珍しくカノンが落ち込んでいる。ぺしょんと潰された卵のように、柔らかい心がひび割れた殻から漏れているのも見て取れた。紺の地面へとろり広がる黄身より粘ったカノンの傷心。殻の内側を隙間なく塞いでいたはずの柔軟な内膜は、今や無残に引き裂かれている。
護衛の少女から譲り受けたはいいものの、ロイは迂闊に手を触れかねた。しかし生来の気質ゆえにか、遠めに見守ること耐えがたく、ついに労わりの言葉をへたり込む頭へ乗せてしまう。同時に手のひらも銀糸の上へ。ただし、できるだけ何げない風を装うことは忘れない。
「おう、どした」
カノンはゆるく、虚ろな瞳を見開いた。
「……え、何でロイ……あれ。ここどこ。僕、なにして」
「自分でふらふら出てきたんだろ」
「うそ」
「誰が王子さんを深夜に船着場へ連れてくよ」
「ロイがじゃないの」
「テメ、たった今までオレがいんのにマジで気づいてなかったろボケが」
「そうだったかな……」
ことりと首を傾げると、カノンはそのまま頭の重みに引きずられ、首を惰性で回るに任せ半周させた。左斜め後ろ、奇妙な角度で上向いたきり、初夏の夜空へ定まらぬ焦点をうち向ける。生真面目そうな小さめの口は宙へ半分開かれており、常なら表立った起伏を見せない薄い眉毛もどことなく垂れ落ちるよう。背中を伝う長い三つ編みがみすぼらしく解けかけていた。
カノンに落ち込む理由はなかった。強いて言うなら、王族として生まれ臣下の反逆にあい両親を一度に喪って、妹を敵の手中にあらしめる、現在の状態すべてが彼の英気を悉く打ち砕いてやまないだろう。だがカノンには、既に起こってしまった過去の出来事に対して異常なまでに頓着を見せぬ節がある。だから、落ち込んでいるのは過去のことを憂慮してだとか現在降りかかる苦難を思い煩ってとか、そんなまっとうな理由であるはずがない。
というのが、ロイの下した推論である。だって見てみろ。カノンの瞳は貴族どもの使う中身のない会話よりずっと透き通っているではないか。空虚さこそ孕めど他者の足元を羨むような澱がまったく存在しない。病んだ者に特有の厭世的な腐臭からカノンは最も遠い座標に位置しているのだ。――ロイの買い被りでなければ、であるが。
「あれぇ? 僕自分の部屋のベッドの上に座ってるつもりだったんだけど、隣にロイじゃなくてリオンがいたんじゃなかったかなぁ?」
「十五分前までな」
「リオンは? っていうか、ロイは何しにここまで来たの」
「……さてね」
三つ編みが頼りなく振るわれる。銀糸がカノンの背へ散った。肩を竦めてとぼけたロイに抗してだとは思えないから、どうもカノンは首の重心がなかなか定まらないらしい。
「頭が、働かなくて」
「ネブソクか?」
「うーん、重いんだよね」
「ネブソクじゃねぇのかよ」
「重いっていうか、くもの巣が絡まったみたいな、僕くも嫌いじゃないけど。だってくもよりさそりの方が怖いもの」
「……ほぉ」
会話が成り立たねェ。――とちょいキレたことなどおくびにも出さず、ロイは曖昧に相槌を打つ。何しろ、カノンときたら、とんだ方向に転がる独白を修正する素振りさえないのだ。放っておけば、クモとサソリは同じチュケイルイに分類するの、と虚ろな様子で呟いている。無学なロイには呪文か何かとしか聞こえない。
船着場はログらの木船がさざめく波に上下へ揺れて、ぎぃ、きぃと、不快でない音をあげていた。しばらく二人して音に聞き入る。カノンがようやく押し黙る。
ファレナの夜は晴天が多い。一年が雨季と乾季に大きく二分される気候帯でありながら、年間降雨量はそう高くないためである。今もやはりファレナ女王国らしく雲一つない月影の夜、座り込むカノンは空を、立ち尽くすロイは水中を、まるで対になることを示し合わせでもしたかのように瞳へ映じさせていた。もちろん、正確には両者ともそこを見ていない。この夜闇では視線を遣る先が空か湖しかなかっただけだ。カノンは空に瞬く星を、ロイは水中に星を照り返す波の表面を、じっと見ているふりをしていた。
ところが、そう時を待たずしてまたも独白をこぼすカノン。
「……ぜんぶが重く感じたりして、体も、ぜんぶ」
ロイはことさら淡白に応じる。
「そらあるわな。疲れたときに」
「みんなそうなのかな。みんな疲れてるのかな。戦争のせいなのかな」
「かもしれねぇな」
「でも違う人もいるよね」
「他人だからな」
「ワケわかんなくないそれ、僕理解できない」
「……ん。オレも」
だけどロイにはかすかに分かる。カノンが負担に感じているのは為政者の咎に違いない。平民にもたらす負荷を思い、ロイには想像もつかない世界のあれこれを案じては次の瞬間にそれを手放す。カノンは為政者の一族であっても本人にはなり得ないからだ。しかし無辜の民を思う精神だけはカノンの内に深く備えられていて、お国のために、国民のために自らを投げ打つ方策ばかり考えている。献身的な奉仕こそ為政者の善だと信じているのだ。そして、最終的にどう葛藤するかというと、平民どもより王族の命の方が重いことを実感する時である。カノンを守って死ぬことを美徳とする人種がカノンの側に呆れるくらい控えていれば、王族の血筋がどれだけカノンの運命を好転させてきたものか、カノンは凝視せざるを得ない。
カノンは縛られすぎている。ロイなら自分のためだけに捨てる単純な正義、自分のためだけに守る掟のすべてを、カノンは後生大事にしようとしてるのだ。
「しんどいんだろ。お前はよ」
「……あ、それ」
「ンな顔してっぞ」
「えー。ロイって僕のことすごくよくわかってない?」
「サッカクだアホ」
「あほってゆった」
「お前もオレをさんっざんバカだのノーミソ軽いだの言ってるじゃんかよ」
「そこまで言ったっけ」
「自覚ナシかよタチ悪ぃ」
「だってお酒飲んだもん」
「――おま、」
ロイは鼻白んだ。
カノンの声のふらつく理由がやっと解明されたのだ。顔色にまったく変化が見られなけれど、これはカノンの特徴的な酔い方だった。とりとめのない会話が多くなり、少々幼稚に、あるいは即情的に、まるで詩のような言い散らしが現れる。もう少し飲むとようやく皮膚に血色が上って、極端なことに顔といわず肩や足先までほんのり赤い上等のロゼワインに仕上がるだろう。ここまで来ればあとは唐突に眠るまでそう間がない。
ロイがここまで詳しいのは決してカノンとよく酒を浴びるほど飲みまくっているからではなく、それも否定はできないが、何よりロイ自身の酔い方と一部似通う面があるからである。決してカノンのことをよく観察している成果ではない。ない、と思う。多分。
自分自身へ言い訳するのが若干虚しくなってきて、ロイは溜息混じりにカノンの横へ胡坐をかいて座り込んだ。湖へ足を投げ出して座るカノンは、ちらりと隣のロイを見遣ると、おもむろにロイの真似をし始める。だが王子たるにふさわしくカノンは胡坐が下手くそだ。足の甲をどうした結果か高く胸あたりまで持ち上げて、そのままころんと、背中から地面へ転がった。
「……あー、蠍座」
足を宙にあげていれば胡坐の形が取れるらしい。カノンは寝転がったまま足はどうにか胡坐をかいて、両手で足首を支え持ちつつ小さな笑い声を立てる。
「どこ? どれが?」
「流れ星に乗ったらどこまで旅ができるかなぁ」
「え、あれ乗れんのか?」
「んーん、たぶん無理じゃないかな」
「ムリなのかよ」
「星はすごく遠いところにあるって習ったもの」
「へぇ」
カノンは今さら蠍座の場所を示さんと思いついたらしい。空の一角を指差そうとし、片手を離したせいで胡坐のバランスを簡単に失して、ついに諦め、仰向けに四肢を投げ出した。踵が船着場からはみ出る。湖面へ向けて爪先をぶらぶら遊ばせる。
酔いが醒めるまで。――カノンに付き合うたび、ロイはこうやって内心に期限を切っていた。元来同じ立場にいるべきではないことを知っている。いつか自分から別離を言い渡さなければならぬだろうことも重々承知している。
けれど今だけ、もう少しだけ。未来のため現在を疎かにするなんて山賊風情に似合わない。
ロイはカノンの絶え間ない話に付き合いながら、空へ流れ星を探した。が、冴やかなる月が邪魔をしていて星はあまり見えなかった。