軍師に求められた野暮用でたった数日離れただけの城へ戻る。
カイル様、と甲高い声があちらこちらからあがるのを、現在ばかりはすべて片手であしらった。またね。女の子たちには悪いけど、その続きは今聞けない。俺は何よりもまずやらなくちゃならないことがある。
長い吊り橋から外周を経てひやり涼しい城内へ入り、突き当たりの部屋へ気配がないのを確かめる前にもう階段へ足を掛け。見知らぬ顔がいくつか混ざっているのを認めつつ、馴染みの子たちへ急ぐ理由を顔に乗す。廊下を挟んで最左端にある階段まではできる限り早足で、勾配のきつく長い階段は弾むように駆け上った。足音はつい潜めてしまうのが癖である。
上りきれば、最上階。
天頂に銀糸の甘い一房を泳がせて、西日に染まるセラス湖岸を飽きもせずに眺めているのがこの蘇りし城の主だ。主と呼ぶには語弊があるか。ここは都を取り戻すまでの仮本拠地に過ぎないのだから。
銀糸の君は首をゆうるり俯けた。護衛の見習い女王騎士が三歩後ろへ佇んでいた。声を掛け損ねてしまい、俺は階段を抜き足差し足で上ったことに若干ながら後悔をした。
仮の主へ近づく次の一足を、俺は意図的に大きく踏み出す。とん、と、靴底を軽く響かせて。
「……カイル?」
銀の三つ編みが夕焼けに揺れた。
あの時と同じ光景だ。
呼び出されたのは最上階の今とほとんど同じ場所、同じような刻だった。一番に、言わせてほしい。そう訴えてきた青の瞳が今までになく真剣だった。出立前の他愛ない約束、――他愛ない、はずだったのに。そぐわなくあんな目をされて、いくらそれが女王騎士に対してのみ我侭な子供らしく振舞うことで騎士の心を和ませる激励の類だと分かっていても、全力で果たさぬわけにはいかなかろう。よって俺は帰還した今、他愛ない遊びに付き合うつもりで、半ば命懸けのゲームのように城内を無言で突っ切ったのだ。
ところが実際この場面、ゲームの終盤へ置かれた俺は、俺の方が、欲しているのかもしれない。勢いよく振り返ってくれるまでの短い時間がこんなに長く感じるなんて。
王子は俺を直視した。
「カイル。おかえり」
「ただ今戻りましたー、王子」
未だ声変わりの終わらない声で王子はゲームの終了を告げ、ひどくゆっくり微笑んだ。何だかこそばゆい。俺はことさら深みのない口調で応じてしまう。だがごく自然に敬礼していて、不均衡さに苦笑しそうだ。
「ルクレツィアにはもう報告した?」
「まだでーす。王子へ一番にご挨拶しに、ここまで一直線でしたから」
「……そう、なんだ」
「そうですとも」
「そっか」
王子の表情が束の間翳る。ほんの束の間であって、王子はすぐに明るい笑みを戻したけれど、俺はちくんと心の隅にそれが引っかかるのを感じた。だって理由が思いつかない。王子の無邪気な約束を律儀に守ってみせたのに。
訝った俺を遮るごとく王子はぶるっと身を震わせる。夕暮れの屋上は風が強くなり急に冷え込むためである。あ、と思っても俺は羽織らせるものひとつ持たず、そもそもこのゲームは以上をもって終了だ。王子が出立前のあの時と同じ状況であるここへ留まる理由はない。
二言、三言、当たり障りのない挨拶の延長戦をいとおざなりにこなしつつ、王子はすいと俺の脇を通り過ぎた。振り返りもしないのだ。階段を、先ほど俺が駆け抜けたのよりはるかにゆっくり、降りてゆく、慌てて従うリオンのものと二人分の足音、そして視界を吸い寄せる銀糸の一房がともに俺の五感を脱するに至るまで。俺は身動きしなかった。いや、できなかった。
(もどかしー……)
何が、だろう。先まで王子のいた場所へ歩み、手摺りの外側へ独り背中を仰け反らす。ファレナの崇める太陽はセラス湖とその奥にけぶる山あいの向こうへ沈み隠れて、水平線の下からなおも大空に茜色を送り続けているようだ。まだらな雲が光を受けて灯火にも似る紅色に染まり、空は夜の訪れる薄青へと色調を変じつつあって、それは美しいなかにも物悲しさを植えつけられる不安定な景色と見えた。
目の乾くような風が直接顔面へ吹きつける。ともすれば眼球の表面を剥がしてゆきそうに強い風。
俺は、王子がいつからここへ立っていたのか想像するさえ困難だった。