うつりが





キキョウの背中は、黒く塗りつぶされていた。

もちろん錯覚だ。後部甲板に正面から差す昼前の日光がキキョウを白く覆いこみ、もってその背を影一色に染めているだけ。それが証拠にハーヴェイを振り向くキキョウの額は眩しいばかりの赤色で、血潮の朱かとまたしても目をこする羽目になった。
キキョウは魚を釣っているらしい。縁へぺたりと腰下ろし、足を大海へぶらぶらさせながら釣竿を軽く振っている。ウゲツが隣で何やら細かそうな手作業に没頭していた。オモリでもこしらえているのだろうか。
キキョウが体勢をこちらへ回す前に、ハーヴェイはキキョウの背後を取った。す、と両手で目を覆う。見下ろす海は陽が乱反射して目に痛い。
「だー、れ、だっ」
「…ええと」
この眩しさでは却って顔など見えなかっただろう。つまり、ハーヴェイを視認できていなかったらしいキキョウは、即答しないで小首を傾げた。――まさか、顔を見ても名前が思い出せなかった……とは思いたくない。いい加減何度も寝てるのだから。
ハーヴェイを焦燥させる数秒の後、キキョウは突然、くんと小さく鼻を鳴らした。
「…ハー?」
「何お前、匂いで分かんの?」
「…うん」
ぱ、と手のひらをどけてやりながらキキョウの頭を赤いハチマキごと荒く掻く。キキョウはこういうスキンシップを好む、とは同僚であるシグルドの言だ。確かにキキョウは頬を綻ばせ、若干悔しい思いもしつつ、ハーヴェイはキキョウの顔を上からひょいと覗いて笑んだ。
「俺ってそんなにイイ匂い?」
「…うん。海賊の匂い」
「よく分かんねーけど砲弾の匂いってことかぁ? それとも何だ、金貨財宝と酒の匂いか?」
「…えっとね、ハーの匂い」
キキョウはほわっと柔らかく笑う。もし自分が一瞬後に罪を犯したとしても、こいつは黙って受け入れてくれるんだろうと確信させるほど底抜けた顔だ。キキョウの笑顔にはハーヴェイの居場所がちゃんとある。これをどう適切に言い表すべきか、相方のシグルドと違って文字通り浅学なハーヴェイにはとんと見当が付かない。
「さっぱり分かんねぇな、お前」
そんなところも好きだぞと、女相手にならちょっとした睦言にも聞こえそうな賛辞を込めてキキョウを小突く。ナレオみたいなのじゃなく、こんな部下か後輩が欲しかった。そうでなければこんな弟。そしたらもっと親身になってやれるのに。
「…」
だが、キキョウは眉を曇らせた。
「や、怒ってねぇし呆れてもねぇから。勘違いすんなよ」
「…ん」
「あのな、分かんねってのはそーゆー意味じゃなくてさー……、俺の言い方も悪ぃけどよ、多少は汲んでくれや」
「…うん」
生返事だ。――そうするしかないのだ。キキョウにハーヴェイの気持ちを察せと言ったって、それはこの大海原からボタンひとつを探し出すより困難だろう。それでも何万年かかければボタンはいつか見つかるが、ハーヴェイの気持ちはいつまで経っても現出しない。気持ちは決して目に見えないものだからだ。
その時ぷかんとキキョウの円錐ウキが沈まなかったら、もっと湿っぽくなるところだった。口を挟みかねていたウゲツが努めて明るい声でウキを指差し、アタリ、アワセとキキョウの手元を真似て奇妙に道化的な振り付けをした。
魚が餌に食いつきウキやサオが動く、いわゆるアタリが出たら、魚に違和感を与えないよう送り込み、鈎を魚の口の合わせ目にしっかり引っ掛けなければならない。これを釣り用語でアワセという。手元にあるリールをぐるぐる巻いて釣り糸を手繰るのはその後だ。
「…」
「どした? 釣らないのか?」
ハーヴェイはキキョウの背へ手を置いてやる。何よりもスキンシップ、とは意思伝達のコツをシグルドに指南されずとも数度の交接で心得ている。下手に大声を出してしまうより体に触れてやる方が良いのだ。
ややしてウキを見つめるキキョウが、くんっと鼻をひくつかせた。
「…カツオかな」
呟いてすぐに手際よくアワセを始める。ハーヴェイは釣りがあまり得意ではないが、引き具合、弛ませ具合が、どうやらなかなかの腕前であるようだ。釣りに関してはこの船内において間違いなく随一のプロフェッショナルであるウゲツもほとんど手出しをしないでいる。こういう遊びはひとりでやりきる方が楽しいものらしい。何だかな、とむず痒さが手先に湧く。ハーヴェイには理解し難い趣向だ。
「…カツオだ」
ぴちっと、眩しい海から空へ引っ張り出された魚は、果たしてキキョウの予言通りに鰹であった。ウゲツがタモでそれを掬う。小ぶりではあるが脂が乗って旨そうだ。早速今晩の食卓に出されるのだろう。きっと刺身だ。
「なぁキキョウよ、それもやっぱし匂いで分かったのか?」
「…うん。たぶん」
「すっげ。お前、犬並みだな」
「…チーのがすごいよ。もっと遠くまでわかる」
「あいつはネコボルトだろ。犬ほどじゃねぇけど人間よかずっと嗅覚がいいんだぜ」
「…そうなんだ」
キキョウは再びほわっと微笑んだ。笑うと目尻に睫毛がかぶっていつもより瞳が大きく見える。かわいいな、と思ったときにはその頬へ唇をつけていて、ハーヴェイは睨むウゲツに奇怪なまでの心地悪さを味わった。失態だ。こいつもキキョウを特別大切なものに思っているとは今の今まで気づかなかった。
「……匂いだけで、何でも分かりゃいいのにな」
「…?」
「実際には絶対分かんねんだけどよ。もしもの話」
「…うん」
体臭のように、あるいは魚のように。気持ちを表す匂いがそれぞれ異なって香るものならよかったのに。例えばさっきまで上機嫌だったウゲツが豹変して不吉な顔色をしているだとか、例えば、さっきまで普通だったハーヴェイが、今にも泣きそうな哀情をすんでのところでぐっと飲み込んでいるだとか。実際は涙でも落とさない限り、その塩気をキキョウが嗅ぎわけない限り、匂いで気持ちを識別できはしない。
コミュニケーションとは基本的に表情と言語、それに身振りを交えて行うものだ。つまり、身振りでしかまともに会話のできないキキョウにはいつまで経っても大きな壁がそこにある。だけどもし嗅覚が伝達の一助になるのなら、キキョウももう少し生きやすくなろう。――もちろん、キキョウが匂いの違いを表情の違いと捉えることができればである。
どうせキキョウには無理だ。
ハーヴェイはあまりにも哀しいキキョウの生き方に込み上げるものを押しこめた。ウゲツに勘繰られないよう、にかっと明るく笑顔を作る。すると、鰹の口から鈎を取っていたキキョウが、背へ置かれたハーヴェイの手に体を摺り寄せる仕草を見せた。
(ほら、そーゆーことすっから……)
ぐ、とハーヴェイを突き動かす衝動はキキョウの肉体を喜ばせるだけのものだ。それも匂いでは決して分からない。キキョウは自らの服を荒々しく剥かれるまでハーヴェイの欲望に気づかないだろう。そして、なぜハーヴェイやその他数多がキキョウへ行為を強いてしまうかは。
……一生かかっても、永久に分からないままなのかもしれない。
「…ハー?」
「あ? ――悪ぃ、ぼーっとしてたわ」
「…ハーはカツオきらい?」
「んーにゃ、けっこう好きだけど。ここのヤツらってナマで食わね? あれが苦手つかそろそろ飽きちまったんだよなー」
「…ん」
「や、だからさ、お前がナマ好きなら別に刺身で食やぁいいんだぜ。俺は炙るか焼くかして食うからよ。酒にはタタキが合うんだなこれが」
「…うん」
キキョウはふいと海面へ目を遣った。どうしてかハーヴェイは夕焼けだと思ったのだが、ハーヴェイが後部甲板に出てからまだ三十分も経っていないのだ。そろそろ南中へ差しかかろうとする日光はきわめて真白にキキョウを照らし、海のさざめくたびにちかちか光が目を射った。見つめているのはかなりつらい。視界に白がいつまでも残る。
「…ハーの、匂い」
キキョウがそっと呟いた。くんと眩しい海へ鼻を向ける。
「…潮の匂い」
「俺の服か? あー、肌にも染みついてっか? そらほとんど毎日海際にいるようなもんだからなぁ」
「…海賊島の潮の匂い。キカもおんなじ。ウーはナ・ナルの潮の匂い」
「お前な、海は繋がってんだぜ? どこも同じ水だろ?」
「…ちがうときもあるよ」
珍しくキキョウが反論めいたことを言う。覗きこめば表情はこの海よりも穏やかで、ただハーヴェイの問いに答えただけであるようだ。それにしても、水が違うとは実にキキョウらしい感覚である。どこが「らしい」かはなかなか言葉にできないけれど。
ウゲツがさっきから作っていたらしい小さめの鈎をハリスの先へ結びつけ、オキアミをバケツから摘まみ出す。キキョウはその間にマキエをし、ウゲツが餌を付け終えたのを受けて釣り糸を海中へそっと放り投げた。さっきより小刻みに釣竿を動かし始める。やはり相当手際が良い。
キキョウの後ろで腕を組み、ハーヴェイはキキョウを見下ろしながら太陽の角度を目測してみた。さっきまで真正面にあった日が左手へ少しずつ移動しているから、船は針路を東へ切ったらしい。
「…イワシ?」
船の近くに鳥山が見えた。鼻をひくつかせたキキョウが尋ねる。魚影を凝らし見てからウゲツがこくりと頷いて、キキョウは満足げに釣竿をひょいっと動かした。イワシを食べに来る大物を狙う様子だ。
――ふと、懐かしい匂い。
(ああ。これか)
ハーヴェイの故郷、海賊島はもう目睫の先であった。







よんよんを書きたいと強く思うときがあります。
そういう、めちゃくちゃ書きたくなったときには、ほぼすべて頭の中でできあがっているのでそれをきれいに整えるだけ。
ハーヴェイはハー、シグルドはシー、何とウゲツはウーだそうです。
ちょっとよんよんそれはやりすぎじゃない?(笑)

20061103