自室のドアをどんどんどんと乱暴に三回叩かれて、こんなノックはあいつしかいねぇよなぁとテッドはむっくり起き上がった。深夜である。目やにでしょぼしょぼする目を擦り、ついでに寝癖の付いた頭髪も無造作に上へ掻きやりながら、渋々ドアを開けてやる。
「…テッド……!」
「うお、っとと、――いでェッ」
弾かれるように全身白っぽい塊がテッドの胸へ飛び込んできた。足を踏ん張って受け止めて、顔を覗き込もうとしたらその前にぐいぐい抱き締められて、よろけた拍子にテーブルの角へ思い切り太股をぶつけてしまう。
「痛ェよっどけキキョウ!」
「…ひっ」
夜中だというのをすっかり忘れてテッドは痛みのままに怒鳴った。すぐに思い出し、あ、と唇をきつく合わせる。腕の中では声に竦んだかか細く漏れる小さな泣き声。マジった。ドア閉めてねぇんだけど。
「わり、怒ってねぇからとりあえず離してくんないかな。ドア閉める」
「…テッド……」
「何か知らんが逃げてきたんだろ。鍵かけなかったら意味ねぇぞ。……って……キ、キキョウ?」
痛みが引くにつれいくらか冷静になり、テッドは胸元を宥めようと見下ろして――驚いた。裸だ。素っ裸。胸の中でぐずぐず泣くのは生まれたての餅肌である。引き剥がそうとした名残でその脇腹に触れているテッドの手のひらへ柔らかい白肌が吸い付いてくる。こんな格好でさめざめ泣くのは、一応仮にもこの船の船長、兼、群島諸国軍のリーダーなんぞを務めているはずのキキョウまさにその人であった。人物こそ予想通りだが予想を上回る出で立ちである。
「……事情は何となく分かった。おら、ドア閉めんぞ」
テッドはキキョウをずりずり引き摺ってドアと鍵をしっかり閉めた。着るものを貸してやろうと思ったものの部屋が暗くてクローゼットがよく見えず、かといって先にランプを点けてしまえばこの丸っ裸を光へ晒すことになる。それはな、と躊躇えば今できることは一つしかない。テッドはキキョウを押しのけるようにして自分の寝間着の上着を脱ぐ。
そこで初めて、キキョウの下半身のただならぬ状態に気がついた。
「……お前なぁ……強姦されかけて勃ってんのかよ……」
「…う……」
「そこで泣かれても……」
「…触られた……いっぱい……」
キキョウはへなへなとしゃがみ込んだ。テッドの膝へしがみ付く。絡まる腕が、肩が、ひっきりなしに震えている。寒さにではなく歯を鳴らしながら嗚咽を寸前で堪えている。
変だな、と思った。
まずキキョウは強姦なんて屁とも思っていないはずだ。現に今も勃起している。和姦と無理矢理犯されるのと、キキョウにとってはどちらも同じ性交だろう。相手が一言ヤらせろと言えばキキョウは素直に体を開くし、感じやすい身体は突っ込まれれば勝手に善がる。今さらそれを嫌がる理由が分からない。
「キキョウ……何があった?」
「…にげた」
「うんいやそれは見りゃ分かる。何で逃げた」
「…死ぬって」
「刺客か?!」
「…ううん」
「じゃ誰」
「…シャ」
「……って誰だよ……あー、つうか誰でもいいじゃねぇか俺」
テッドは自分の頭を叩いた。キキョウとの問答は時にイライラさせられる。いつどこで誰が何をどうしたなぜどのように、をいちいち尋ねてやらなければならないからだ。だがこっちも深夜に叩き起こされてキキョウのあられもない格好、質問を整理して聞き出してやるところまでまだ頭が回っていない。
「――とりあえず寝るか」
テッドは詮索を投げ出した。というか答えを本人の口から直接聞くのが怖かった。
多分だがキキョウは死ぬほど感じろとでも言われたんじゃなかろうか。なのにキキョウは死ぬという部分だけを聞き取って裸で逃げ出してくるほど怯えた。キキョウはそうまでして死にたくない。生きたい。なぜ。もちろん本能だ。精神的には弱肉強食の世における社会的最弱者と言ってもいいキキョウがここまで生きてこられたのは、偏にその強い意志。真なる紋章の呪いが彼からは周囲の人を奪えないで手ぐすね引いている訳も。
生への執着という点において、キキョウは決定的にテッドと重なっているのだ。だから真の紋章なんかに目を付けられる。不幸になる。
「…ねる」
どうやら夜目が利くらしい。テッドの言葉を反復するキキョウがよろけながら立ち上がり、落ち込むテッドを案内するように手を引いた。ところがそのまま腕ごと強く引っ張られる。
「どわっ!」
「…テッド」
いきなりベッドに突き飛ばされた。さらに背中へ圧し掛かられる。すり、と上着を脱いだままの背中にすべらかな肌で頬擦りされるや、うなじへキスを落とされた。柔らかい。ふわふわなのに弾力のある感触へ背筋が過敏に総毛立つ。
「っキキョウ! 何考えてんだ! 誰かから知らねぇけど逃げてきたんだろ、それで何で俺とヤろうとすんだよお前は!」
「…ねるって」
「言ったがヤるとは言ってない!」
「…う」
キキョウが瞳に涙を溜めた。腕を振り上げてキキョウを阻んだテッドだったが、まるで自分がいじめっ子にでもなった気分だ。ごめんなと今すぐ抱き付いてやりたくなる。抱き付いてそのまま唇を吸って、纏うものない玉肌を思うさま舌で辿りたい。
――今、何を考えた?
テッドは夢中でキキョウを背中から蹴り飛ばした。
「っぶね……! 反応しかけたじゃねぇか!」
「…うん」
「最低だ俺、この船のヤツらと同類にだけはなりたくねってのに」
「…サイテエ?」
「俺はお前とえっちしたくねぇの」
「…えっ」
キキョウは蹴られてベッドの隅へ転がったまま呆然と潤んだ目を見開いた。断られるなど想像だにしていなかったような表情である。
その顔が嫌だ、とテッドは憂う。キキョウにとって人間は敵か味方かの二種類にしか見えないみたいだ。敵は殺すもの、味方は身体を交わらせるもの。本当にそんな区分けしかできないのだとしたら……悲しすぎる。どちらの行為もキキョウに撥ね返るのは後味の悪い虚しさだけだ。
「あのなー、お前はもちっとさー……そういうのはな、好きなヤツとするもんだぜ」
テッドはキキョウをそっと諌めた。今さらこれは変わらないだろうと諌める前から諦めながら、それでも言わずにおれなかったのだ。誰かがこいつを変えてやらなきゃ。自分には無理だけど、他の誰かが。
もしかしたらテッドが諦めさえしなかったらキキョウを少しでも真っ当な方向へ正してやれたかもしれなかったが、テッドにとって諦めることは、キキョウがそうであるように、今さら変えるのが困難なほど根に染み付いた悪癖だった。諦めないと今まで生きられなかったのだ。自分らしさを押し込めなければ。
キキョウはきょとんとテッドの発言を咀嚼している。数秒経って結論が出たらしく、いや、出ていた結論を咀嚼し直していたようだ。当然のことと言わんばかりに首をことんと傾ける。
「…テッド、好き」
「あーもーだからー!」
やっぱりキキョウは分かっていない。テッドと違って自分が病んでいることもさっぱり自覚していない。
「いいかキキョウ、嫌いなヤツ以外を全部好きに入れるな、普通の人っつうゾーンを作れ!」
「…うん……ふつう? すき?」
「好きなヤツと嫌いなヤツの間は全部普通だ普通、普通のヤツとはこれから一切過剰なスキンシップ禁止!」
我ながら暴論だとは思った。だがキキョウはぱっと顔を輝かせ、テッドににじり寄ってくる。暗闇にテッドの目が慣れたのか、あるいは闇にキキョウの白肌が冴えるのか。しなやかな肢体と股間の萎えかけているものだけがやけにはっきり浮かんで見える。
「…テッドは……好き。ん」
「だから何でそうなるー! んっじゃねぇよ!」
再びことんと首を傾けて愛くるしく口付けをねだる無垢なキキョウに、テッドは目の前が暗くなった。手を額に当て天井を仰ぐ。霧の船にいときゃ良かっためんどくせ、と言いかける。けれど寸前で飲み込んだ。キキョウに冗談は通じないと思い出したからである。
「……ああくそ、お前な、好きの中でも特別に大好きを作っとけ。そして俺はその大好きから除外しろ」
自分でも何を言っているのか分からなかった。だからキキョウはもちろん理解していないどころか、明朝にはテッドの教訓自体を忘れてしまうだろうと思った。
案の定、テッドの発言自体を聞かなかったことにしたらしいキキョウが、ほわりと微笑んでテッドへ甘えるように抱き付いてくる。仕方なかった。キキョウの首と腰へ腕を回して思いっきりきつく抱き寄せる。これだと逆に引っ付きすぎて何もできない。身動きさえも許してやらない。
いっそこのまま寝ちまえや、とテッドはキキョウごと寝転んだ。腹同士がぴったり触れ合って掛け布団なしでも温かい。まだ何かしたそうな耳元へおやすみとゆっくり囁いてやる。
しばらくごそごそしていた柔肌から、安らかな寝息が寄せて返すのはすぐだった。