キキョウの荷物を整理していた。
といっても二人揃ってまともな私物はほとんど皆無だ。おくすり、特効薬、保存食や予備の防具など、魔物の出る海原を渡りきるのに不可欠な最低限しか持っていない。事物がいかに虚しいものかを二人ともよく知っているのだ。
丸く小さい窓から切り取られる曇った景色の中心で、キキョウは飽きずに船端へちょんと腰掛け続け、竿で魚釣りをしている。食糧を確保するためでもあるが、キキョウ自身が珍しく好む、いわゆるキキョウの趣味である。キキョウに趣味などというものがあっただけでも驚くべきことだ。
薬の消費期限を一つずつ丹念に確認し――キキョウはそれぞれへ入手年月日をきっちり書き留めている――麻の袋へ貯まった埃を軽く叩き落とそうとして、トロイは何のてらいも持たず、それを逆さに引っくり返した。
と、ひとひら、落ちる紙切れ。
手の甲より小さいざら紙だ。指で摘まみ上げ両面を見る。にじんだ濃青のインクでたった一綴り、ほとんど掠れてしまって読めない。が、どうやらトロイの筆跡らしく思われる。
いつどこでこれを書いたのだろう。思い出すのが困難だ。なぜならこの字、確かに己のものなれど。
「そもそもこれは、何と書いてある?」
船室のノブへ手の引っかかる感触がした。まだ扉は開いてもいない。されど気配を違えず察し、トロイは釣りから戻ったキキョウへ労いもなくおもむろに問いを投げかける。
「…トロイさん!」
扉越しにもトロイの声は通ったらしい。キキョウが珍しく悲鳴をあげた。荒々しい音を立ててノブを回すとばたんと扉を開け放つ。らしくない勢いだ。
「…だめ!」
言うなり強引に、キキョウはトロイの手から紙を奪い返そうとした。必死な表情が珍しい。脇目も振らず飛びかかってくるので、皺になるからとトロイは咄嗟に腕を掲げてしまったのだが、これが逆効果になった。落ち着かせようと何度か名を呼ぶもキキョウはまったく聞く耳を持たず、どころか、トロイを押し倒すようにしてぐしゃりと紙を掴み取るや手のひらに隠し込んでしまう。
「…いや」
飛び乗った勢いでトロイの膝に馬乗って、キキョウは幾度も首を左右に振っている。極めて稀だ。否定の語句を伴う正しい否定法である。
だがまさかそのまま泣き出すとは思わずに、トロイは膝へキキョウを乗せたまましばらくの間硬直せざるを得なくなった。
「取り上げはしない。それは私の字だろう? 何と書いてある?」
「…くしゃくしゃ、なった……っ」
「大事なものだったか」
「…う」
「すまなかった」
「…うぇぇぇん……」
元凶が慰めるなど本末転倒、とはいささか思わぬでもない。しかしトロイは逡巡の末、キキョウの頭を己が肩口へと手繰り寄せた。あやすように背中を叩く。合間に顔を覗き込んでやり、塩辛い雫を舌先で拭う。
キキョウの場合、そしてトロイ自身も、大事な時ほど多くの言葉を必要としない。
キキョウは紙片を握りしめつつトロイの首へ両腕を回し、受け止め続けるトロイの耳元で、涙が枯れるまでさんざんに泣いた。
漁師が使う小船はボートに操舵室とモーターを上乗せしただけのような造りになっていて、紋章片を付けているというモーター部分は常に低い音がする。ぶうんと唸るのは水を送り出す音だ。巨船になるほど壁や船底の素材が頑丈なものになり、従ってこの音は小さくなる。この船においては時に眠りを妨げるほどよく耳に入る重低音をトロイもキキョウも好いていて、今も静かに鳴るこの音が、キキョウが心を落ち着けるのに重要な役割を果たしてくれた。
「…これ、――トロイさんの」
耳元にキキョウが蚊の鳴くような囁きを散らす。トロイは黙って続きを促す。
「…初めて、会ったとき。なまえ。こう書くって」
「そうだったか?」
「…ケネとポーとチーと、サイン、もらったよって。あのね、楽しかったの」
「思えば、まるで緊迫感のない漂流者だったな」
トロイは咽喉の奥で小さく笑う。キキョウは表情筋をぴくりとも動かさないで、その代わり、抱きつく腕の力を強める。
「…わすれられない……」
「あの日のことをか?」
「…うん。ぜんぶ。シャドがなくした伝票の内容も、スーがこんなことあったっけって言うことも、ぜんぶ、覚えてる」
「記憶力は才能の一つだ」
「………う、ん」
やけに歯切れの悪い返答。それきりキキョウは口を貝にした。
トロイはキキョウの頭へ戯れにぱらぱらと唇を落とす。キキョウはいやに落ち着きがなく、姿勢を変えたり腕の角度を変えたりと、きまり悪そうにもぞもぞ動いては目を伏せた。居心地が悪いのだろうか。だがトロイから離れる素振りも見られない。青い瞳が不安定に揺れている。
――何か、伝えたいことがあるのだ。
「もう一度私の名を紙へ書いて欲しいのか?」
「…ん」
「他にして欲しいこともあるか?」
「…うん」
「私にそれを説明してはくれぬか?」
「…いや」
つまり、トロイ自身が察しろということらしい。
何とも珍しい日があるものだ。ふっと笑みが零れ出る。
いつも従順で主張というものが滅多になくて裏も秘密もからきし持たぬ水鏡のごときキキョウが、こともあろうにトロイを試そうとするようなのだ。最近になってやっと見せるようになったキキョウの意志、時に否定的な態度を含め、キキョウはやっと、トロイに真正面から向きあおうとしている。今まで誰かの背中に追従することしかできなかったキキョウが、だ。
「…わすれないで……」
嫌だと言ったくせに、ぽとんとキキョウは心中を漏らす。
「二人の思い出を、ということか?」
「…ううん、なまえ」
「私の名をか? それとも、私に相対した仲間たちの名」
「…ううん」
「では、誰の」
「………」
キキョウはゆっくりトロイの胸から上体を離した。手のうちに汚く丸めてしまった紙を黙々と広げ、両手で挟んで丁寧に伸ばし、四隅をひとつずつ指先で押して、元通りになったとは言い難い紙片を大事そうに目の高さへ透かして。
そろり、微笑。
「…わたし、の」
まっすぐな青は、自らを詞で指し表した。