死神ルック 総集編







「アスフェル・マクドール」
 時は学校の帰り道。俺はいきなり呼び止められた。
 体ごと振り返れば電柱の影、少年が一人突っ立っている。両脇を民家の塀に引っ詰められたまっすぐ続く一本道は前にも後にも人影がなく、少年が佇むその場所も、ついさっきまでは確かに誰もいなかったはずだった。俺は一人でこの道を歩いていたのだ。ぎくり、と心臓が一度鳴り、背筋と脇腹に嫌な感触の汗が伝う。
「アスフェル・マクドール。△△年一月一日出生、満十六歳十一ヶ月。□□高校二年一組在学中。所在地はえっと、郵便番号一六九の……はぁ、めんどくさ。もういいや以下略。これ、あんたで合ってるよね?」
 少年は不思議な外観だった。服装が黒一色なのだ。黒いスーツに黒いモヘア風ニットポンチョを首からすっぽり巻きつけて、黒いムートンブーツを履いている。黒い手袋に施された何らかの模様も黒色だ。そして、ここまで完全に漆黒のみを纏いながら、肌は抜けるように青白く、肩へかかった金茶の髪が夕日に淡く透けていた。
 彼は遠慮のない、いっそ不躾なほどに鋭利な視線で俺を見る。その目がまるで薫風のように清い翡翠で、ますます黒の似合わない不思議さを醸し出していた。
「ねぇ、あんたがアスフェル・マクドールでしょ。とっとと免許証出して。ないなら学生証。保険証でもパスポートでもいいけど」
 呆然とする俺に焦れてか、彼は苛ついた声を出す。俺はようやく俺の個人情報を羅列されていたことに気がついた。だが不思議と警戒心は湧いてこない。少し奇妙に感じるだけだ。
 言われるままに俺はブレザーの胸ポケットから学生証を取り出した。彼はいつの間にか俺の傍らへ佇んでいて、隣に並んだ彼が自分より頭一つ分も小柄なことへ驚く俺をよそに、学生証をひったくるように奪い取ると中を見る。学生証は表紙を捲れば氏名、住所、血液型と顔写真が載っている。
「L1より本部。本人確認完了」
 彼は耳に右手を当てながら呟いた。手袋の模様は単なる模様ではなかったらしい。通信機能だろうか。冷静になれば高度すぎる技術を訝しむ等やることは山ほどあったのだけれど、俺は、彼が耳を澄まして何か聞く横顔の、伏せた睫毛がやはり金茶色なのを、食い入るようにひたすら見ていた。
 ちっ、と嫌そうに舌打ちしながら彼は右手を振り下ろす。
「さっさと終えたいから口挟まないで聞きなよ。あんた、あと三十分で死」
「君、何て名前?」
「――口挟むなって言」
「俺はアスフェル。君、この辺りに住んでいるのかな」
「あんたね、人の話聞」
「ああ、立ち話も何だから少し散歩でも、いや散歩には寒いか、すぐそこが俺の家だから紅茶でも飲んでいかないか? おいしいダージリンがあるんだ」
「だからあんたちょっと黙りなって……ダ、ダージリン?」
「イギリス直輸入の」
「……ミルク? レモン?」
「君が好きならはちみつや、バラのジャムでロシアンティーにもできる」
「……」
 彼は優に二分はじっと腕を組んで考え込んでいた。俺は息を止めて待つ。
「……行く」
 話は後で、と彼が付け足したのを俺は聞いていなかった。人生初のナンパをしてしまった恥ずかしい事実に思い至りつつ、とりあえず第一段階は成功したことへ内心踊りたいほど喜んでいた。
 これが、俺の初恋になる死神ルックとの出会いである。







 彼が再び口を開いてくれたのは、俺の部屋でジャム入り紅茶を一口含んでからだった。
「あんた、死にたい?」
 紅茶の感想は彼の態度が軟化したので自ずと知れる。だが剣呑な彼の発言が俺を手放しで喜ばせてくれず、俺は多少緊張しながら首を左右へ強く振った。俺に自殺願望はない。
「そ。でもあんた、このままだとあと十数分で死ぬことになってる」
 彼はポンチョの下から首に提げた懐中時計を引っ張り出した。元は金色だったようだがひどくくすんでしまっている。懐中時計を手のひらへ乗せ、代わりに手袋をスーツの内ポケットに仕舞いこんで、彼は慣れた手つきで時計の蓋をぱちんと開けた。盤面は光沢のある白地の中ほどを茶の円が巡るデザインだ。三本の針はどれも金色、優雅なアラビア数字の上を滑るように動いている。いかにも古風な時計である。
 暖房の効いた室内であるにも関わらず、紅茶を飲むため黒い手袋を外した以外、彼は防寒具をきっちり着込んだままでいた。脱いだら、と勧めはしたのだが、彼はこれまで口を利くどころか目を合わせてくれさえしなかったのだ。おかげで俺は出会って間もないながら彼の性質の一部を知った。彼は他人に興味がない。他人へ自分がどう見られているかにも興味がない。そして、彼は寒がりだ。
 俺の視線に気づかないのか、懐中時計の盤面を彼はじっと読んでいる。懐中時計を持つ手のひらは俺より一回りも小さい。腕も肩も細く、ポンチョに埋もれる顎のラインは肉付きが悪すぎて尖っている。桜貝の唇、血色の悪い頬。睫毛の影が頬にかかるほど長い。
 俺は彼を見つめ、見惚れた。
「ほんとは、あんたは今日死ぬはずじゃなかったんだよ。だけど誤った死の時刻が今日に定まってしまった。これから十二分後、あんたには死の機会が訪れる」
 死。俺は彼の伏せられた瞳を凝視して、無言で話の続きを促す。
 彼はついと懐中時計から顔を上げた。
「僕は死神。あんたを死から守るために来たんだ」







 死神、らしい。
 俺は相当間の抜けた顔を晒したと思う。眼前に座るのは少なくとも出会って十五分程度の相手へ冗談を言うようにはまったく見えない少年だ。それが至極真面目な顔で自らを死神と公言する。死神という語句よりも、それと少年との組み合わせが不釣り合いすぎて俺はしばし思考を忘れた。
 だが俺の沈黙を受けた彼は俺が死神に怯えているとでも思ったらしい。またか、というように両目を細め、紅茶に息を吹きかける。湯気がくるんと円を描く。
「巷では死神は人間に取り憑いて死に誘う厄神だと思われてるみたいだけど、万物の死を見届け管理するのが僕ら死神の本来の仕事。死神が死期を早めるなんてのはあんたたち人間のくだらない妄想に過ぎないんだよ。僕らは死ぬ人間にいちいち付き纏うほど暇じゃないし、そもそも、僕らが死を見届けるのは何も人間だけじゃない。その辺の無理解は是非とも改められるべきだね」
 鬱陶しそうに溜息を吐いたら吹き冷ました紅茶を一口啜る。そして、彼に見入る俺などちっとも眼中にない彼は、ポンチョを掻き分けるようにして懐中時計を仕舞いこむと、細い指でカップを持ち上げ紅茶の香りを味わった。
「君は、死神」
「うん」
「人間じゃないのか」
「うん」
 無愛想に頷く様は、まるで他人事といった様子だ。でたらめにしては熱がなく、でまかせにしては趣がない。これでも彼は架空の存在を俺に信じさせるつもりだろうか。嘘を吐くならもっとそれらしい演技が必要ではなかろうか。
 ところが俺は、今時子どもでも信じないような作り話めいた彼の話を、実は疑いもしていなかった。騙されていいという気持ちもあったし、それよりもっと大きなものに頭を占められていたからである。
「一つ質問をしてもいいかな」
「手短にならね」
「エルワンくん、でいいのかい。君の名前」
「違うけど」
「じゃあ、君の名前は?」
「……はぁ?」
「君の名前を教えてほしい」
 彼は金茶色の眉を顰める。俺は眦に力を込める。
「あんた、状況分かってんの? 今日死ぬって宣告された人間が僕の名前なんかにこだわってる場合?」
「俺にとっては最も優先度の高い質問だ」
「僕を信用できないってわけ。それとも、人外への好奇心」
「――君を呼べない」
 飲みかけた紅茶を口許で止めて、彼はきょとんと瞬いた。







 そこでようやく、翡翠閃く瞳の形が幼げなことに気づいた俺だ。黒を不似合いにするのは専らこれのせいだろう。円く大きな両目が醸し出すあどけない印象を無理に漆黒で染める様子が、本来の彼らしさを隠蔽しようと図って見える。彼は萌黄や裏葉の色を悠然と纏う方が良い。
 きょとんとしていた死神は、俺の表情から何を読み取ったものかさらに瞳を見開いた。俺たちはしばらく見つめあう。胸を底まで浚うような彼の視線に俺はいよいよ囚われる。
 そのまま数十秒は経っただろうか。先に視線を和らげたのは彼だった。彼は口を開きかけた。
 が、はっとしたように唇を結び、両目を細め、無感情に俺を睨む。
「――あと九分。茶話に興じる暇はないよ」
「俺は」
「もう一度しか言わない。僕は、あんたを助けたいんだ。信じる信じないは自由だけど」
 彼はカップをソーサーに戻す。かちゃんと小さく音がする。絡めた指がなかなか取っ手から離れないのを何げなく見つつ、再び彼に視線を合わせて、俺は言い募りたい気持ちをぐっと飲み込んだ。
「……信じる」
 無論、とっくに信じている。いくら死神の予言に現実味を感じなかろうと、俺にとって彼を否定することはもはや不可能となっている。理由はたった一つしかない。
 俺は彼に笑いかけた。死神はまたも意外そうな顔をした。そうだろう。俺もさっきから俺自身の心へ振り回されている。彼が勘繰りたがるのも道理、あまつさえ彼に同情もする。
 俺は、死神に恋をしたのだ。
 けれど死神に人間のような感情があるのかないのか、彼の静かな眼差しからは、窺い知ることが難しかった。







 一瞬の後、俺はビルの屋上にいた。
「……ここは」
「見ての通り、地上三十メートル余」
 アンテナが数本あるだけの殺風景な屋上である。柵やフェンスの類どころか、出入口らしき扉もない。代わりに鉄製の丸い蓋がマンホールのように点在していて、どうやらこれが業者の作業用として最上階の天井と屋上を結ぶ穴のようだ。
 呆気に取られていた俺は、思わず頬をつねっていた。
「瞬、間、移動?」
「まさか僕らが人間みたいにちんたら歩いたり乗り物を使ったりするとでも?」
「俺まで移動させることができるのか」
「まぁ、数人程度ならね」
 俺の傍らへ寒そうに立つ死神は、そう言いながらどこか得意げな顔をする。感嘆されるのが嬉しいらしい。
 俺は死神の青白い面をまじまじと見下ろした。
 このいかにもひ弱そうな少年が汗水垂らして歩くところは確かに想像し難かったが、代わりに俺は、彼の華奢な背中で羽ばたく白い翼を想像していたのだ。そう、地上に舞い降りた黒衣の天使。ところが残念なことに彼は飛行せずテレポーテーションをしてしまい、俺は妙にがっかりした気分を味わっている。天使と死神は異なる存在ということか。それとも、死神は実在するが天使は架空なのかもしれない。
 俺は彼を覗き込むことで彼に説明を促した。死神と知っていてなお天使と見紛う清らかな瞳を持つ死神は、冷たい風に弄ばれる金茶の髪を手首で押さえつけながら、懐中時計を再び手のひらへ取り出した。鎖を首でしゃらりと鳴らす。
「あと八分」
 懐中時計に目を落とし、次いで俺を見すえる死神。
 綺麗だ。人が足を踏み入れること適わない山麓に潜む清流へ、しなやかに芽吹いた木々の若葉が映り込む。乱反射する木漏れ日、さらさらとしたせせらぎ、水面を掠め飛ぶ水鳥の風切り羽で弾く雫。
 続く台詞に思考停止させられるまで、俺は彼の瞳に引き寄せられていた。
「今から八分後。あんたには、ここから自殺してもらう」







 ――自殺?
 俺は、何かを聞き違えたかと、思わず頭ごと耳を叩いた。だが本当は分かっている。俺が死神の放つ言葉を一つでも聞き漏らすはずがない。彼の美しい声、声質でなく内面の潔さが滲み出たような清々しい声、それにも俺は一目惚れしていたのだから。
「……俺を死なせない、ではなかったか」
 固く問うと、可憐な死神は懐中時計の鎖へ指を絡ませた。
「手短に説明するよ。死はその時刻が定められているだけで、死に方は個人の自由になってる。体を労わらない生活を続けて成人病を患うか、マフィアの抗争に明け暮れて敵対勢力に銃殺されるか。死の時刻に道路を横断すればきっとトラックに轢かれるだろうし、その時刻海で泳いでいれば溺死することになるだろう。死への道のりは個人の自由な人生決定に拠るものであって、運命はそこへ至るどんな試練も誘導も一切行わない。ある時刻に生まれある時刻に死亡する、定められているのはただその二点」
 つまり死神が言いたいことはこうだろう。俺はあと数分でここから飛び降りねばならない事情に見舞われる。あるいはこのビルが崩壊するか、すぐ下で火災が発生するか。もし仮に先のまま俺の家へ居たとすれば強盗が押し込んできたり頭上のシャンデリアが落ちてきたり、逃げおおせたとしてもその拍子に転んで首の骨を折ったり。当人の状況に合わせた死に方が間もなく訪れるというわけだ。
 死神は俺をひたと見た。鎖に絡めていた指を解き、一つ、と垂直に一本立てた。
「けど、たった一つ。死の時刻には例外がある」
 俺は死神の指を見る。手袋に覆われていない死神の指は関節がないみたいに細く、まっすぐで、屋上を舐めるように差す夕陽を背負っている。それがざぁっと柔らかい雲に覆われた途端、指が白く発光したようにさえ見えた。真っ白だ。いかなる穢れにも触れたことがないような。
 俺はぼんやりと死神の言葉を反芻した。
「……例外」
「自ら生命の灯火を絶つこと。――そう、自殺こそが、唯一無二の例外なんだ」
 声を潜めて明かす死神。夕陽が再び彼の背を照らす。雲を散らしてビルの屋上を一際強く吹きすさぶ風に、俺は唾を飲み、なぜだか背筋がぞっとした。







 死神はなおも説明を続ける。
「僕ら死神は生あるものすべての死を管理しているつもりだった。けど、生き物が自らを死に至らしめることは想定されてなかったからね。人間くらいだよ、死にたがる生物なんて。おかげで、人間が食物連鎖の箍を外して蔓延り出した数千年前から、自殺者が一人出るたびに世界の重量を保つ運命が少しずつ乱され始めた。それがこの半世紀で激増。僕の管轄下にある東経百三十五度地域、あんたたちの区分けで言う日本国だけでも年間三万人以上にのぼる。こっちは人口爆発だけでも手を焼いてるってのに、まったくふざけてるとしか思えないね」
 死神は立て板に水のごとく滔々と要領良く話す。だがいわゆる話し好きな人の話し方では決してなかった。彼は息継ぎをあまりせず、すらすらと淀みない一本調子で話し、声こそ明瞭で聴きやすいものの相手にとって聴きやすくなるよう心がけている内容ではない。
 そこから俺は彼の性格についてまた多くを知ることができた。彼は数値を好む典型的な学者肌だ。若干皮肉げな視点で物事を見ている。そして彼は、他人の返事を求めていない。
「多すぎる例外に乱された運命はどう歪む? それが今のあんただよ。あんたの予定生存期間へ皺寄せが来た。しかも、一度定まった死の時刻は何をどうしても覆らない。あんたはこのままじゃ確実に運命へ殺される」
 彼が一旦呼吸を挟む。俺は彼の薄い唇を注視する。
 ぎょっとした。彼がそこでふと、悲しそうな顔を、表したように見えたのだ。彼が今ここで悲しむ必然性があるとすればおそらく俺が死ぬことだ。彼は俺の死を悼むのだ。
 俺は自分に落胆するほど衝撃を受けた。俺がこの二十分程度で捉えたと思っていた彼の像はまったくの虚像だったのか。俺の人を見る目はすっかり曇っていたか。
 違う。最初からこれを知っていたのだ。出会った瞬間、彼の表皮に上る棘と内面にそっと横たわる花を。だから俺は彼に惹かれた。鋭い優しさがただただ綺麗だと思ったのだ。
「――けれど必ず、死なせない。僕があんたを守ってみせる」
 彼ははっきり言い切った。彼の敬虔な眼差しが、与えられた使命をストイックに完遂する切実さに満ちていた。彼に指示を請う俺の声は、自身の制御及ばぬくらい、恋の感動に震える。
「俺は今から何をすればいい」
「……信じるんだね。僕を」
「ああ」
 信じていなかったのは彼の方だ。もっと詰られたり馬鹿にされたり、信じてもらえなかったりするかもしれないと、まだ俺のことを疑っていたのだ。
 死神は暫時目を伏せた。金茶の睫毛が頬に長い影を落とした。沈む夕陽はビルの屋上から重石のように大きく真ん丸に見え、住宅街を蛇行する一級河川へ、彼の頭髪と同じ金茶の光を零している。
 彼が再び顔を上げた時、俺はゆるぎない彼の決意へ圧された。
「あんたには、ここから飛び降りてもらう。自殺することで不本意に定まった死の運命を捻じ曲げる。でも、死なせないよ。僕があんたを阻むから」
 俺は頷く。彼も頷く。彼が懐中時計を翳し、その秒針を読み上げる。
「あと四十秒。……三十五、三十四、三十三、三十二」
 彼の声を背中に受けて、屋上の縁に俺は立った。ビルの外壁を滑るように下から風が吹き付けた。もし彼が俺を助け損ねたとしても、俺は彼を恨めないだろう。むしろ死そのものを恨まない。これからやりたかったことはたくさんあるが、どうしてもせねばならないことはないからだ。俺の代わりはいくらでもいる。俺の死を悲しんでくれる人もちゃんといる。だから俺は、俺は、
「……待て……待ってくれ!」
 俺は後ろを振り返った。一つだけやり残したことがあった。死神が驚きに数え上げる声を詰まらせる。足早に戻るとその細い顎を持ち上げて、俺は彼の瞠られた瞳を狂おしい思いで覗き込んだ。
「待てないよ……あと十秒」
「一秒でいい」
 彼の唇へそっと触れる。唇で。
「――君を愛してる」
 踵を返した。大またで走った。三歩目が地面の最後だった。迷わず四歩目を空へ踏み出し、走り幅跳びの選手のように西日へ足を蹴り上げた。
 恐ろしいほど、怖くなかった。







 すべてはたった三秒で起こった。
 俺はビルから飛び降りた。景色はゆっくり上方へ流れ、音は聞こえず、地面のどんどん足元へ迫る様がコマ送りで見るフィルムのように静止画の連続として知覚される。内臓が浮いてぞわぞわする。すべてが緩やかに感じられるのに身動き一つすることができない。瞬間異動で屋上へ連れ出されたため靴を履いていない――ことに落ちながら気付いた――白ソックスの足の裏が、今にもアスファルトへ触れそうになる。
 運命、の時計が鐘を打つ音を、俺は寸前で確かに聞いた。
「アスフェル!」
 死を覚悟した、その時だった。鐘の余韻を切り裂いて強い叫びが隣で上がった。肩から肩へ腕を回され、ぎゅっと思い切りしがみ付かれる。黒衣に金茶の髪が舞う。
 反転。
 どぼん! と俺は死神と落ちた。
 一気に視界が青くなった。無数の泡が踊り猛った。沈み、落下速度が弱まって青い中にふわりと体が止まる頃、やっと俺は肩を見た。目も口も固く閉ざして俺を抱きすくめる死神の柔らかい猫毛が泡にまみれて揺れている。あ、と言いかけてごぼりと口内に冷たい塊が押し込まれ、俺は慌てて上へ上へとばた付いた。死神は風船のように軽く、ぐいぐい俺に引っ張られる。
「ッぷは! げほっ……」
 首を出して息を吐き、吸う。
 水上だ、水だ、助かったのだ。
 鼻の奥が水で痛む。飲み込んだ水の良いとは言えない味がする。気管に少し入った水を咳で出す。
 咳き込みながら俺は死神の顔を見た。ぎくりとした。死んだように硬直している。閉じた瞼まで青白い。
「君! 大丈夫か!?」
 陸を探しながら俺は死神の頬を叩いた。水は長く先へ続き両側面がコンクリートで固められ、水を跨いで太い橋が掛かっている。川か。川へ瞬間移動したらしい。橋を渡る車、川沿いの道路を走る車の排気音で一部が現実に引き戻される。見咎められる前に上がらなければ。
 青白い頬を幾度か叩くと、金茶の睫毛がか細く震えて死神はうっすら目を開けた。
「大丈夫か? 生きてるか?」
「……死神は最初から死んでるに決まってるじゃない……。って、そんな馬鹿が言えるなら……助かったんだね……」
 死神は安堵の微笑を見せた。ふっと口角をゆるめたそれが、常人よりはるかに乏しいながら彼にとって満面の笑みであることは嫌でも容易に察しが付いた。百年に一度しか咲かないというセンチュリー・プラントを想起させる。彼の笑顔はぎこちなく、だが自然に綻んだ笑みで、かわいい美しいといった表層に留まるものではない。翡翠の瞳が水に濡れてか潤んでいる。
 ただ、綺麗だった。俺が一目で心底惚れた、泣きたくなるほど愛しいと思った、彼の微笑みは彼の存在そのものだった。
「死は、心臓の止まった時でも脳が機能しなくなった時でもない。死んだと思うことなんだ。生きるために立つことを絶つ、心から力を抜く一瞬。それが死」
 俺が中身の詰まっていないみたいに軽い死神ごと立ち泳ぎでコンクリートの護岸へ上がるまでの間、死神は俺の肩にへばり付いたまま講釈の続きを垂れ出した。鈍いのか、危機を危機とも思わなかったのか。彼は初めて出会った三十分前と変わらない調子で淡々としている。あの、落ちる寸前に俺を呼んだ、必死な声だけが別物だ。
「あんたが死を覚悟した瞬間、あんたの運命、死の時刻は、自殺という例外によって上書きされた。あんたは死んだと見做された。あとはあんたを死なせないだけ。どこに転移しても着地点へ加速度がかかるからとりあえず近くの川でいちばん水深の深そうなとこを選んだんだけど」
「川……ああ、さっき屋上から見えていた……」
「僕が転移するタイミングを計り間違えていればあんたはここで運命によって溺死させられたはずだから、うん、成功だね。歪められた死の運命は書き換えられた。そして今、自殺でも死ななかったあんたは、運命による束縛そのものを断ち切ったんだ。これからの行動、数々の選択、日々の心掛けが積み重なってあんたの寿命に繋がっていく。もう死神さえあんたがどうなるか分からない」
 死神を肩に付着させたまま泳ぎ、橋脚の脇から伸びるコンクリートの狭い段差へよじ登る。死神の腕も引っ張り上げる。まるで浮き輪を引っ張る感触、人間くらいの重さを引っ張るつもりでいた俺は力を込めすぎて、死神の体が水からぽんと宙に浮いた。危うく胸元へ手繰り寄せる。段差へ座り込んで抱き締める。やはり、等身大の風船を抱擁するのに似た奇妙さだ。空洞がある。
 座り込んで一息入れると、ようやく身を切るような真冬の寒さに気が付いた。寒中水泳どころではない。服も髪もずぶ濡れだ。水が凍みる。歯の根が合わない。
「……怖かった……? いきなりこんなことさせられて」
 すると急に死神が、らしからぬ殊勝顔で呟いた。震える俺を案じてだろう。死神自身は寒さを感じていない、あるいは、まだ感じるだけの余裕がないのかもしれない。
 俺は否定しようと首を振った。が、できなかった。死神が俺の胸へ頬を半分埋めたまま、小さく小さく、僕も、と囁いたからだ。俺に縋り付き俺の顔を見上げ、死神は唇だけで紡ぐ。
「あんたが死んだらどうしようって……」
 濡れそぼったブレザーの襟を掴む、死神の細い指が震える。
 しかし俺にはそれが、恐怖でも、寒さのせいでもなく見えた。まるで死に際の痙攣に似た、じわじわ忍び寄る病魔に侵されていくような。
「……君は」
「死ななくてよかった……。これで僕は、安心して、」

 ――死ねる。

 本当に安心した顔で震えながら俺に抱き付く死神を、俺は愕然と凝視した。







 死神は俺に抱き付いて初めて、真冬の水温に思い至ったようだった。
「――つめた」
 呟けば途端に死神の周囲をゆるゆる風が巡り出す。ドライヤーを彷彿とさせる温風だ。だがドライヤーと違って風に煽られた俺の全身はみるみるうちにからりと乾き、きれいとは言えない川の水の生臭い匂いだけが残った。額に貼り付いていた髪も乾いてふわっと浮き上がる。死神の服が乾かないまま風はどこかに吹き流れていった。
 死神は半分目を閉じる。眠そうな顔、と言えば聞こえは良かろうが、これは明らかに精力を使い果たした顔である。目を見開くだけの力も残っていないのだ。
 俺の鼓動がいやに大きく耳へ響いた。背筋に冷や汗が伝った。なぜ。どうして。彼は消える。それも間もなく。俺の直感は残念なことに滅多に外れたことがない。
 彼は気だるく溜息を吐いた。
「悪いんだけど、もうこれくらいしかできないから……ここからは自力で帰ってくれる?」 
「君は……君は、死神は」
 嫌な予感がますます膨らむ。俺を救った直後に彼が死なんとす、そこに何らかの因果を見出さないわけがない。彼は俺を助けたせいで消えるのだ。死神はすでに死んでいると言った彼の言葉が嘘だとしても、本当だとしても、彼という存在が消え彼を構築する意識体との接触は不可能になる、これから起こるのはきっとそういうことだろう。彼は死ぬ。俺のせいで。
「……この世には……欠けてはならないものがある。大きなうねり、世を変革させ得る、人心を目覚めさせる、歴史の転換になる流れのことを僕らは宿星って呼んでる」
 死神の声は凛と澄んだままだった。しかし声量が格段に落ちている。
 そんな説明を聞きたいんじゃない。君が死ぬのか、どうなってしまうのか、俺はそれしか知りたくない。無意識のうちに俺はかぶりを振っている。
「あんたにはその宿星、天魁星が宿ってる。だからあんたを死なせるわけにはいかなくて、僕ら死神は禁忌を犯すことに決めたんだ。管理せねばならないはずの運命を率先して捻じ曲げる。宿星を、あんたを、ひいては世界を守るために」
「君を犠牲にして?」
「理を乱してでも守るものがあるんだよ。それを、僕ら死神は知」
 細い指に落ちた雫を死神は怪訝そうに見た。出所を辿り、俺を見上げれば、彼はふっと言葉を止めて微笑した。
「……何であんたが泣くのさ……馬鹿」
 俺は堪え切れなかった。俺は死ぬ間際に命を惜しいと思わなかった。想ったのは君のことだけだ。例え束の間でも巡り合い視線を交わすことができた奇跡を、これから先住む世界が違っても永遠に相見えることが叶わなくてもこの世のどこかに君がいるだけで目に映るすべてがまばゆいことを、君の低い背、強い瞳、綺麗な君の魂を。
 俺は死神の指を握った。そこはだんだん透けていた。指は皮膜だけになっていて、触れると割れるしゃぼん玉のようだった。でもまだ物質としてここにある。握った部分は確かに彼の温かみを伝えてくる。
「僕は死ぬけど、もう死んでるからさらに本当の死を迎えるけど……この世から消えるんじゃないんだよ」
「でも君はいなくなる……」
「そうだね」
「――嫌だ」
 俺の涙が彼の頬にぼたぼた落ちた。だが幾つめかの涙がついに彼の頬を突き抜けた。彼は透け、彼の腹部に俺の腰と太股とコンクリートが見え始めた。ポンチョの下へ仕舞っていたはずの懐中時計が彼の心臓部に露出した。
「……君は」
「ルック」
 君は死にたいのか、と問うつもりだった。俺の死を恐れた彼がどうして自身の今際の刻みにこうも安らかなのだろう。けれど途中でまじないのような単語を彼に押し付けられて、俺は思わず呼吸を止める。ほとんど透明に近くなりながら彼はやはり笑っている。
「……ル……ック……?」
「僕の名前。もうずっと使ってなかったけど」
「……ルック……」
「うん」
「ルック」
「なに……」
 透ける死神がはにかんだ。髪の先から光がはらはら散っていた。消えているのだ。彼の纏う黒いスーツも彼の肘も、背も、足も、砂粒のような光になって少しずつ少しずつ消えてゆく。かすかに砂時計を引っくり返した音がする。
「ルック」
「しつこ……」
「さっき言ったことは嘘じゃない。自分でもどうかしてると思ってる。けれど、本気で、君を愛しているんだ。ルック」
「……愛?」
「好きだ。ルックを、いちばん」
 俺はルックを死ぬほど抱いた。俺の涙はかろうじてルックの肩を透けずに乗った。転がって肘の先から落ちて、光と一緒にさらさら消える。
 ルックは俺の胸元でくぐもった声を小さく出した。
「僕、猫だったんだよ」
「……死神になる前?」
「そう。昔人間に縊り殺されて死んでから死神になったんだけど。昔って、何百年も昔だよ」
 ルックの声がどんどん弱る。そんなこと俺は気付きたくなかった。ルックが語る前世の話。そんなもの俺は今聞きたくない。それは、遺言だ。誰かに自分の存在を記憶しておいてほしいがゆえの。消える寸前の最後の足掻き。そんなもの、俺はそんなもの、聞き終わってさよならなんて。絶対に嫌だ!
「……あの時は、死ねてよかったって思ってた。生きてても飢える、失くす、裏切られる、無力、死ぬまで辛いことだらけだった。人間の指が僕の首を絞めた時も、頚椎が折れて咽喉に刺さる……痛くて苦しくて、何で生まれてきたんだろう、何で最初から死んでなかったんだろう……」
「……ルック……」
「だから僕は死神になったんだ」
 淡々と話すルックの体はもう胸から上しか残っていない。俺はついに空を切った片腕を、ルックの腰があったところからルックの首元へ移した。全霊を込めて抱き締める。これで繋ぎとめておけるなら腕がもげたって構わない。
「ルック」
「それは、ルック、は、僕の魂の名前だよ。野良猫に名前なんかないからね」
「ルック……っ」
「泣かないでよ……せっかくあんたを助けられたんだから、めそめそ見送られたくないよ……」
 ルックは儚く微笑した。綺麗だった。これが末期の笑みかと思うと悔しすぎて涙が溢れた。
「――無理だろう、この馬鹿が! 俺が、誰かの代わりに生き延びて、今回は苦痛なく死ねて良かった、安らかに死ねって……君に笑って!? できると思うのか! 目の前でルックを、愛する人を俺の命と引き換えにして!」
 俺はルックを本気で怒鳴った。掠れて最後まで言い切れなかった。けれどもう、言えたとしても限りなく無意味だったのだ。ルックは耳も消えていたから。
 胸から上はほとんど同時にざっと崩れ、光の砂になって消えた。ルックを抱く腕はいつの間にか空だった。痩せた顎も翡翠の瞳もみんな一遍に消滅し、水面を夕陽とともに照らす。
 優しい声が消えかかりながら風に乗って耳へ届いた。
「あんたは……長生きしてね……」
 俺は為す術ひとつなかった。消えたルックを抱き締めたまま絶叫した。かしゃん、と後に残ったのは、くすんだ懐中時計の鎖だけだった。





10

 あれから八年が経っていた。
 俺はこの春、巡査部長に昇進した。相も変わらず交番勤務、自転車で繁華街をパトロールしながらたまに銀行強盗やバスジャックなどの大きな事件で早期解決に貢献し、だが高卒ノンキャリに手柄を立ててどうのなどという功名心は持ちようがない。だから誉れは適当にいけ好かない上司へ譲ってしまった。なのに巡査部長への昇進試験を拒まなかったのはもう少し給与が欲しかったからだ。両親の遺産を全部まとめて途上国の植林事業に寄付した俺は、雀の涙ほどの薄給だけで単身寮を出ることにしたのだ。
 俺はビニール傘を差して薄暗い路地を歩いていた。引っ越したてのボロアパートは、自転車が二台並走するのもやっとなほど狭いこの路地に短辺を接したひょろ長い長方形の鉄骨二階建てで、鉄の骨組みしかない階段が風雨に晒され錆びきっている。計八室はどれも同じ六畳一間に玄関とキッチンが押し込められたワンルーム、トイレとバスは各階に共用が一つずつ。俺の給料で都心に住むにはこの程度の物件しか見つからなかった、と誤解を与えるのは忍びない。俺の給料で都心で、ペット飼育可能な物件が、この程度しかなかったのだ。だがまだペットは飼っていない。
 今の生活は平凡だった。だがそれなりに満ちていた。やり甲斐のある仕事、気の合う同僚、同窓会のたびに大学へ進学しなかったことを問い質してくる旧友たち。スーパーの半値特売品で献立をやり繰りするのにも慣れたし、コインランドリーで前の利用者が置いていった雑誌を捲りながらラジオを聞いて待ち時間を潰すのも隔日の日課になった。休日を署の剣道大会で暑苦しく過ごし、たまに図書館で太宰全集を読み耽る。俺は割と充実した人生を送っていた。胸を張って生きていた。俺に足りないのは、たったひとつだけ、だった。
 民家の庭木へ向けていた目をふいに下方へ落としたのはその時である。非番の夕暮れに欠かさない川沿いの散歩を終えてのんべんだらりと家路につく途中、アパートまであと数分の距離。す、と足元に小柄な影が過ぎったのだ。
 雨は小降りになっていたが、傘を開けたまま道端へ置いてしまうとさっそく頭が冷たくなった。気にせず俺は道端へ行儀悪くしゃがみ込む。
「……君、捨て猫か?」
 くるぶしへじゃれてきた茶色い猫を抱き上げた。抱き上げて、ぎょっとする。猫は初めから骨と皮しかなかったみたいに痩せている。毛並みは雨に濡れて硬くごわつき、そこだけ膨らんだ腹にへばり付いていた。飢えて痩せると全身が棒のように細くなるが、腹だけは内臓や肋骨があって他より細くなり切らない。それで腹だけ出っ張っているように見える。
 俺は猫の鼻先へ顔を近付けた。
「ちょうど良かった。君を飼える家に引っ越したところなんだ。今なら冷蔵庫に食い物もある。来るか?」
 にゃあ、と猫が返事する。耳に齧られた傷がある。濡れている体をジャージの裾で拭ってやれば猫はぐるぐる咽喉を鳴らして喜んだ。
 だが、ひらりと腕から飛び降りる。猫はこちらを一睨みすると先へ立って歩き出す。付いて来い、に見えるのは俺の気のせいだろうか。俺は傘を拾って差すと猫の後に従った。
 猫は路地の端を歩いた。でこぼこの路地はそこここに水溜まりがあって、雨と埃で黒ずんでいる。猫は危なげな足取りでそれらを避けながらしばらく進み、数分歩いてぴたりと止まった。ボロアパートの真ん前だ。
「何だ、俺の家を知っていたのか? 二階の突き当たりだよ」
 俺は錆びた階段を指差してやる。ところが猫は階段を上らずその裏側へ回るではないか。階段は骨組みしかないためこちらからでも裏側が見える。猫は裏へ回り込み、にゃあ、と小さく一声吠える。
 そこに何かある。いる。黒い塊がもぞもぞ動くと金茶色の光が零れる。
「……もう、何もないよ……全部あんたが食べたじゃない……。――あんた、誰、連れてきたの?」
 塊は、階段の前に立ち尽くす俺へ気付いたようだった。あ、と漏らすと立ち上がる。暗がりにも子供だと分かる身長、煤けて汚れた髪は金茶。よろけながら階段を手で掴み、薄暗がりからこちらへ出てくる。
 瞳が翡翠色かどうかなんて、見る前から分かりきっていた。声を聞いただけで、いや、そこに人のいる気配を感じた時からそのかすかな気配だけで、俺はとっくにそれが誰だか悟っていた。
「……ここの住人? 悪いんだけど、管理人じゃないんだったら、しばらく内緒にしといてくれない? 雨宿りしたいだけだから」
 雨に打たれ続けたのだろう、あの時のように全身ずぶ濡れになっていた。あの時よりずっと小さく、低く、良くて小学校に入学したばかりかあるいは幼稚園児程度の小さな子供だった。あの時のような黒、黒いセーターを着ている。けれどそれしか着ていなかった。大人用のセーターから覗く素足や、ぶかぶかの襟ぐりから覗く首、顎、至るところに青黒い痣が刻まれている。肩へかかるくらい長めの髪にも奇妙に短い部分があった。
「もしかして、警察に通報しようとしてる? 大人ってみんなそうだね。とりあえず警察に引き取らせれば自分も僕も一安心だと思ってるんでしょ。少なくともあんたは面倒事から解放されるね。僕は……あんなところに逆戻りす」
「俺は警官だ」
「――嘘」
「そこの派出所に勤めてる」
 口が勝手に動いていた。どうでもいいことを言っている。まるであの時に戻ったようだ。ビルの屋上から自分で飛び降りたあの時。思ったのは――想ったのは、ただ。
「……アスフェル・マクドール……?」
 彼が突然呟いた。呟いてぱっと口許をセーターの袖で塞いだ。翡翠の瞳は見開かれ、俺を呆然と見つめている。
「……え、これ、あんたの名前? 僕何でそんなこと知って……あ、あれっ……何、これ……」
 彼が消滅した砂のような光を俺はまざまざと思い起こした。目の前の丸い瞳からころりと流れ落ちた涙がまさにあの時の光そのものだったのだ。けれど今度は、今度こそは、消えずに頬を伝い靴も履いていない剥き出しの足の甲へ落ちて、雨に洗い流される。

 彼は、あの時の死神だった。

 猫が鳴いた。衰弱しきった声だった。最期の力で引き合わせてくれたのだろうか、俺はぐちゃぐちゃに混乱しながらそんなことを考えた。頭と体は別のものになっていた。俺の体は傘を放り出して今度こそ消えてしまわないように強く、強く、ずぶ濡れで寒さに震える彼を――ルックを、思い切り抱き締めていた。
「……何で、あんたが泣いてるの……」
「馬鹿、って言うんだろう」
「言わないよ」
「言っていいのに」
 あの時のように。
「……ううん」
 ゆるく首を振るルックの肩へ、俺は目頭を埋めて泣いた。セーターは水を吸って重たく、真冬の川の水のように冷たかった。熱い風呂へ入れてやろう、嫌がるだろうが猫も一緒に。それから乾いた服を貸してやって、もつれた髪も解かしてやって、違う、そんなことは全部後回しだ。哀れな魂を今度こそ俺が、あの時と逆に、あの時を決して繰り返さないで、俺がルックを救いたい。違う、それも違う。
「だって……僕も泣きそう。馬鹿みたい。何でだろ……」
 ルックが涙声で囁いた。俺の肩へしがみ付き、痩せ細って骨の飛び出た踵を必死で浮かせて爪先立ちした。俺が泣きながらくすりと笑うと、ルックは不本意そうに鼻を鳴らして憤った。
「馬鹿にしないで」
「泣きそう、どころかもう泣いてるよ、ルック」
「嘘」
「まだ俺を信じないのか」
「……何で僕の名前」
「愛してる」
「僕の名前っていうか、ルックって、僕だけが知ってる僕の名前なんだけど、生まれたときからそれだけ覚えてて、でも戸籍上はもちろん違う名前になっ、……、愛……?」
 知らないのだ。あの時もルックは不思議そうな声を出していた。きっとルックは愛したことも、誰かに愛されたこともない。ずっと孤独だったのだ。だから俺のためにあっさり命を投げ出せたのか。それとも、どんな境遇に置かれようとルックの一途な潔さは失われずにあったのか。
「八年前にはフラれたんだ、君に」
「……僕、七歳なんだけど」
「あれから八年間片時も君を忘れたことがないって、信じるか?」
「だから僕は七歳なの。計算が合わないってば」
「合ってるよ」
 俺はルックの両足を膝から掬い上げた。七歳のルックは横抱きにしても俺の腕にすっぽり収まる小ささだった。くしゅん、と体相応に小さなくしゃみ。冷え切ったルックを抱いて俺は錆びた階段を上る。
 猫はよたよたと俺の後に付いてきた。階段を這うように上り、にゃあ、と振り絞るような声で鳴いた。
「ちょうど今月から昇給したんだ。一人と一匹くらい養えるよ」
「あんた警察でしょ、僕を」
「俺はルックの里親になれないか?」
「……それ、養子縁組前提?」
「恋人前提。ルックが嫌でないならば、ね」
 ルックが俺に頭を凭れさせてきた。ルックの体は同年代の他の子どもよりずっと軽く痩せ細っていたが、それでも両腕にずっしりと人間らしい重みがかかる。重たさはつまり存在なのだ。この世に存在している証。ぎゅ、と抱くと、応えるように身を竦めてくれる感触の生々しさまでが嬉しい。なのに凛とした清冽さでもってすぐさま背筋を伸ばすところも。
 にゃあ、と猫が俺を急かすようにドアの前で飛び跳ねた。体を震わせて水気を飛ばし、鼻をひくひくさせている。体力はすっかり落ちているようだが猫飯を食わせればすぐ元気になるだろう。名前を付けて、鈴を結んで、お隣の小型犬へ近付かないよう言い聞かせねば。
「この猫……今、運命が変わった……」
 ルックが無自覚に漏らした呟き、小さな微笑は、あの時よりもずっと生気が通っていた。







ここまでお読みくださいまして、本当にありがとうございました!

せっかくなので制作秘話など。
まず1、最初坊の年齢を高3にしていてこっそり直したり、坊の高校生活について延々無駄に細かく設定しようとしていたのをどうせギャグだからいらねぇよとまとめて消したり、適当さが滲み出てました。
2で死神の仕事内容や大雑把な世界観(要するに仏教の輪廻をベースにして後は適当)を決め、4までにはルック死亡→再会という大まかな流れを決めたのですが、坊が細かいとこにうるさいせいで一向に話が進まない!
このあたりが書きながらいちばんイライラしてたと思います。
ちなみにこの時点ではテッドがルックの上司として出る予定でして、t「よールック」a「君、ルックって言うんだ」的、テッドは望まざるキューピッド役になる予定でした(笑)
そうしなくて良かったですか。
6がですね、書き上げてからですね、ルックが手袋してないことに気付きまして(笑)←1では付けてた
この総集編ではその辺りを含めちょろっと手直しさせていただいてしまいましたすいません。
そして10、坊の職業を決めかねて、執筆時間のほとんどが最初の数行にかかった件…。
伝統工芸の切子あるいは木彫り、漆器、または宮大工に弟子入りっていう線を考えてたんですが、青年海外協力隊でニジェールに赴任っていいよねと迂回して、ようやくベタに警官で落ち着いたという。
重要無形文化財から世界各国の公用語、ついでに少年院まで手当たり次第に調べましたが全然使いませんでした(笑)
いつものことだ。
10は時間が足りなくてラストをものすごく適当に仕上げてしまったので、この総集編ではそこも手直ししています。
良くなったかどうかは私にはわかりませんが…ううん、まだ気に入らないんですが…。
文章の世界は奥が深いです。

そんなわけで、どうにか書き上げた死神シリーズでございました。
ネタ元の天薙ユノハさまには足を向けて寝られません。
またこんなのをやってみたい気は、し、しないでもないですので、いつか萌えと機会があればチャレンジしたいと思います。
お付き合いいただきどうもありがとうございました。

※数日中に、続編というかおまけをアップする予定です(笑)
あっ、続編といえば、坊と子ルックと猫の3人暮らしスタート編とかも私は気にかかってるんですが、それもまた機会があればということで。

20090521