れて出たのは母親に母性が芽生えたからか、わが子と離れがたかったからか。もしくはおぞましい犯罪の痕跡をたとえ家族にでも人前へ残す恥辱へ耐えられなかったのかもしれない。
キキョウと出奔した母親はしかし、キキョウのことをもちろん少しも愛せなかった。キキョウは母親に強姦を思い出させる象徴であり、忌むべき犯罪者の遺伝子を継いだ実体だ。そして自分から派生したもの、自分と同一視するに足る、汚された自分の分身と見なしていたのかもしれない。
ゆえにキキョウは生後わずか一月で両足の骨を折る重傷を負った。その後もキキョウは骨折、打撲、火傷を幾度となく繰り返し、三歳の誕生日を迎える頃には風邪をこじらせ危篤状態に陥った。
そこから奇跡的に一命を取り留め――というのは僕が口にするべきではなかろう。クロニクルにはキキョウの運命、すなわち死亡予定日がすでに記されているのだから。
とはいえ三歳で命を落としかけたキキョウは、もしかしたらそこで死んでいた方が良かったのかもしれなかった。
風俗店で働くキキョウの母親は客の男性と同棲するようになり、その男性と籍を入れて、キキョウには父親ができた。しかし彼はキキョウの父親になったつもりなど少しもなかった。どころか目障りだとキキョウを疎んだ。キキョウは毎晩殴られ、蹴られ、前歯を四本とも折られさえした。
そんなキキョウがこの病院へ搬送されたのは一昨日の早朝である。新聞配達の男性が玄関のドア下に大量の血だまりを発見したのだ。すぐさま救急車が呼ばれ、キキョウは生まれて初めて病院で手当てを受けることができた。いや、その前に、生まれて初めての外出だったのか。もし意識不明でなかったら、キキョウは家の外にも世界があると感激しただろう。
しかしすべては手遅れだった。キキョウは頭部への強い衝撃により脳の全機能が停止していた。
(――脳死、か……)
僕はキキョウの手に触れる。
死神は自らの姿を隠すことができるから、僕は誰にも怪しまれずにキキョウの枕元へ腰かけていた。キキョウの発するどろどろに腐った臭いを間近に嗅ぎながら、ひどい吐き気をこらえながらも、手を離すことができないでいた。
手のひらを撫で、指を握り、縦筋でがたがたの爪をなぞる。キキョウから何らかの反応が返るのではないかと妙な期待を抱いている。手が動くことを期待しては何度も撫でて撫で続け、たまに手の甲へ爪を立ててはキキョウの顔色を窺う。そしてまた撫でる。
キキョウが動くのを今か今かと待っている僕。僕はキキョウがまだ生きていると確かめたくて仕方ないのだ。
(死神が死を忌避するなんて……)
お笑い草だ。滑稽だ。
当のキキョウは、きっと、迫りくる死を期待している。
キキョウの病室へ異変が訪れたのは、深夜を回った頃だった。
同じ病院で亡くなった命を管理するためしばらく席を外していた僕は、病室へテレポートで戻るなりその場の光景に絶句した。
病室にはキキョウと、招かれざる客が一人いた。見知らぬ白衣の青年だった。
青年は下半身を露出していた。キキョウも入院着の裾をたくし上げられていた。一本の毛も生えていないキキョウの股間、その小さな陰茎には、バルーンカテーテルが挿入されている。青年はカテーテルを小刻みに揺すりながらキキョウの股ぐらに顔を埋めていた。
(や、やめ……っ!!)
僕の悲鳴は声にならなかった。無意識に後ずさっていた。壁に背中が当たったところでへたり込み、僕は恐怖に震える両手で耳を覆った。耳に爪を立て、目をぎゅっと閉じて、心でひたすら叫び続けた。
(やめて、やめて、助けてっ……!!)
どうしてだろう。何でキキョウがこんな目に遭わなきゃいけないんだろう。
キキョウには一切の自由がなかった。生まれる前から何一つとして選べなかった。生まれても選択できるものはなく、母を中心とした周囲の大人が有無を言わせずもたらす環境にずっと押し込められてきた。
そして今、死まで間がない今もなお外界へ翻弄されている。
僕は死神界で教わったのだ。命がいかに自由であるか。運命は死の時刻を決定するだけのものであり、死に至るまでの全過程、すなわち成長し、老い、死を迎えるまでの生き方はすべて個々の自由裁量であると。確かにそう教わったのに。
これではまるで、まるで運命が、すべてを決めているみたいじゃないか!
青年が一際高く呻いた。僕が抗えず薄目を開けると、キキョウの足はあられもなく割り広げられていた。青年の股間からキキョウの臀部まで気持ち悪い白い糸の引いているのが目に入る。キキョウの陰茎からバルーンカテーテルは抜かれていて、先端からとろとろと赤い尿がこぼれていた。
一気に脳裏へ蘇る、僕が猫だった前世の死に様。
僕は首を絞められた。絞めた人間の男はげらげら笑っていた。僕の首の骨が折れる。折れた骨は頸動脈を突き破って僕の咽喉から歪に飛び出す。痙攣する僕の腹はナイフで一文字に掻っ捌かれ、飛び出た内臓へ汚らわしい精液をぶちまけられた。
僕は最上級の苦痛と屈辱と悪臭にのたうち回りながらやっと死んだ。僕の命は自慰の添え物に過ぎなかった。魂の尊厳を弄ばれて、何の意味もなく踏みにじられた。
僕とキキョウはひどく似ている。押しつけられる理不尽な環境に蹂躙され続けた結果、何の救いもなく死んでゆくところがそっくりだ。きっとキキョウも己が生命へ意義を見出せずに死ぬだろう。僕のように。
僕が、キキョウが、何か悪いことをしたんだろうか。こんな責め苦を受けねばならないような過ちを過去に犯したのだろうか。生をより良くするための足掻きが足りなかったのだろうか。
僕たちは苦しむために生きたのか、生きていたから苦しんだのか。
「ごめん、キキョウ、ごめん……」
僕は馬鹿みたいに謝るしかなかった。死神は現世に関わることならず、を守ったからじゃない、ただ単に体が竦んでキキョウを助けられなかった自分を責めた。
だけど涙はただの一滴も出てこない。泣きもできない自分に心底腹が立つ。
こんな目に遭わなきゃいけない人生とは何なんだろう。運命は本当に死の時刻を決定づけるだけのものなんだろうか。命が死へ辿りつくまでの道のりへ、運命がどんな誘導も強制もしていないと言い切れるのか。
(……もし……もし、運命が、人生へ主体的に関わっているとしたら……)
幸福な命と不幸な命が、生まれる前からすでに運命づけられているとしたら? 僕の苦しみも、キキョウの苦しみも、あらかじめクロニクルに決められていたとしたら?
(許せない……そんなの……!)
僕は今の出来事が追記されたクロニクルを思わず床へ投げ付けた。最後のページ、キキョウの運命は、翌日の一五時零分零秒に迫っていた。
キキョウの手を握る僕の目の前で、キキョウの母親が医師と延々言い合っている。延命治療を拒む母親と脳死移植をほのめかす医師の対立だ。
しかしさっきから聞けば聞くほど、僕には論点の違いが全然分からない。母親は虐待の発覚を恐れ、医師は虐待が発覚する前に移植手術を敢行しようとしているらしい。キキョウの人工呼吸器を外したいのは同じだろうに。
キキョウの運命まで残り時間は五分を切った。
キキョウの腐臭はいよいよ強まり、僕はなるべく嗅がないように薄く開けた口で息をしている。それでも臭いは目に沁みる。吐き気を堪えるたび目尻に生理的な涙がたまり、僕は何度も瞬きしながらキキョウの指を握りしめている。
脳死が人の死かそうでないか、にまで発展した母親と医師のやり取りは、僕たち死神にとって不毛な討論でしかない。死神界における死とはクロニクルに記載された運命である。数日前から脳死状態にあるキキョウのクロニクルにそうと記されていないのだから、キキョウはまだ死んでいないのだ。死神に言わせれば、少なくともキキョウにとって現在の脳死状態は死ではない。
あと三分。
病室にサングラスの男が入って来た。派手なスーツに柄物のシャツを合わせ、趣味の悪いネクタイをだらしなく下げている。金ぴかの時計は高級品か紛い物か、どう見てもヤクザとしか言いようのない出で立ちだ。
その厭らしい顔をどこかで見た、と僕は急いで記憶を辿る。つい最近何かで見た顔だ。
(――クロニクル)
僕の指先が無意識に強張る。キキョウの義理の父親だ。キキョウを脳死状態に至らしめた張本人だ。
男は呂律の回らぬ口調で何事かを喚き散らした。相当酔っている。ふらつく足取りでキキョウに歩み寄り、唾を飛ばしてどうやらキキョウを罵るようだ。
僕は思わず身構えた。男はキキョウへ手を翳し――手の内に、きらりと光る鋭利な銀色が隠されている。
(ナイフ……!)
耳に死の音が反響する。キキョウの運命はたった数秒後に迫っている。
こんなのおかしい! キキョウは何のために生まれて死ぬのか、キキョウという自我は何のために存在したのか、何もかも翻弄されるだけの運命なんて!
そんなの僕は、絶対認めない!
だから僕は叫んだ。今度こそ。
「キキョウを助けて、誰か!!」
――ナイフが男の手から弾き飛ばされた。
よろける男に誰かが食らいついている。制服姿の男子高校生だ。体を沈めて男の腕を抱え込み、一気に背負うと投げ飛ばした。
男は半回転、背中から叩き落とされる。受け身を取る暇もなかっただろう。男は背中を床へ強打し、蛙がつぶれたような悲鳴を上げる。
高校生はすかさず男の腹へ跨ると、体重を乗せて押さえ込んだ。
「手伝って! 紐かロープを」
高校生が短く叫んだ。その声で我に返った医師が慌てて男の拘束を手伝いに入る。
二人は聴診器を紐代わりにして男の両手を縛り上げた。その間に僕はこっそりナースコールボタンを連打した。
キキョウの母親は混乱に手をばたつかせている。全く役に立ちそうにない。邪魔しないだけマシなのだろう。
そしてキキョウは、それまでとまったく変わらぬ様子で横たわっていた。人工呼吸器は暴れる男の罵詈雑言に稼働音を上乗せし、心電図モニターは眠たくなるほど単調な鼓動を表示し続けている。
僕は呆然とキキョウを凝視した。何度見直しても懐中時計は十五時をとっくに過ぎていた。
十五時零分零秒に死ぬ運命だったキキョウが。まだ、生きている。
(――運命が、変わった?)
僕は信じられない思いで生唾を飲む。
クロニクルに記載された運命は絶対で、人間はおろか死神にさえもおいそれと変えることはできない。はず、なのに。
キキョウは死ななかった。世界の理であり、唯一の真理といっていい死の運命から解き放たれた。
(運命を……変えた……? 誰、が……?)
高校生だ。
神にも為せぬ奇跡をあっさり起こしてしまったのは、この男子高校生だ。
脳に事実が染み渡ると同時、僕は一気に鳥肌が立った。畏怖に背筋がぞわぞわする。目を限界まで見開いて、奇跡を起こした彼を見つめる。
「廊下で泥酔したこの男性を見かけたもので」
高校生はそんな理由でこの場に現れたのだった。男を抑えつけながら笑みさえ浮かべ、入院中の友人へ良い土産話ができたなどと嘯いている。医師の謝辞に悠然と首を振るさまはいっそ神々しい気さえして、萎縮した僕は懐中時計を取り落とした。
「ん? 何か音が」
高校生がこちらを振り向く。僕の姿は人に見えないはずだとはいえ、あの高校生には見透かされるような気がして、意味もなく両手で口を塞いだ。鼓動が跳ねる。
「お医者さん、あの子……!」
高校生に見られた。全身が竦んだ。僕は素早くベッドから飛び退いてテレポートで逃げる体勢に入った。
だがよく見れば、高校生と僕の視線がかち合っていない。ややずれている。高校生の目はまだベッドに注がれている。
あの子、とはキキョウのことだったのか。
僕は安堵しベッド上のキキョウへ視線を移す。見られていないと分かったのだから、堂々とキキョウを撫でてやるつもりで。
(――え?)
キキョウの腕が、ゆらゆらと持ち上がっていた。手にはナイフを逆手に握り、空を幾度か引っ掻いていた。
やがて目的のものへ刃先が当たる。キキョウの腕は、躊躇なく、人工呼吸器のチューブを切り裂いた。空気の抜ける音がした。
一気にアラームが鳴り響いた。
医師も母親も、ナイフの持ち主である男も、僕の押したナースコールで駆けつけてきた看護師たちも、そして一番近くにいる僕も。誰一人として状況が飲み込めないでいた。誰もが呆然とキキョウを見ていた。
(どうして……キキョウが、動いて……!)
キキョウはなおも動くのを止めない。先ほどまでチューブのあった空中を再び一文字に引き裂いた。体の外側までナイフを振り抜いたところでやっとナイフを手放した。それでも手だけで虚空を引っ掻く。何度も、何度も。
「お医者さん、看護婦さん! チューブの予備はないんですか!」
高校生に叱り飛ばされた看護師たちが互いに顔を見合わせた。医師は足元に男を抑えつけたまま呆けており、男も医師とそっくり同じ表情をしていた。キキョウの母親は気付けば病室の外にいる。目一杯開いたドアにしがみ付いて恐怖にがたがた震えている。
一人、悠然と動いたのは男子高校生だった。
高校生はおもむろにキキョウの枕元へ歩み寄った。僕のすぐ向かいだ。見上げる僕の視線には気付かず、裂けたチューブを少しでも塞ごうと手を伸ばす。
「すぐ助けるから。頑張れ」
キキョウはまるで窒息へ喘ぐように両手を力なく掲げた。それから胸の前で合わせる。ほどなく体側へ両腕を置き、また胸の前へと両手を動かす。
ラザロ徴候、と誰かが呟いた。
キキョウの仕草は祈る動作にひどく似ていた。何を祈るのだろう。苦痛なき死か、それとも一刻も早い死か。あるいはキキョウは、こんなになっても、まだ生きたいと願って止まないのかもしれない。
僕はふと嗅覚がすがすがしいことに気付いた。あれだけ強烈に垂れ流されていたキキョウの腐臭が消えているのだ。
なぜ、と視線をさ迷わせ、僕は高校生を見た。彼はチューブを繋ぎ止めながらキキョウの頭を撫でている。包帯越しに、ただ優しく。
孤独に饐えた悪臭はみるみる鎮まった。死の音が再び時刻を告げようと、キキョウの匂いは凪いだまま、ほのかに微笑んだようにさえ見えた。
キキョウは最期に、高校生へ手を伸ばす。
高校生は手を握りしめる。
無機質な心停止のアラーム音が、どこか遠い場所でするすると滑り落ちて聞こえた。
「…こんにちは。キキョウ、です」
「ん、俺テッドな」
死神候補は死後死神によって死神界へ導かれる。そこで適性検査を受け、合格すれば晴れて死神となることができる。
ただし死神になれたといってもすぐには現場へ出られない。死神塾で死神教育を受けるのだ。一定の成績に達するまで数日間から時には数ヶ月間かかる塾での合宿を乗り越えて、次はベテラン死神とコンビを組んでベテランの仕事を見学する。
死神塾の今期トップに輝いた新米死神キキョウの教育担当は、僕の上司であるベテラン死神テッドに決まった。不本意なことに。
「…えっと、テ、テッド、さん……」
「呼び捨てでいーぜ。で、こっちはルック、元教え子」
元コンビ現上司は僕を親指でひょいと指す。僕はこの人の軽いところが大嫌いだ。けど死神稼業を三百年も続けているらしい耐性の強さだけは尊敬している。あ、言い換えれば単に図太いだけか。
「ちょっとあんた何で僕の本名まで勝手に教えるの」
「教えたら減んのかよ」
「減る。どうせあんたにはわかんないだろうけどデリカシーの問題。キキョウ、あんたはK8、こいつはT1、僕はL1」
「…うっ……え、える……け……」
「ほらルックこいつもう覚えらんねって顔してね? もう無理だろふつーに名前でいいだろ? コードネームとか俺はそもそも反対なんだよ、なーキキョウ」
「…え、あっ、はい」
死神は黒い服を着るのだが、キキョウの喪服は死神というより幼稚園児のようだった。黒いニット帽に黒いパーカー、ズボンは膝丈で素足に黒い運動靴を履いている。痩せぎすだった身体は六歳児の標準体型並みにふっくらとして血色もよく、死ぬ前は丸坊主だった髪の毛もふんわり頬の下で丸まって、すれ違う死神どもが申し合わせたようにがばっと振り向くほどかわいらしかった。
かわいいって、別に僕は全然何とも思ってないけど。客観的に見ればかわいらしい部類に入る容姿だと思われるって意味だ。
テッドが手のひらを差し出した。キキョウはおずおずと握り返して微笑んだ。
「――あんたたち、とりあえず意気投合はしたみたいだね」
口元が緩むのを絶対にテッドへ見せたくなくて、僕はそそくさとそっぽを向いた。
うん、実はものすごく安堵している。僕が初めて見つけた死神候補は良い教育担当に恵まれたから。きっと立派な死神になる。
「じゃ、後はよろしく。僕まだ仕事が残ってるから」
「ちょい待ちルック」
ところが踵を返した僕の腕を、テッドが無理やり引っ張った。安堵する気持ちを見抜かれたのかと思わず腕が強張ったけど、どうやらそうじゃないらしい。耳打ちされる。嫌に真剣な声音だ。
「お前さ、あの魂、どう思った? キキョウのクロニクル捻じ曲げたヤツ」
「――あの高校生」
僕もずっと気になっていた……いや、それ以上だ。
何をしていても彼の顔ばかり思い出されて閉口していた。凛とした声、しなやかな体躯、お節介らしい性分と、あの、キキョウを撫でていた優しげな手つき。
僕は誰かにあんな風に触れられたことなんて一度もない。
「あれが多分……あれだ」
「あれって」
「星を導く者。星の集う場所」
死神界には伝説があった。恒星のごとき光を放つ魂の存在、クロニクルを超越し、運命を切り拓く存在が現世に現れると。
死神たちは、それを天魁星と呼んでいる。
キキョウは結局死んでしまったが、最後の最後に自分の死に方を選ぶことができた。誰かに殺されることなく死ねた。もちろん、それがいいか悪いかは僕が判断することじゃない。ただ少なくともキキョウに選択の自由が生まれたことは前向きに評価すべきだと思う。
すべてはあの高校生のおかげだ。
もし仮に、とても嫌な想像だけれど、もし仮に運命が鎖の形状をして魂を繋いでいるのだとしたら。僕やキキョウはなるべくして不幸な人生を送らされたのだとしたら。
きっと彼なら、あの高校生なら、鎖を無理に切るのではなくほろほろと解いてしまえるのではないだろうか。行くのも戻るのも魂の自由、そんな宙ぶらりんの状態にしてくれるんじゃないだろうか。
猫だった頃の僕が彼に出会えていたらどうなったか、を僕は延々夢想していた。僕は楽に死ねたかもしれない。死にたくないと願うほど充実した生を送れていたかもしれない。他人を、誰か一人でも、信じることができたかもしれない。心から笑えたかもしれない。
「…かっこよかったね」
キキョウが小さくつぶやいた。僕は思わず頷きかけて、はっと首の筋肉を固める。
「…また会えるかな」
「何だよキキョウ、ああいう優男が好みかよ」
「…うん」
僕はもう二度と会いたくない。だって思い描いてしまう。もし僕が生前に彼と出会えていたら、同じ人間同士として出会えていたら……そんな虚しい、絶対に叶わない夢を。
はっきり言って未練を産むだけの夢想は苦痛だ。
僕は今度こそ踵を返した。背後でキキョウが手を振る気配に僕は敢えて応じなかった。
僕は一人で生きていく。死神になった今も、一人で。
ああ、僕は死神になっても、まだ怖がりのままだった。